21.幌延(九月十日、水曜日、十五時十四分)
「そうですか。先生は豊富温泉を楽しまれたのですね」
駆けつけた熊林警部補は、嫌な顔のひとつも見せずにただ笑っていたけれど、正直なところ、青葉は気が気ではなかった。
「うん、おかげさまで……。
列車で戻って肝心の時間に遅れちゃうといけないから、熊ちゃんに直接迎えに来てもらったんだ。悪かったね」
悪かったね、という台詞からはおよそ想像ができないふてぶてしい態度で、恭助が返事をした。
「いえいえ、それでこれからどこに向かえばよろしいのですか?」
それを聞いて、恭助の目がきらりと光った。
「幌延駅だ――。
腹ごしらえも済んだから、いよいよ本格的な仕事の開始だね」
「あの……、本当にすみません。熊林警部補――」
と、横から青葉がぺこりと頭を下げた。
「いえいえ。先生には先生のお考えがおありのことでしょう。それでは急ぎましょうか」
熊林は、恭助と青葉が乗ったのを確認すると、車のエンジンを駆けた。
「今、何時?」
「一時四十五分ですね」
「そうか。まだちょっとだけ時間があるな……。
じゃあ、熊ちゃん。ものはついでだ。途中にあるトナカイ牧場に寄ってくれない? たしか、幌延町の有名な観光地だったと思うけど、どうせなら、そこも見物しておきたかったんだよ」
「恭ちゃん!」
ついに堪えきれなくなって、青葉は恭助に向かって怒鳴った。
「わっ、びっくりした。青葉? なに、怒ってんの?
大丈夫だって、まだ時間はちょっとあるからさ。心配はいらないよ。せっかくだから、北海道の旅行を少しでも楽しんでおかなきゃね」
「わかりました。トナカイ牧場ですね。ここからすぐですよ」
熊林警部補は、恭助のわがままな振る舞いを一向に気にしてはいないみたいだった。
『ほろのべトナカイ観光牧場』は、見晴らしのよい広い野原に切り開かれていた。ログハウス風の大きな建物がポツンと建っていて、その中でレストランや休憩場が運営されている。園内に入るのは無料だが、口蹄疫ウィルス対策のため、建物の出入り口に消毒液を沁み込ませた絨毯が敷かれていた。
「おお、いるいる。トナカイだ!」
子供のようにはしゃぎまわる恭助を見かねて、またもや青葉が癇癪を起した。
「もう、いいかげんいしなさい。恭ちゃん。熊林警部補は忙しいのよ!」
「ああ、大丈夫ですよ。先生には先生のお考えが……」
意気込む青葉の剣幕に、むしろ熊林警部補の方がたじたじとなっていた。
「――ないです! 恭ちゃんって、いつもいい加減なんですから!」
それを聞いた恭助が、ムッとして反論してきた。
「いや、俺は仕事をする時はきちんとするつもりでいるよ」
「じゃあ、はやくしなさいよ。その仕事とやらを……」
「それがさあ、まだできないんだ。時間が来ないからねえ」
「どういうことよ?」
広場でのんびりと寝転んでいる二頭の山羊を見つけて、恭助がひょこひょこと近づいて行った。売店で購入したトナカイ用のえさをポケットから取り出すと、恭助は山羊のすぐ前に座り込んで、楽しそうな表情を浮かべながら、それを食べさせ始めた。少し遅れて、青葉と熊林警部補もそこにやって来た。
「ええと、どこから話せばいいのかな? それじゃあ、まず青葉に訊ねてみようか。
この事件の犯人って、いったいどんな人物なのだろう?」
「それは……、残忍な通り魔でしょう? それ以上のことはわからないわ」
と、青葉ははっきり断言した。
「そうですね。通り魔だとすれば、犯人の性格なんて特定しきれるものではないですよね」
熊林警部補も青葉の意見に同意する。
「そう。でもその通り魔君は、実に奇妙奇天烈な奴で、一日中待っていても誰も下車しないであろう秘境駅をわざわざ選んでおいて、そこで行きずりの人を見つけて、襲いかかったんだ。正にアリジゴク顔負けのあっぱれな執念と忍耐強さの持ち主だよね。
そして、ようやく飛び込んできた待望の獲物をあっさり殺しておきながら、肝心のお金には目もくれずに、しかも列車を利用することもなく、まんまと現場から姿を消している。
わざわざご丁寧に首を絞めあげておいてから、あげくの果てに十二箇所の刺し傷でもってとどめを刺す。残忍この上ない奴だ。
でもさ、そもそも獲物を十二箇所も刺す通り魔なんているのかね?」
「お金を取らなかったのは、急いでいたからじゃない?」
恭助の口元がふっと緩んだ。
「どうしてこいつが急いでいたと、青葉にはわかる?」
「だって、次の列車が来ちゃったら、乗客に顔を見られてしまうかもしれないし……」
「次の列車は一時間後にしか来ない! 絶対に――」
「そうね。でも、地元の人がやってくるかもしれないわ?」
「そんなことを怖れる小心者が、遺体を十二回も刺したりなんかするかい?」
「それでは、動顛してお金を取るのをうっかり忘れてしまった、てのはどうですか?」
今度は熊林警部補が意見をしたが、恭助は首を振った。
「こいつは極めて冷静な奴だよ。だって、お金は取らなかったのに、水筒はきちんと持ち去った」
「本当に犯人が持ち去ったのかしら? 水筒を……」
「ほかにどう説明できる? なにしろ現場は、誰も人が出入りしない場所なんだぜ」
「なんのために?」
「犯人を特定してしまう怖れがある水筒を、現場から持ち去るためにさ」
青葉はわけがわからなくなって、恭助に食い下がった。
「だって、その水筒って、もともと又村さんの所持品だったのよ?」
「そうだよ……」
山羊にえさを与え終えた恭助が、すっと立ち上がって、ズボンに付いた砂を払い落とした。
「――そして、その又村こそが、この事件の真犯人だ!」
青葉と熊林警部補が同時に顔を見合わせた。
「あきれた。又村さんが笹森さんを殺せるわけがないじゃない?
だって、又村さんは五時過ぎまで私といっしょにいたのよ。たしか、笹森さんの遺体が発見されたのはその一時間前の四時じゃなかったかしら?」
「そう完璧なアリバイだ」
「そうよ。不可能なのよ!」
「そして、完璧なアリバイってのは、いったん破られてしまえば、得てして犯人を特定してしまう証拠と化してしまうものだ。いわば、両刃の剣なんだよね」
「ひょっとして、先生――。又村はなんらかの遠隔操作を駆使して、列車の中から笹森を殺してしまったとか……?」
「へえ、熊ちゃんって、案外オカルト好きなんだな」
恭助がくすくすと笑い出した。
「仮に電車の中から笹森を超人的な手法で殺せたとして、水筒はどうやって持ち去ったのだろう? やはり列車の中から遠隔操作で持ち去ったのかな?」
「水筒だけなら、あとになってから現場に戻れば、持ち去ることは可能ではないでしょうか?
でも、無理ですか……。自分たちが現場に駆けつけたのが四時半でしたからね。その時、又村は、まだ青葉さんとごいっしょに抜海駅にいたというお話でしたからね」
熊林警部補はあきらめて引き下がった。如月恭助がにっこり笑ってさらなる問題提起をした。
「本当に又村は、最後まで青葉といっしょにいたのだろうか?」
「だって、ずっと列車でいっしょだったじゃない?
笹森さんは三時二分に安牛駅で降りたけど、私と又村さんはそのあとも列車に乗って、抜海駅で別れるまでずっといっしょだったのよ……」
「でも、青葉は安牛駅を出た直後に疲れて眠ってしまった。そして、下沼駅の手前で目を覚ましている。その間、又村が青葉のそばにいたのかどうかは確証が取れていない!」
「確証できないといったって、所詮は列車の中なのよ。安牛駅に行けるわけがないじゃない? まさか、窓を開けて、翼を取り出して、飛んでいっちゃったとでもいうのかしら」
青葉も負けてはいない。それを聞いて、恭助が質問の矛先を変えてきた。
「安牛駅から下沼駅まで、途中に何個の駅があったっけ?」
「ええと、南幌延、上幌延、幌延の三つよ」
「その通り。それでは核心に入ろうか。
途中に三つの駅しかないのに、下沼駅の列車の到着時刻は十五時五十六分だ。安牛駅を列車が出たのは十五時〇二分。
その間、ちょっと時間がかかり過ぎているとは思わないかい?」
「そういわれてみれば、そうよね……」
すると、恭助の代わりに熊林警部補が答えた。
「それは、青葉さんの乗られた普通列車は、幌延駅で時間調整のためにしばらく停車をするのです」
「そう。俺も時刻表をじっくり見ないと気づかなかったけど、青葉の乗っていた列車は、幌延駅の到着時刻が十五時十四分なのに、幌延駅を発車する時刻が十五時四十九分なんだ。実に三十五分の停車時間があることになる。結構、珍しいよね、そんなに長いのは――」
「まっ、まさか……、その時間を利用して、幌延駅から安牛駅まで戻って笹森を殺してきた、と先生はおっしゃりたいのですか?」
熊林警部補の大きな身体がぐっとのり出した。ここまで彼が動顛する姿を、青葉は初めて目の当たりにした。
「ご名答! 車を使えば可能なんじゃないかな?
そして、これからそれを確認するのさ。だから、十五時十四分にならなければ仕事ができないってこと」
熊林警部補がポンと手を叩いた。
「さすがは先生!」
「でしょ、でしょ――。
やっぱ、俺って天才かなあ?」
熊林警部補と恭助は互いをたたえつつ、手を取り合いながら、呆れる青葉を横に取り残して、いつまでもはしゃぎまわっていた。
時刻十四時五十分に、熊林警部補の運転する車が幌延駅までやってきた。
「熊ちゃん、駅からそう遠くないところでさ、しばらく車を停めておいても駐車違反にならない場所ってどこかにないかな?」
「それは、職業柄申し上げるわけにはいきません。街中ならどこでも駐車違反になりますからね」
「だけどさ、実際問題として、通報されなきゃいいわけでしょ。そういう特別な場所だよ」
「恭ちゃん! だから、そういう場所を熊林警部補の口からはいえるわけがないってことでしょ?」
「わかりました。地元の住民にそれほど迷惑がかからない場所なら、おそらく、いくらでもあると思います」
「その一つにこの車を停めて欲しいんだ。駅からできるだけ近くで、一日じゅう置きっぱなしにしていても、おとがめがなさそうな場所に……」
「わかりました。適当に探してみましょう」
そういって、熊林警部補は苦笑いをした。
熊林警部補は、幌延駅の脇にあるちょっとした空き地に車を停めた。
車を降りた三人は、駅舎の待合室へと入っていった。時刻は十五時八分だ。
「もうすぐ普通列車稚内行きがやってくる。到着予定時刻は十五時十四分だ。その列車が到着したら、俺たちは車に乗って、すっ飛ばして安牛駅に直行する。
そう。又村俊樹が八月二十一日に取った行動を再現するんだ!」
恭助が声高らかに宣言をした。
到着予定時刻の十五時十四分に、予定どおり列車はやってきた。二番ホームから降りた乗客たちが跨線橋を渡って改札口に向かっている。一番早い乗客が、改札口にいる駅員にフリーパス切符を提示して、改札を通過した。彼にとっては、この幌延駅で下車するのが目的ではなくて、三十五分間の長い停車時間をぶらぶらとつぶすために、駅の外までやってきたのであろう。
「よし、走るぞ!」
三人は幌延駅を出ると、走って車を置いた場所まで戻ってきた。
「熊ちゃん、ちょっとすっ飛ばしていいからね。信号は無視していいから」
「先生、そうはいかないですよ……。仕方ないですね。それなら、サイレンを鳴らしますか」
「いいよ、そうしてくれ。安牛駅まで全速直行で、頼むよ」
「わかりました」
熊林警部は覆面パトカーにサイレンを取りつけて、サイレンを鳴らしながら走行を始めた。途中に信号が一箇所あったが、赤だったのを強引に通過した。もっとも、交差点にほかの車はいなかったから、なにも混乱は起こらなかった。
道道二五六号線に入るとしばらくは車に出くわさなかったが、やがて前方に小型トラックが走っているのが見えた。熊林警部補は、反対車線にはみ出して、難なくそれを追い抜いた。もっとも、こちらはサイレンを鳴らし続けながらすっ飛ばしているのだから、トラックの方から道を譲ってくれたといった感じだ。
そうこうしながら、一行は安牛駅に到着した。駅前の空き地に車を停めて、車から降りた恭助は、真っ先に腕時計に目をやる。
「十五時二十六分。ここに来るまでに要した時間は十二分か……。
まずいな、予想していたよりもちょっとかかり過ぎだ!」
「目いっぱいすっ飛ばしましたけどね」
「帰りも同じく十二分の時間がかかるとすると、ここを十五時三十二分に出なければならなくなる。ここで笹森を殺して、死体を駅に転がして、十二箇所の刺し傷を作って……。
うーん、忙し過ぎるよな」
「ちょっと無理よね……」
「もう少しくらいなら、スピードは出せますよ」と、熊林警部補がいった。
「もう少しすっ飛ばしたら……か。
いや、無理だ。いずれにしても、時間がなさ過ぎる!」
「それじゃあ、やっぱり又村さんには犯行はできなかったってこと?」
「畜生。あと十分の余裕さえあれば、まだどうにかなるんだけどなあ」
恭助が頭を抱え込んだ。それを見ていた青葉がポツリとつぶやいた。
「南幌延駅からなら……」
「なに?」
「だから、もし又村さんが南幌延駅で降りたのなら、ちょうど十分くらいの時間が稼げないかしら?」
「南幌延駅の列車の停車時刻は十五時〇五分です。それだけで九分稼げますね!」
「そうか。青葉が乗っていた列車は、安牛駅と南幌延駅の両方に停車する珍しい列車だったんだ。それに南幌延駅から安牛駅までなら、来るのに五分くらいしかかからないだろう。合わせて十五分が稼げる!
熊ちゃん、急いでここから南幌延駅に直行だ。またサイレン頼むぜ。行くまでにかかる時間も測らなきゃいけないからね」
恭助の指示に従って、サイレンを鳴らしながら安牛駅を出た車が、そのまま南幌延駅まで一気に走り抜けた。
「要した時間は四分とちょっと。やっぱり五分はかからない!」
助手席にいる恭助が、膝をたたいて歓喜の声を発した。
恭助たちがやって来た南幌延駅は、ひらけた土地にポツンとたたずむ駅で、ホームは板張りで短いものだった。道路を挟んだところに小さな待合室が建っている。白地の壁にハの字型をした屋根を持つ、とてもシンプルな小屋だった。
車から降りた恭助が、その待合室に入っていった。
「ぼろい小屋だなあ。今にも崩れそうだ」
「あら、味わいがあって、いいじゃない?」と、青葉が即座に反論する。
待合室の中は、薄いベニヤ板の壁になっていて、しかも塗装もほどこされておらず、木肌が直に現れていた。雨風はかろうじてしのげるかなといった、とても頼りない待合室だ。恭助が室内に貼ってある時刻表をじっと見ていた。
「たしかに稚内行きは十五時〇五分にここに停車する。
そして、その列車が幌延駅を発つのが十五時四十九分。その間の時間は、四十四分もある。ここから安牛駅までは五分で行けるから、仮に殺しやその他に二十分を要したとしても、まだ二十分も残っていることになる。それだけあれば、安牛駅から幌延駅まで戻ることが十分に可能だ!
よし! もらったぜ」
恭助が勝利を確信したような雄叫びをあげた。
「今、思い出したんだけど――、私、南幌延で列車が停まっている時に、又村さんと話をしていたのよ」
突然、青葉が申し訳なさそうに小声でささやいた。
「なに、本当か?」
さっきまで有頂天だった恭助が、今の青葉のひとことには、明らかに動揺を隠せなかった。
「うん、そうらしい……」
「らしい、ってなんだよ?」
「そのお、はっきり覚えていないのよ。
たしか、又村さんがそう説明をしたの。南幌延駅の待合室が木造の小さな小屋だって……。今、この待合室を見ていたら、それを思い出しちゃった」
「又村が南幌延駅に列車が停まっている時に、そう説明したのか?」
恭助が青葉に確認をうながした。
「えっ? 違う。あとからだわ。
下沼駅で、私が目を覚ました時にそういわれたんだ。そうよ。今、思い出した!」
「なるほどね。狡猾な奴だな……」
頭を掻きながら、恭助が感心していた。
「又村は青葉に暗示をかけたんだ。さり気ない暗示だけど、効果はてきめんだ。うまくいけば、又村が南幌延駅で下車しなかったと、青葉に信じ込ませることができるからね」
「そうよ。私が覚えているのは、間違いなく、安牛駅での光景までだわ!」
「それにしても、本当に都合よく寝てくれたものだね。青葉は……。
又村にとって、正に絶好のタイミングだ。
まるで、睡眠薬でも盛られたかのような……ね」
小豆色の水筒――!
まさか、あの紅茶の中に仕込まれていたのだろうか? 睡眠薬が……。
「ようやくわかったかい?」
恭助が優しく声をかけてきた。
「うん。私、又村さんに勧められて、水筒の中の紅茶をいただいたの。
それを飲んだのが雄信内駅に着いた時で、そのあと急に、私眠くなったんだわ……」