20.豊富(九月十日、水曜日、十一時〇〇分)
豊富駅で実際に降りてみると、幌延駅で見た光景とこの駅の雰囲気はとてもよく似ているな、と青葉は思わざる得なかった。町は同じような活気に満ちあふれていて、駅前には同じようなバス停があった。事件がほぼ解決しているようなことをいっていた恭助が、あとになってから、わざわざ誘ってまでしてやって来た豊富町なのだ。もしかしたら、事件解決の重要な手がかりが、ここにあるのかもしれない。でも、正直なところ、青葉にはそれがさっぱりわからなかった。だからかえって、もどかしさを増大させてもいるのである。いったい、恭助はここに、何を求めているのだろう?
「ええと、豊富温泉行きのバスは十一時四十分発か……。青葉、今何時?」
「十一時をちょっと過ぎたところよ」
「ええっ、まだ三十分以上もあるのかよ。仕方ない。青葉、また歩こうか?」
「却下するわ!」
ムッとしている青葉を、逆に笑わせようでも思ったのか、恭助がおどけながら顔を近づけてきた。
「知ってるかい? 豊富温泉って、日本で一番北にある温泉なんだぜ」
「温泉郷でしょう? 温泉なら稚内にもあったわよ」
「ちぇっ、揚げ足を取られたか。まあいいや。
とにかく目からうろこの温泉らしいよ。その豊富温泉ってのはさ」
「どんな温泉なの?」
「ええとね、前にニュースでやっていたのを偶然に見たんだけどね。その温泉は……。
やーめた、説明するより実際に見てのお楽しみだ」
いたずら小僧のように、恭助がくすくすと笑っていた。
バスは、駅を発ってから十分後に、豊富温泉の停車場に到着した。そこは、温泉街といってもかなり小規模なもので、辺りは閑散としていた。
「おいおい、ちっとも活気がないじゃないか? やばいな。もしかしたら、はずれかな?」
例によって、恭助がさっそく愚痴をこぼし始めた。
一本しかない温泉街のメイン道路を、ふたりは黙ってまっすぐに突き進んでいった。すると、突き当りに『ふれあいセンター』という建物が見えた。どうやらここは日帰りの入浴ができる施設のようだ。
恭助が先に立って、ずけずけと中に入っていったので、青葉もそれについていった。
「混浴じゃないのが残念だけど、まあ楽しんできてくれ」
下品で冗談めいたことを口にしてから、恭助は受付にお金を払おうとした。
「結構よ、私はここで待っているわ」
入口のところで立ち止った青葉が、素っ気なくそう告げると、
「だめだめ、ここまで来たら絶対に入らなきゃ。俺が許さないからね!」
と、いつになく恭助がしつこく食い下がってきた。恭助が許す許さないの問題ではないと思ったが、観念して、青葉も温泉に入ることにした。
「タオルが有料か……。持ってくりゃよかったね。今度から気をつけよう」
恭助と別れてから、ひとりになった青葉は、女湯の暖簾の下を潜っていった。そういえば、たしか又村もこの豊富温泉のことをユニークな温泉だと評していた。いったい何が目からうろこなのだろう?
浴場の扉を開けた時、青葉はギクッと肩を震わせた。
ガソリンの臭いが……、する?
浴室の中には人が誰もいなかったから、はしたないことだとは思いつつも、青葉は、湯船のお湯を手のひらですくって、こっそりと鼻に近づけてみた。お湯からははっきりとガソリン特有の嫌な臭いがただよってくる。こんなお湯にはとうてい入れまいと青葉は思ったが、すでにお金も払ってしまったことだし、どうしようかと悩んだ末に、仮にも名湯とその名を馳せた温泉であることに間違いないはずなので、ええいままよ、とばかりに覚悟を決めて、湯船の中に色白の細い身体をザバッと沈めた。
入ってみると、意外にもお湯はさらさらとしていて、とても心地よかった。おおむね白いのだがわずかに藻色に濁った湯の表面には、小さく怪しげな油膜がところどころに浮いていた。お湯につかると、増々、ガソリンの強い臭いが込みあげてきたけど、しだいにそれにも慣れてきた。
「ああ、なんかいいかも……」
思わず独り言を発してから、はっとして、人がいないことを確かめて安堵する自分を、青葉は恥ずかしくなって、ひとりで顔を赤らめていた。
でも、期待していたものよりはるかに素晴らしい温泉であった。いろいろとごたごたがあったけど、とにかく入ったのは正解であったと、不思議な秘湯を十分に満喫した青葉は、足元軽やかに誰もいない浴室をあとにした。
ふれあいセンターの中には、お土産売り場と食堂があって、少数の客と数人の従業員がいた。恭助の姿が見えないから、まだ浴室にいるのであろう。
青葉はこっそり腕をまくって、肌の匂いを嗅いでみた。まだかすかにガソリンの臭いが残っているけど、弱くなったガソリンの臭いは、そんなに嫌な感じがしない。ちょっとしたおしゃれな香水といっても決していい過ぎではないように思えた。何よりもさっきから肌がポカポカとしていて、しっとりとすべすべになっている。皮膚に効能がある温泉だと、たしか浴室に説明書きがあったけど、豊富温泉はその点に関して極めて優れた温泉であることに疑いの余地はない。
しばらくして、ようやく恭助が戻ってきた。その表情からは幸せこの上ない満足感がうかがえる。
「最高だね、ここは。今まで入った温泉の中で一番気に入ったよ!」
「ずいぶん長かったわね。恭ちゃんがそんなにお風呂好きとは知らなかったわ」
「いや、長くなったのは別の理由なんだ。浴室に二種類のボディシャンプーが置いてあったでしょう」
「二種類?」
「そう。見た感じ普通のボディシャンプーと、もう一つは薄気味悪い赤い液体が入ったボディシャンプー」
そういわれてみれば、そんなのが置いてあったような気もする。
「気味の悪い方は、見た感じからして、赤いコールタールじゃん? でも、仮にも浴室にこれ見よがしにドカッと置いてあるくらいだから、俺はてっきり新商品の石鹸だと思ったんだ。一見、単なる油の固まりのように見えるけど、お湯をかけて洗い流せば、きっと、さらさらと溶けて流れ落ちる特殊な化学物質でできていると思ったわけさ。
そこで、身体じゅうにその赤いドロドロを塗りまくってさ、さあ、身体を流そうとお湯をかけたら、ちっとも落ちないじゃん。本当にただのコールタールでさ。
まいったよ。おかげで、それを洗い流すのにここまで時間がかかっちゃったんだよね」
「ふふふっ、いかにも恭ちゃんらしいわね」
「でも、コールタールにもなんとなくだけど効能があったような気がする。肌がすべすべになっちゃったからね。見てよ、ほら」
そういって、恭助が得意げに腕をまくった。
食堂の方からおいしそうな匂いが漂ってくる。
「ちょうどいいや。ここで腹ごしらえしていこうよ」
気がつくと、さっきまで青葉の横にいたはずの恭助が、もう向こうの椅子に腰かけて、手を振っていた。
「エゾ鹿ジンギスカンだって、これにしようよ」
メニューを指差しながら、恭助が提案した。
「ジンギスカンって、鹿じゃなくて羊の料理じゃなかったかしら?」
その怪しげで矛盾した命名に、青葉はちょっぴり警戒をした。
「細かいことは気にしない。
おおい、おばさん。エゾ鹿ジンギスカンを二人前、お願いします」
青葉の意志は全く無視されて、料理の注文は一瞬で終わっていた。
しばらくしてやってきたのは、中央に煙突のような口があいた不思議な形状の肉焼き鍋と、楕円の金属皿の上にところせましと敷き詰められた生レバーのような色をした不気味な赤身肉だった。
「これが鹿の肉……なの?」
レバーが苦手の青葉は、その色にすっかり怖気づいているようすであった。恭助はというと、目の前のご馳走に理性がすっかり失われているようすであった。
「多分ね。さあ、お味はどんなもんだろう?」
鍋の上で焼き上がった肉を、ほぼ同時に口に含んだふたりは、ほぼ同時に目を大きく見開いて、顔を突き合わせた。
「なに、これ?」
「すげーうまいじゃん!」
「本当! 甘くて、歯触りがとても柔らかい……」
鹿肉に漬けられたたれが、絶妙な味をひきたてている。
「肉の表面と中では、味が違うね。そもそも、牛や豚の肉の味とは、全然違うや」
堅過ぎず、柔らか過ぎず、表面はカリカリで、内側はアルデンテにゆでたパスタのような絶妙な歯ごたえに加え、肉自体にほんのりとした甘みがのっかっている。でもそれは霜降り肉の脂肪成分によるこってりとした甘みではなくて、赤身の筋肉繊維の中に閉じ込められた焼き林檎を思わせるぼんやりとした甘みであった。噛みしめるとプチプチとした感じで肉がはじけて、独特な旨みが口の中に広がっていく。
「これが、鹿のお肉なのね……」
「うん、ジビエ料理の王さま、鹿肉か。たしかに、こいつは病み付きになりそうだな」
最果ての地に湧く不思議な温泉といい、珍しい肉料理といい、至福の時間を過ごすことができたというか、貴重な体験ができたと、青葉はいつになく興奮していた。
気がつくと、壁にかかっている時計を恭助がじっと見つめていた。
「時間がだいぶ経っちゃったな。仕方ないから、熊ちゃんに迎えに来てもらうか?」
至福の喜びに満たされていた青葉の顔が、一瞬で引きつった。やはり、恭助はいつものずうずうしい恭助以外のなにさまでもなかったのだ。これから熊林にどういいわけをして謝ればいいのだろうと、青葉はひとり悩みに耽るのであった。