19.安牛(九月十日、水曜日、七時四十五分)
熊林警部補の車は、翌朝七時ちょうどに、天塩警察署にやってきた。
「やあ、朝早くからご苦労さん。これから安牛駅に行ってみたいんだけど」
さっそく恭助がなれなれしい要求を始めた。
「はい、青葉さんもごいっしょに行かれますか?」
「ええ、それじゃあ……」
青葉自身は、現場に行きたくはなかったけれど、拒否ができる流れでもない。青葉たちを乗せた車は、四十分ほど走って、ようやく安牛駅までたどり着いた。
「ありがとう、これでいいよ」と恭助が熊林にいった。
「しばらくここでお待ちしましょうか?
その、次にこの駅に停まる列車は、おそらく、午後にならないと来ないかと……」
「うん、知っているよ。でも、別に助けも必要ないし、熊ちゃんは熊ちゃんの仕事に専念していてよ。俺たちのことはしばらく忘れていいからさ」
相変わらず、恭助は能天気な性格だ。
「そうですか? じゃあ、お気をつけて」
そういうと熊林警部補は、青葉と恭助を安牛駅に残したまま、去っていった。
「いやあ、本当になにもないところだなあ。こうまでものがないと、かえって感心しちゃうよ」
安牛駅は、道道二五六号線からわきに逸れた引き込み道路が行き止まりになるところにあった。およそ三百メートルほどの引き込み道路――別名、安牛駅メインストリート、の途中には建物がなく、人がいそうな気配は全くしなかった。駅の前まで来ると、駅前ロータリーといっては大げさだが、車が数台停められるほどの、アスファルト舗装がなされた、ちょっとした空き地ができていて、反対側には黄色い塗装の貨車駅舎が設置されていた。線路の向こうは、横一面に広がった深い森が、線路のすぐそばまで迫っていた。
ふたりは、貨車駅舎の扉を開けて、中へ入っていった。そこには駅に列車が停車する時刻表が貼ってあった。
「ええと、次にやってくる列車の時刻はと……。
ひゃあ、まじで十五時〇二分までないじゃんか? 嘘だろう?
熊ちゃんのいっていたことって、冗談じゃなかったんだ!」
本気で放心状態になっている恭助の姿を見て、青葉がため息を吐いた。
「それで、恭ちゃん、これからどうするの? まさか、三時までここで待つつもりじゃないでしょうね?」
「ふふっ、俺さまの計画にぬかりはないよ。最初から、調査を済ませたらとなり駅まで歩いて行くつもりだったのさ。
青葉。ひょっとしたら、びっくりしたんじゃないか?」
恭助が挑発をしてきたが、青葉はすまし顔で問いかけた。
「となりの駅って、どっちの駅よ?」
「えっ、雄信内駅に決まっているだろう。だって、南幌延駅にも午前中は列車が停まらないからね。そのくらいのことはちゃんと調べてきたのさ」
「じゃあ、雄信内駅まで、どれくらい歩かなければいけないの?」
「ええと、そこまではあんまり考えていなかったな。どうせ、ひと駅くらいすぐだろう、と思っていたけど……」
青葉は黙って、持っている時刻表を恭助に手渡した。
「サンキュー。
雄信内駅には十時十四分に停車する列車があるのか。ええと、距離は……、六キロぉー?
とどのつまり、二時間弱もかかるってことか。畜生、ギリギリだな」
「ええっ、冗談じゃないわよ。二時間も歩けるわけないじゃない!」
現状を把握した青葉が、泣き言をこぼした。
「ちゃんとトイレはここで済ませておけよ。途中にトイレはないからな。俺はその間にこの駅の調査を済ませてくる」
そういって恭助は、奥にあるトイレの扉を指差して、さっさと待合室から出ていってしまった。青葉は扉に近づいてみた。取っ手が外されていて、中には入れなくなっていた。つまり、ここは使用禁止、という意味なのだ……。
「もう、勝手にすれば!」
青葉が貨車駅舎の外に出てくると、恭助はホームにいて、写真を撮っていた。
「ここに倒れていたんだな。笹森が」
近づいてきた青葉を横目に、恭助は上りの乗車口地点を指さした。
「それにしてもさあ、わざわざ秘境駅を訪問していた時に、偶然そこにやってきた見知らぬ通り魔に殺されてしまう。全国でも有数のひとけが希薄な場所でねえ。
この笹森という男、さぞかし運のない野郎だな」
「そんなこというものじゃないわ。仕方がないじゃない。異常な犯行に巻き込まれてしまったのだから……」
「そう。極めて異常な犯行だ」
急に恭助の顔が真面目になった。
「誰もいるはずのない秘境駅にたまたまやってきた旅行客を狙って惨殺する通り魔だ。そして、その殺人方法たるや極めて残忍。首を絞めて、それでも飽き足らず、遺体を十二箇所も刺すなんてな」
「そうよね。たしかに異常だわ」
「そして、金銭関係には一切手を触れなかった。
この奇妙な通り魔君は、土壇場で動揺して、肝心の仕事のお目当てを忘れてしまったようだね」
「でも、そんな通り魔、捕まえるなんて不可能よ。手がかりもなにもありはしないじゃない?」
「そうなってしまうよな」
突然、青葉が大声を上げた。
「あっ、そうだ! 笹森さんの所持品の中に水筒がなかったわ!」
「水筒? そんなのなくても、一時間くらいならどうにか我慢できるだろう。最初から持っていなかったというだけさ」
「そうじゃないわ。ないのがおかしいのよ。
笹森さんの所持品の中には、小豆色の水筒があるはずなんだから」
青葉は、列車を降りる時に又村が手渡した小豆色の水筒を、恭助に説明した。
「だから、私はその水筒を取り返したかったんだけど、怖くて、いい出せなくて」
「青葉が口をつけた水筒をね。そいつはおそらく無事には残っていないだろうね。
なにしろこのおデブちゃん、よっぽど青葉のことを気に入っていたみたいだからなあ」
「でも、なくなっているのはおかしくない?」
「うん、たしかにそうだ。犯人は、現金やカードを持っていかずに、水筒だけは持ち去った。青葉が口にした水筒をねえ……」
恭助はもう一度時刻表を取り出すと、しばらくじっと見入っていた。
「青葉。雄信内駅に行くのは取り止めだ」
「そう。やっぱり熊林さんにここまで来てもらうのね」
青葉はほっと胸をなで下ろした。
「違うよ。反対の幌延方向に向かうのさ」
「ええっ、だめよ。となりの南幌延駅までの距離ならまだ近いけど、たとえそこにいっても、ここと同じで、三時まで列車は来ないのよ」
「そうだよ。
だから、南幌延駅じゃなくて、幌延駅まで歩くのさ。
なあに、せいぜい十キロくらいだ。雄信内駅に行くのに毛が生えたようなもんさ」
その言葉をいい終わらないうちからもう、恭助は安牛駅前の小道を歩き始めていた。
線路に並行して道道二五六号線が走っているのだが、安牛駅から道道に出るまででも、相当歩かなければならない。
途中は、原野なのか牧草地なのかよくわからない土地がどこまでも広がっていて、ぶらぶら歩いている人はひとりもいなかった。
道道二五六号線に出ると右手が幌延駅の方向で、左手はちょっとした広場になっていた。石碑が立っていて、安牛小学校の跡地であることがわかった。
「秘境駅が好きな笹森がわざわざ降りたがる理由がわからなくもないな。本当にここはなんにもない秘境の駅だ……」
呑気に口笛を吹きながら、恭助が感心していた。
道道に出ても南北に道路がひたすら延びているだけで、人が住んでいるようすはなかった。
三十分程歩いてようやく、隣接駅である南幌延駅に着いた。
この辺りには、まだ多少の民家が見られるが、極端にさびれた土地であることには違いない。
その区画を通り過ぎると、また道路以外には何もない世界が前方に立ち塞がっていた。
「あー、まさか本当にコンビニがないなんて思わなかったー」
またもや恭助が弱音をあげた。予想していたとはいえ、まだ音をあげるには早過ぎはしないか、とばかりに、青葉は再びため息を吐いた。
「当たり前じゃない、馬鹿じゃないの? 恭ちゃんたら……」
「それにさ、たとえコンビニがなくっても、自動販売機くらいはあると思っていたんだよね。
てっきり熊ちゃんのいっていたことは、冗談の脅しだとばかり思っていたから。
それにしてもさ。いまどき、自動販売機が置いてない場所が日本に存在するなんてな……。
あー、とにかく、死ぬー」
「はいはい、わかったから、もう黙っていてちょうだい」
ふたりはしだいに会話も減ってきて、黙り込んでいた。途中、大きな橋があって、下に川が流れていた。でも、よく見ると、川面には大量の藻が浮かんでいて、流れが全くないようであった。
「三日月湖かな?」
「そうかもしれないわ。でもきれいな光景よね」
「おい、ちょっとあれ見てよ。牛が泳いでいるよ!」
突然、恭助が大声を張り上げた。
「そんなわけないじゃない?」
疲れているのと、トイレに行きたいのを我慢してるのとで、青葉には恭助の相手をするゆとりが失せていた。
「いや、本当だってば。放牧された牛の群れの中の何頭かが、水の中に入っているんだ」
恭助が必死にくいさがったが、青葉は子供をあやすように答えた。
「さあ、行きましょう」
上幌延駅も貨車駅舎の駅で、そのさびしげな雰囲気は安牛駅に引けを取らなかった。ただ、この駅から少し離れたところには、大きな牧場があって、そこでは人が働いているようだ。
「まだ、こっちの駅の方がましだね。安牛駅よりもさ」
ましというのは、秘境度がましである、という意味のようだ。
「そうね。恭ちゃん、でも、そっちの道にいったらだめよ。幌延駅に行けなくなっちゃうから」
青葉がスマホの電子地図を確認しながらいった。
「えっ、こっちじゃないの?」
「違うわよ。恭ちゃんって、本当にいい加減なんだから」
とっさに、青葉は日頃思っていたことをうっかり言葉に出してしまった。しまった、と思ったけど、恭助は平然としていた。
「青葉ってさあ、本当にしっかりしているよな。さすがは優等生だ」
「その優等生って呼び方、やめてくれない?」
「はははっ、さあ、あと一駅で幌延駅だ。案外すぐだったじゃないか?」
「喜ぶのはまだ早いわよ。地図によれば、ここから幌延駅までの距離は、これまで歩いてきたのとほとんど同じみたいよ」
「ええっ、それじゃあ、まだ一時間も歩かなきゃいけないのかい? もう、やだよー」
十キロくらいわけない、などといっていたのも、あれもこれも全部が適当発言だったのだ。それに、ひとつひとつの困難にぶつかるたびに音を上げていくなんて、いかにも恭助らしい、と青葉は思った。
上幌延駅からの道のりは本当に長かった。ふたりは再び会話もしなくなり、静かに歩いていた。
上幌延駅を過ぎてからさらに一時間近く経過しただろうか。
「あっ、コンビニだ。やったあ、水が飲める!」
目の前のY字交差点の向こう側に、オレンジ色をしたコンビニエンスストアの建物が見えた。喜びはしゃぐ恭助を横目に、青葉も内心ほっとしていた。水が飲めることより、トイレに行けることのほうが、ずっとありがたかった。
ふたりは少しのあいだ、そこで休息を取った。
「もうここから歩いて十分もかからないみたいね、幌延駅まで」
「今、何時?」
「ええと、十時二十五分ね」
「そうか、じゃあ急ごうぜ。十時四十四分の列車に乗りたいんだ」
さっきまで泣きべそをかいていた恭助は、すでに、いつもの無邪気で偉そうな恭助に戻っていた。
幌延駅の周辺は小さな町になっていて、駅前には宿屋があった。そのほかにもスーパーマーケットや郵便局、居酒屋や本屋にガソリンスタンドなどの店が軒を並べていた。
「この町はひととおりそろっているね。コンビニもあったし」
「へえ、京都みたいに、通りに一条、二条って、名前がつけられているのね」
「一応は碁盤目の道路を目指しているんだろう。いかんせん、規模は小さそうだけどね」
ふたりのあいだに、徐々に会話が増えてきた。
「ところで、恭ちゃん。事件解決のめどは立っているのかしら?」
青葉は、ふざけてばかりいる恭助に、だめもとで訊いてみた。しかし、恭助から返ってきた言葉は、その時の青葉が全く予想しない意外なものだった。
「素人探偵にできることなんて、たかが知れている。最後に頼りになるのはやっぱり日本が誇る優秀な警察だよ。だから俺は、俺にできることの最善を尽くすだけだ。そして、今回の俺にできることなんて、ごく限られた些細なことに過ぎない。
でもさ、この事件はねえ、きっと解決するよ。それも今日中にね」
「今日中?」
「そう。もしもこの事件が推理小説だったならば、このあとの話が解決編となるであろう、ってところかな?
そして、青葉が読者だったら、ここまでの情報を分析して、事件の真相をずばりいい当てられるはずだ……、違うかい?」
青葉は、恭助の発言の意図がわからず、狐につままれているような感じがした。
幌延駅は駅員が常駐する有人駅であった。ふたりが駅に到着した時には、もう十時四十四分発稚内行きの列車がやってきていて、出発待ちの状態だった。
「ええと、豊富行きの切符を二枚」と、恭助が駅員にいった。
「豊富駅? なにしに行くの?」
すかさず青葉が訊ねると、恭助がすまして答えた。
「決まってるじゃん。温泉だよ。豊富温泉!」
事件の大事な調査ではないのか――、青葉は呆れ果てて声も出せなかった。