1.旭川(八月二十一日、木曜日、十一時〇九分)
通常のデパートに設置されているものの三倍はあろうかという、とてつもなく長いエスカレーターが、目の前を立ちふさがっていた。旭川駅の構内にある、改札口とプラットホームのあいだを取り結んだ、クリスタル風の、透明な手すりを持ったエスカレーターだ。まわりを囲む木製の古風な天井と側壁が、調和が取れた、ぬくもりを感じさせる薄茶色の人工的な空間を構築している。
雅やかなその回廊をのぼりつめると、五番線のプラットホームにたどり着く。そこには十一時〇九分発の快速列車『なよろ一号』が停車していた。
白地に黄緑色のラインが入ったシンプルデザインの車体には、キハ40 827、という文字が刻まれている。快速列車だというのに、車両はたったの一両だけしかない。地元名古屋の鉄道なら、六両編成とか八両編成とかが当たり前なので、それに比べると、この快速列車はなんだかおもちゃのようにも見えてしまう。
時刻は十時五十五分だ。まだ発車予定時刻の十五分前であるのに、すでに多くの乗客が列車に乗り込んでいた。
そもそも改札口の上にあった電光掲示板には、だいぶ前から、なよろ一号が改札中である、との掲示が表示されていた。しかし、あまり早くからホームに行っても、暇をもてあますのがオチであろうと判断した瑠璃垣青葉は、わざわざ無理をして、下で時間をつぶしてきたのだ。
なるほど、あの掲示にはそんな意味があったのか……。
青葉が車内に入った時はもう手遅れで、向かい合って座る四人席のボックスシートは、すべてが物の見事に占拠されていた。
もっとも、本来四人が座れるはずのボックスシートのほとんどは、ひとりないしふたりの少人数で占領されていて、詰めてもらえばまだ余地がいくらもあるのだが、座れなかった乗客はみな遠慮をして、車両の前後に用意された長椅子へすごすごと向かうのであった。
そういう青葉も、ここは座れますかと、脚を伸ばしてふんぞり返っている乗客に、わざわざ頭を下げてまで座席を請う意志は湧いてこず、ちょっと外の景色が見づらくなってしまうが、他人に気遣う必要がない長椅子に座ることにした。
席を確保して、ほっと一息ついた青葉であったが、その安らぎもそう長くは続かなかった。発車寸前に観光客らしき風情の男女四人組みが飛び込んできて、青葉のいる長椅子に次々と腰かけてきた。やがて、ぺちゃくちゃと始まった会話は、内容こそよくわからないけど、中国語だ。なんでそんなに声を張りあげなきゃいけないのかしら、と問いかけたくなるくらい、とにかくやかましい集団だった。
ほかの乗客もぐるっと見回してみた。大きな荷物を持って、時刻表をしかめっ面でにらみつけているあの人は、おそらく観光客だ。地元の乗客よりも、観光客や帰省客の方が多いような気がした。盆明けのこの期間なんて、案外そんなものなのかもしれない。
青葉が満を持して乗り込んだ列車は、北海道第二の都市である旭川市と日本最北の稚内市とを結ぶ、全長二百五十九キロにおよぶ壮大な鉄道路線、JR北海道の宗谷本線だ。
今日、二〇一四年八月二十一日の旭川市は、最高気温が三十三度と予想されていて、それでも名古屋と比べればまだ全然ましなのだが、決して心地のよい日和とはいえなかった。かつて、マイナス四十一度という日本の歴代最低気温を記録した旭川市としては、面目丸つぶれの破格の猛暑ではなかったのだろうか。
しかし事態の深刻さはそれだけで収まらない。車内には、なんと冷房がかかっていないのだ。宗谷本線を始めとするJR北海道の列車には、基本的に冷房装置が設置されていない。気候が涼しい土地だから経費節減のために当然といえば当然の措置なのかもしれないが、近年の地球温暖化の勢いもなかなかすさまじいものがあり、正にせめぎ合いになっているといったところであろう。
そんな車内は、なぜか窓を開けるのが御法度らしい。どことなく、そういった雰囲気が漂っている。実際、かなり蒸し暑くなっているのに、窓を開放した席は一つもなかった。車内に虫が入り込むのを防ぐためだ。
でも、列車が動き始めると、青葉のとなりにいた中国人男性が振り向いて、ちゃっかり窓を開けてしまった。強い風が青葉の顔面にもろに吹き込んできたけど、それはそれで心地よかった。
車内のアナウンスが流れてきた。
――ご利用いただきまして、ありがとうございます。
この列車は、名寄行き、ワンマン列車です。前乗り、前降りでご利用いただきます。
運賃は、運賃表示機でお確かめの上、釣り銭のいらないよう、ご用意ください。両替される方は、運転手横の運賃箱に、両替機がついておりますので、ご利用ください。なお、紙幣は、千円札のほかは両替できませんので、ご了承ください。
この列車は、終点まで、車内禁煙となっておりますので、お煙草はご遠慮ください。携帯電話をお持ちのお客様に、お願いいたします。運転席付近では、電源をお切りください。それ以外の場所では、マナーモードを設定の上、通話はおよしください。
皆さまの、ご理解とご協力を、お願いいたします。
なお、走行中、やむを得ず、急ブレーキを使用することがございますので、ご注意ください。
次は、永山です――。
宗谷本線は、ほとんどの駅が無人駅なので、料金の支払いは列車を降りる際に運転手に対して行われる。ワンマンバスと同じシステムだ。青葉の場合は『青春十八きっぷ』を持っているから、降りる時に運転手にそれを見せるだけでよい。
青春十八きっぷは、期間限定で発行されるJR全線で利用が可能な一日乗り放題の乗車券だ。五枚つづりの単位で販売され、使用できる列車は普通列車と快速列車のみに限られている。
北海道に長期滞在の旅行をするつもりなら、『北海道フリーパス』という七日間有効の乗車券もおすすめだ。こちらは特別急行にも乗ることができる一日乗り放題の乗車券である。
でも、青葉にとっては、生まれて初めての北海道旅行。のんびりと景色が楽しめる鈍行列車の旅は、むしろ大歓迎である。
フュオワァァーーーー。
突然、宗谷本線の列車に特有の甲高い警笛がこだました。どこかの駅をちょうど通過したみたいだ。車窓には、あいかわらず、旭川市の宅地や工場などのざわついた景観が続いていた。
さあ、これから目的地まで五時間を要する列車の長旅が始まろうとしている。瑠璃垣青葉は、この先で繰り広げられる未知の世界への憧憬に、胸を躍らせていた。
宗谷本線一言回想録
旭川駅は落ち着いた雰囲気のとてもきれいな駅です。




