18.旭川(九月九日、火曜日、十四時二十五分)
中部国際空港を飛び立ったANA325便は予定よりも十分遅れて、十四時十五分に旭川空港に着陸した。
「北北海道なんてきっとなんにもないところだろうな。観光の名所なんて、北の端っこの宗谷岬くらいしか思い浮かばないや」
恭助がなにげなくこぼした愚痴に対して、
「恭ちゃん、ちっともわかっていないわ!」
と、突然、青葉が大声を発したから、恭助は驚いて後ろに飛びのいた。
「ああ、びっくりした。青葉、どうかしたの?」
「宗谷本線って、本当は見どころ満載なんだから!」
必死になって訴える青葉に、恭助は平然と切り返した。
「あのなあ。俺には、青葉が金星語をしゃべっているようにしか聞こえないけどね……」
ターンテーブルで荷物を受取って改札から出てきたばかりのふたりのそばに、プロレスラーのようにがたいのいい大男がやってきた。
「如月、恭介、先生ですか?
自分は、天塩警察署に所属する、警部補、熊林、大輔、二十八才、であります。遠路はるばる、ご苦労さまで、ございます!」
熊林と名乗った大男は、いくぶん緊張気味に、恭助の方を向いてあいさつをした。
「ああ、君が熊林君ね。どうぞよろしく」
と、恭助は何事もなかったかのように、右手を差し出した。
熊林君……?
青葉は開いた口が塞がらなかった。愛知県で父親について二、三の事件を解決したことがあるだけのずぶの素人が、地元警察の若手警部補からビップ扱いされるなんて、そもそもあり得ないことだ。いや、絶対にあってはならないことなのだ。しかもその敬称が、こともあろうに『先生』とは……。
「さあさあ、どうぞ。車は外に留めてありますよ。
ええと、お連れの方は?」
「うん、瑠璃垣青葉。俺の彼女なんだけど、笹森と同じ列車にたまたま乗車していたんだ。だから、今は重要参考人、ということで連れてきた。
一応、女の子なんで、俺と泊まる部屋は別々にしてもらえると助かる。できなければ、まあ仕方ないけどね。
まあ、こちらは押しかけ人だから、偉そうな命令はできないよね。はははっ……」
こいつ、本当に子どものまんまだ……。すでに十分に偉そうな命令を下しているし、それに青葉が恭助の彼女だなんて、いつ決まってしまったのだ。
腹の底でそうは思っても、青葉は、熊林に対してはしとやかに愛想笑いをしておいた。
「そうですか、先生。羨ましいかぎりですね。
自分はこの年で、未だ彼女募集中であります。はっはっはっ」
熊林警部補は、空港の駐車場に停めておいた車にふたりを誘導した。外見は普通の車であるが、おそらく覆面パトカーだ。
「彼女がいるはいるで、面倒くさいこともいっぱいあるぜ。
特に休日に束縛されるのは本当に困るよね」
そういって、恭助はみずから助手席のドアを開けた。あんたにそんなこといわれたくない、と思いながら、青葉も黙って後部座席に乗り込んだ。
車は旭川市の中心地を通り抜けて、旭川鷹栖インターで道央自動車道に入り、さらに国道四〇号線に出ると、ひたすら北上を続けた。
「ところでさあ、熊ちゃん。被害者の状況を詳しく教えて欲しいんだけど」
熊ちゃん……?
さらに呼び名が進化している。年下のちび助の分際で、社会的地位のある大男に向かって、なにさまのつもりなの? なれなれしいにも程がある。青葉は、気が気ではなかった。
「そうですね。被害者は、札幌市在住の笹森昌弘、三十八歳、独身。生まれは山口県の下関市です。札幌には大学生の時にやってきて、それからずっとこちらに住んでいるみたいです。
職業は、札幌のとある企業に勤める優秀なシステムエンジニアですよ。あの列車には北海道大学の理学部で同級生だった知り合いの又村俊樹、三十七歳、といっしょに、駅をめぐる旅をしていたそうです。
又村という男は妻子持ちでしたが、三年前に離婚をして、現在はひとりで札幌市内で生活しているそうです」
「ふん、又村ね」と、恭助がなにやら意味ありげに相槌を打った。
「笹森が発見された状況を申し上げますと、安牛という宗谷本線の駅で、土を盛ったホームの、ちょうど列車が停車する降車口の辺りで、仰向けになって倒れていました。自分がそれを確認いたしましたが、被害者の服にはおびただしい血痕が大量に付着しておりました。
鑑定で調べてもらった結果、ナイフのような鋭利な刃物で身体の数か所を刺されていたそうです。刺し傷を数えてみましたら、全部で十二箇所あったそうです」
「十二箇所……?」
思わず恭助と青葉は、顔を見合わせて同じ言葉を連呼した。
オリエント急行殺人事件……。
いわずと知れた、アガサ・クリスティ女史の有名な推理小説が、同時にふたりの脳裏に浮かんだ。
「しかし、こいつはあとでわかったことですが、直接の死因は刺し傷ではなくて、それ以前に、首を紐で絞められて窒息したことであります。首を絞めたあとで、心配になって犯人は、さらに身体を刺していったのでしょうね」
「ふーん、直接の死因は絞殺か……」
「それから死体を解剖した結果、体内から微量の睡眠剤が検出されました」
「へえ。やっこさん、秘境駅で次にやってくる列車を寝ながら待とうとでもしてたのかね?」
恭助が冗談を飛ばした。
「さあ、どうでしょうね」
「目撃者はいたのかい?」
「いえ、さすがにあの時間帯に安牛駅を通りすがる人なんて、地元でもいやしませんよ。
駅周辺の民家には一軒一軒、それこそ家族のひとりひとりにまで丁寧に訊き込みをしましたが、有益な情報はありません。
もちろん、列車の運転手や乗客に関してもわかる範囲で調べました。残念ながら乗客の全員を確認するのはなかなか困難でして……」
「まあ、乗客なんてみなが見ず知らずの人たちだからね。青葉の場合は、たまたま又村の証言からいっしょにいたのが確認されて、取り調べを受けたということだし」
「そのようですね。たしか、道警の日陰警部が直々に愛知県まで出向かれたとか?」
「そういうこと。その日陰警部を応対したのが俺の親父で、だから俺が今この事件の調査を引き受けている、とこういうわけだよね。複雑な因縁だな」
「それで、笹森さんの所持品は?」
青葉が後ろから口を挟んだ。
「はい、それは天塩署まで行きましたら、お見せできます」
「今からどれだけかかるの?」
「そうですね、七時過ぎになるかもしれませんね」
「ありゃー、さすがは広大な北海道だな」
「安牛駅には寄らないのですか」
心配になって、青葉は熊林警部補に訊ねた。
「今日は日が暮れてしまいますからね。明日にしましょう」
警部補は優しく答えた。
「笹森といっしょにいた又村ってのは、どんな奴?」
「又村俊樹は大学を卒業と同時にIT関連のベンチャー企業を立ち上げていて、それなりの成果を収めているそうです。
彼の話によると、笹森とは久しぶりに会って、懐かしい話をしているうちに、宗谷本線の駅めぐりを楽しもうということになって、話の折り合いがついたそうです。お互いに鉄道好きであり、しかも、又村は問寒別出身のため、宗谷本線にとても詳しいらしいのです」
「ふーん、そいつがどうして青葉の住所を知っていたのかな?」
さりげない口調を取り繕っているが、今の箇所は語気を強めて、恭助が訊ねた。
「別に住所を教えるほど親しくはしなかったわ。名古屋市に住んでいることと、名前まではいったけど……」
青葉が警部補のかわりに代弁した。
「まあ、名古屋市に住んでいる瑠璃垣青葉さんといえば、この世の中にひとりしかいないだろうからな。北海道警察が探し出すのも苦労はなかったことだろうよ」
恭助がさらりと断言した。
「あっ、そういえば……、でも、まさかね」
青葉がなにかを思い出して、声をあげた。
「なんだい?」
「そのお、旅行鞄につけっぱなしにしていた私の名前と住所が書かれた名札を、又村さんがこっそり盗み見をしたのかもしれない、と思って……。
最初に声をかけてきた時、彼の口から、私が名古屋からやってきた大学生であることをいい当てたのよ」
「なるほどね、だから青葉に声をかけたのか……」
恭助にはなにか思うふしがあるようだった。
「どうしたの、恭ちゃん?」
「いや、なんでもないよ。それで、その又村って奴は、ずっと青葉といっしょにいたのかい?」
「ええ、士別からずっと……」
「そうか……」
そういうと、恭助は目を閉じて、再び黙り込んでしまった。
車は日本海に面した海岸通りをひた走っているみたいだが、辺りは真っ暗で、潮の香りとさざ波の音しか聴こえてこなかった。青葉たちが天塩町にある天塩警察署に到着したのは、午後七時を過ぎていた。
ふたりは署の中で、被害者である笹森の所持品を見せてもらった。青葉は恐縮していたが、恭助は熱心にひとつひとつの品物を、手袋を嵌めた手に取りながら、確認をしていった。
「ええと、リュックの中身は、財布にガラ携。時刻表と三日間有効の『コロプラ』の北海道乗り放題パス。カロリーメイトがひと箱と、かなりこだわりのある一眼レフのデジタルカメラ。グラビア写真入りの低俗週刊誌と、パンツとTシャツが一枚ずつ、あと消臭剤入りの除菌スプレーね。たったこれだけで三日間を過ごすつもりだったのか。つくづくおめでたい奴だな」
「あまりたくさん荷物を持っていると移動とかが大変だからじゃないかしら?」
「そういうことらしいな」
「現金は五万円ほど入っていました」
「現金が残っていた? じゃあ、カードはなかったの?」
「いえ、クレジットカードも持っていました」
「さて、不思議なことがあるもんだ。物取りが目的じゃなかったのかな?」
恭助がいたずらっぽくいった。
「そのようですね」
このあと、パソコンの画面から笹森のカメラに残された写真の画像を見せてもらった。見知らぬ別な場所の写真もいくらかあって、それから宗谷本線の列車内の写真、車窓の風景写真などがあった。もちろん、今回の旅路で笹森がみずから撮った写真である。
それによると、笹森は列車内では大人しく黙っていたように見えたけど、意外と写真をこっそり撮りまくっていたことが判明した。全部が進行方向右側の座席から見える光景である。
青葉がびっくりしたのは、風景写真と同じくらいの頻度で、車内の青葉の横顔写真が隠し撮られていたことだった。全く気づかなかっただけに、とても不気味な感じがした。
そして、最後は安牛駅で降りたあと、ホームで撮影された写真が並んでいた。その中に、列車の窓越しに撮られた青葉の正面写真があった。あの時、笹森は意図的に青葉を狙って写真を撮っていたのだ。
そのあと、安牛駅周辺の様々なものが写されていて、最後の写真は安牛駅名物の貨車駅舎の中の光景であった。長椅子の上の駅ノートに、壁に貼られた時刻表、ちょっとした宣伝ポスター、奥には物入れとトイレの二つの扉が写っていた。
「やれやれ、青葉。相当、このおデブちゃんに気に入られていたみたいだな」
恭助が、焼きもちを焼いているかのように、声をかけてきた。
「全然知らなかったわよ。まさか隠し撮りされていたなんて……」
「都合よく犯人の顔でも写してくれていれば、事件もすぐに解決していたのにな」
と、恭助が残念そうにつぶやいた。
「最後の写真データに記録された時刻が十五時十三分です。
回収したデジカメの内臓クロックが示す時刻を確認しましたら、現実の時刻とほぼ一致しておりました。したがって、この写真に刻まれた時刻は信頼してもよいと思われます」
と熊林警部補が説明した。
「つまり、殺人が行われたのはそのあと、ということね」
青葉が確認を取ろうとすると、すぐに恭助が断言した。
「そう。犯行時刻は、十五時十三分から十六時二分までの四十九分間のどこかだ!」
「今日はここで泊まっていってください。少し行ったところにコンビニがあります。食事はどうされますか」
「適当に探すよ。道の南の方に歩いて行けば、なんか店がありそうだ」
恭助が、相変わらずのお気楽気ままな返事をした。
「それでは先生。また、明日、よろしくお願いします」
そういうと、熊林の車は漆黒の闇の中へ消えていった。




