17.茶屋ヶ坂(九月八日、月曜日、十七時〇二分)
如月恭介が改札口からひょっこりと姿を現した。帰宅ラッシュを目前に控えた地下鉄茶屋ヶ坂駅は、それなりのにぎわいでごった返している。
「なんだ、ここまで来ていたのか?」
「恭ちゃん、どうしたの? 急に呼び出したりなんかして」
「うん、ちょっと青葉に手伝ってもらいたいことができてね」
「そういう時だけね、恭ちゃんが私を呼び出すのは」
青葉が皮肉を込めていった。恭助は、男としては背が低いから、目線の高さは青葉とそんなに変わらない。
「とても重要な要件だ。この前、親父が青葉のところにやってきただろう?」
「ええ。若い警部さんといっしょにね」
「日陰警部か――。北海道中央警察署のエリート警部だ。宗谷本線の安牛駅で起こった殺人事件を担当している。青葉が乗った列車に、いっしょに乗っていた旅行者が殺された事件だ」
「笹森さんのことね。事件の進展はどうなっているの?
とはいっても、恭ちゃんは警察部外者か……」
「事件は完全に行き詰まっている。
当然さ。あんなところで殺人事件が起きたって、目撃者がいるわけないしね。地元住民も誰も利用しない、相当ぼろい駅らしいぜ」
「秘境駅ですからね……」
「秘境駅?」
「そう。利用者が少なくなって時代から取り残されてしまった駅のことよ」
「なるほどね。うまい名前だな。秘境駅殺人事件か……」
恭助はひとりで感心していた。
「それで、事件はどうなっているの?」
「うん。親父から聞いた話によると、先月の二十一日、宗谷本線の安牛駅で停車した名寄行きの普通列車の運転手が、ホームの乗車口付近で仰向けに倒れている笹森昌弘の遺体を発見した。
時刻は、時刻表の停車時間どおり、十六時〇二分のことだ。おかげで、その日の宗谷本線は大幅にダイヤが乱れたそうだぜ。きっと前代未聞のことだろうな」
「十六時……?
ということは午後の四時ね。私たちが笹森さんと別れたのは三時だったから、ちょうどその一時間後ってことじゃない?」
「そう。青葉の証言によれば、笹森が安牛駅を降りたのが十五時〇二分――、午後三時二分だ。青葉が乗っていた列車の運転手の証言によれば、その列車も時刻表どおりの運転を順調にしていたらしい。
その時、笹森のほかに安牛駅にいた者はいなかったということだったね」
「そうよ――。だとすると……」
「そう。次に安牛駅に列車がやってきた時には、奴は殺されていたのだから、犯行はそのわずか一時間のあいだに行われたことになる」
「あまり聞きたくないけど、どう殺されていたの?」
「あまりいいたくないけど、刃物でめった刺しだったそうだ」
若干ふざけ気味に、恭助が答えた。
「犯人はわかったの?」
「現場が現場だけに、手がかりは皆無に等しく、全くのお手上げ状態らしい。
だから、親父がこの俺に相談した、とこういうわけだ」
「それで、恭ちゃん、これからどうするの?」
「とりあえず現場に行ってみる。必要経費は親父がひねり出してくれるしな」
なによ、その待遇は――、と、とがめてやりたくなったけど、青葉は冷静に自分を制した。
「それじゃあ、恭ちゃん、北海道旅行ができるのね。せいぜい楽しんでいらっしゃい」
「なにいってるんだ? 青葉、お前もいっしょに行くんだよ。
じゃなきゃ、お前をここに呼び出したりはしないって」
「ええっ、私、後期授業に向けて勉強をしなきゃならないし……」
思わぬ恭助の提案に、青葉は一瞬、われを失った。
「あのなあ、試験も終わったばかりの夏休みのさなかに、人がひとり殺された事件の解決と、ひとりの個人の勉強と、いったいどちらが大事だと思っているんだい?」
それはもちろん勉強よ、といい返したいところを、青葉はぐっと堪えた。
「それじゃあ、荷物をまとめておけよ。明日出発だ!」