16.茶屋ヶ坂(八月二十四日、日曜日、十時三十五分)
愛知県警に所属する如月惣次郎警部は、名古屋市営地下鉄の名城線茶屋ヶ坂駅で下車をした。時刻は十時半、日曜日の朝の長閑なひと時であった。
外に出ると、茶屋ヶ坂の交差点が見えた。そこを突っ切ると長いだらだらとした坂道が現れる。警部はとぼとぼとその坂を上り始めた。如月警部はたたき上げの警部である。決して、大学出のエリートコースをたどってきた人ではない。
如月警部の横には背の高い長髪の青年がいた。ちょっと見るとふたりは親子のように年が離れて見えたのだが、別に親子ではない。青年は北海道警察から派遣された日陰隼警部であった。彼こそは大学院も出た生粋のエリート警部だ。
ふたりは閑静な住宅地の一軒家の前で立ち止まった。呼び鈴を鳴らすときれいな小顔の若い女の子が現れた。長い黒髪が落ち着いた上品な雰囲気を醸し出していた。
「あら、おじさん?」と、女の子がいった。
「青葉ちゃん、ちょっと職務上の質問をしたいのだけど、よろしいかな?」
警察手帳を提示しながら、如月警部が女の子に声をかけた。
瑠璃垣青葉は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに落ちつきを取り戻して、かわいらしいしぐさでこくりとうなずいた。
「とにかくあがってください。今、親は買い物にいってしまって、私しかおりませんけど」
如月警部と日陰警部は家の中に通された。青葉は台所からオレンジジュースを入れたグラスを二つ持ってきて、ふたりの警部の前に差し出した。
「何もございませんけど」
入ってくるときの印象ではそれなりに裕福そうな家だったけど、ベランダにはすだれが下ろされて、窓が開けっぱなしになっていた。高台に位置するこの家の庭は、ちょっとした広さがあって、芝生がきれいに植え込まれているから、猛暑で悪名高い名古屋市内にあっても、室内は冷房装置をかけずに我慢できるほどの快適さがあった。そもそも冷房なんてものは、かけないに越したことはない。一方で、敷地の周りは高いコンクリート壁でしっかりと覆われているから、外から中をのぞき込むことはできなくなっている。お金持ちだけど、しつけの方はしっかりされているなと、如月警部は感心した。
まず、日陰警部の方から口を開いた。
「ええと、瑠璃垣青葉さんですね? 名古屋大学医学部の学生さんで現在は三年生ですね」
「はい、そうです」
「あなたはつい最近、北海道に旅行をされていましたよね?」
「はい、昨日、こちらに戻ってきました」
「先週の木曜日に、あなたは北海道の宗谷本線に乗っていらした。間違いありませんか?」
「はい、たしかに……」
青葉はどきどきしていた。なにか自分が悪いことをしてしまったのだろうか?
「その時にお乗りになられた列車を確認したいのですが」
「たしか、旭川駅を十一時くらいに出た列車でした」
「なよろ一号。十一時〇九分発ですね。間違いありませんか?」
「はい、間違いありません」
「旅行の目的は?」
「その……、抜海駅までいってみようかなと思いまして……」
「抜海駅?」
如月警部が怪訝な顔で訊ねてきた。
「はい、日本最北の秘境駅で……。
いえ、その。終点の稚内駅から二つ手前にある無人駅です」
青葉は慌てて、いい直した。
「なぜ、そんな辺ぴなところに?」
「ええと、どう説明したらいいのかしら。とにかく、行ってみたい場所だったので……」
今度は、日陰警部が割り込んできた。
「どなたかとごいっしょでしたか?」
「いえ、ひとりでしたけど」
「それはおかしいですね――。
あなたはその列車でふたりの男性とごいっしょだったと、こちらは把握しているのですが」
「ああ、それは列車の中で知り合った方です。いっしょに旅行をしていたのではありません」
「どのようなふたりでしたか?」
「ええと、ふたりとも私よりも十歳は年上の、三十歳は超えている方々のように思いました。ひとりはかなり物知りな人で、又村さんといっていました。もうひとりはあまりしゃべらない方で、ええと、笹原さん……、じゃなくて、笹森さんだ。たしかそういうお名前でした」
青葉はしどろもどろにいい直した。
「そのふたりとはどこで出会いましたか?」
「旭川駅からいっしょの列車に乗っていたそうですが、私はちっとも気づきませんでした。
又村さんが声をかけてきたのが士別駅を過ぎた辺りです。羊の看板の写真を撮っていた時までは、たしか私はひとりきりでしたから」
「どこまでごいっしょにおられたのですか?」
「はい。まず、笹森さんが途中の安牛駅で降りました。
私と又村さんはそのまま列車に乗って、抜海駅でふたりいっしょに下車しました。そのあと、駅にずっといて、一時間後の名寄行きに又村さんが乗って、私はさらに一時間後の稚内行きの列車に乗りました」
如月警部が心配そうな顔をしながら訊ねてきた。それはまるで、自分の娘を心配するような表情だった。
「青葉ちゃん、そんなところでふたりきりで、いったいなにをしていたんだい?」
「ええと、ほかにも下車した乗客がいましたから、決してふたりきりというわけではありませんけど……」
如月警部の気持ちを察した青葉が、慌てて補足をした。
「とにかく、笹森さんが安牛駅で下車したのはたしかですね? 時刻は十五時〇二分」
時刻表を開いて、日陰警部が確認をうながした。
「はい、そのくらいだったと思います」
「そして、あなたと又村のふたりは、そこで下車をされなかった。この点に関して間違いはありませんか?」
「はい、そうです」
「どうしてですか?」
冷静そうな日陰警部の語気が少しだけ強くなっていた。
「どうしてといわれましても、笹森さんはそこで下車をしたがっていたけど、私と又村さんはそこでは降りたくなかったからです……」
ひざの上に両手を置いて、足を崩さずにきちんと座っていた青葉の狭い肩幅が、申し訳なさそうに、さらに小さく縮こまった。
「笹森以外の乗客が安牛駅で降りませんでしたか?」
「いいえ、誰もいなかったように思います」
「ほかに駅に不審な人物はいませんでしたか?」
「ええと、いなかったと思います。
その、私、その辺りからうとうとしていたみたいで、本当はあまり鮮明に覚えていないんですけど、でもその時駅にいたのは、笹森さんただひとりだったと思います。
彼がこちらにカメラを向けて写真を撮っていたのが印象的で、しっかりと覚えていますから」
青葉は必死になって説明をしていたが、やがてふと思い起こしたように、警部たちに逆に質問をした。
「あの、なにかあったのですか? 私、なんでそんなことを訊かれているのでしょうか?」
如月警部が口を開いた。
「どうやら、青葉ちゃんはまだ知らないみたいだね。いいかい、落ち着いて聞くんだよ。
青葉ちゃんと同行していたうちのひとり、笹森昌弘が、安牛駅で殺されたんだ!」
青白い顔の日陰警部が、眼鏡ブリッジに中指を押し当てたまま、青葉に視線を向けていた。
「繰り返し確認させていただきますが、あなたと別れたあとで、又村俊樹氏が乗ったのは、本当に、抜海駅を十七時二十六分に発車した名寄行きの列車でしたか?」
殺人事件――。しかも、会話こそ交わさなかったけれど、自分とずっといっしょにいた人間が殺されてしまうなんて……。さすがの青葉も、少なからず動揺していた。
「はい、そうです。私がその一時間後の六時半にやってきた稚内行きの列車に乗ったから、その時はもう辺りは真っ暗になっていました。だから、きっとそのくらいの時間でした。間違いありません。でも、又村さんがどうかしたのですか?」
「いえ、あくまでも確認しておきたかっただけのことですから……」
日陰警部がはぐらかした。でも、そのいい方からさっすると、自分ではなくて、又村に警察の関心はあるような印象を、青葉は受けた。
「あの、笹森さんが亡くなったのはいつですか?」
「それは、あなたが知ることではありません」
日陰警部はたしなめたが、如月警部が横から口を挟んだ。
「大丈夫。青葉ちゃんが疑われているのではないからね。
そのあとで、又村と会ったり連絡を取ったりはしなかったかい?」
「いいえ……」
「そうか、じゃあお邪魔をしたね」
そういってふたりの警部は、青葉の家をあとにした。