14.抜海(八月二十一日、木曜日、十六時三十三分)
この辺りの風景は、徐々に変化してきているように思えた。そびえたつ山というよりも、小高い丘という感じに、どの山々もなってきた。生えている木も、気のせいか、高い木の割り合いが減ってきて、どこもかしこも草原のような山肌となっている。もちろん、線路沿いにはところどころに人の手が入った防風林が設置されているけれども、その数も明らかに減っている。そして列車は、豊富駅に到着した。
この駅の周辺には、しっかりとした街並みが広がっていた。
「うーん、久しぶりの街ですねえ。ほっとします」
「なんだかんだで、秘境地よりも街並みにいる方が落ち着くみたいだね。青葉ちゃんは」
「そんなことないですよ。秘境駅にもしっかり癒されちゃっていますし……」
青葉が子供っぽく口をとがらせた。
「豊富駅――。
特急列車も停車する駅で、駅の西側には『サロベツ湿原センター』がある。そこでは、ラムサール条約に登録された国内有数の大湿原の原生花園を楽しむことができるんだよ。
さらに、東側には『豊富温泉』がある。こちらは日本最北にある温泉郷として有名だ。豊富温泉は、駅から少しばかり離れた場所にあるけど、バスが出ているから、それに乗れば、たったの十分くらいで到着する。まあ、行ってみればわかるけど、とてもユニークな温泉だよ。あんな温泉、ほかには絶対にないね」
「ユニーク……、ですか?」
意味がわからず、キョトンとする青葉を見つめて、又村がくすくす笑っていた。
その次の駅、徳満駅も秘境駅である。
「豊富駅と徳満駅――、どちらも縁起のよい名前だよね。
徳満駅は、待合室が新しくなっているけど、それは三畳一間の質素なものだ」
その説明の通り、徳満駅の敷地にはスチール製の小さな待合室がポツンと置いてあった。それは糠南駅の待合室よりは大きいけれども、そのほかのどの駅の待合室よりも小さいものだった。
列車が徳満駅を発車する時に、又村がいった。
「この徳満駅と次の兜沼駅との途中に、最後の廃駅の跡地があるんだよ。
さあ、青葉ちゃん、こっちに来て」
そういうと、又村は三度、青葉を運転席の後ろに連れて行った。その時の列車は、真っ直ぐな直線状の線路をひた走っていた。
「今、すごく長い直線路を列車が走っているだろう?
でも、よく見ていてごらん。この線路が、じきに、不自然なS字曲線を描き出すから。あの神路駅のようにね……。
そしたら、今度は進行方向右手に注目だ。そこに、消えてしまった秘境駅、芦川駅――、の跡地がある。アスファルトが敷かれたちょっとした広場に、なぜか角材が大量に積まれているんだ」
又村は嬉しそうに話を続けた。
「僕がまだ子供の頃に、NHKの番組の『みんなのうた』で、『切手のないおくりもの』という曲が放送されていて、その時の映像の背景に、芦川駅の木造駅舎と駅員さんの姿が、映っていたんだよ」
「お話がオタク過ぎて、よくわかりません」
青葉の不服に気づくようすもなく、又村が、突然、歌い出したから、青葉はびっくりして、車内を見回した。
知りあえた あなたに、
この歌を とどけよう、
今後よろしくおねがいします、
名刺がわりに この歌を――。
それは、どこかで耳にしたことがあるような、懐かしい感じがするメロディだった。初めて聞いたのに、すぐにおぼえてしまえそうな……。
「とにかく、昔は芦川駅にも立派な木造駅舎があった、ということさ。諸行無常だね」
歌い終わった又村は、なにもなかったかのように、再び、うん蓄を始めるのだった。
青葉の目の前には、長い直線状の線路が延びていた。これでもかというほどの、長い直線だ。
「おっ、来たぞ。今の踏切を過ぎたら、もうすぐだ!」
そういった矢先、直線のずっと向こうに、緩やかな曲線が現れた。
右に曲がるS字曲線!
さらに、そのS字曲線の先、進行方向右手にある、生い茂った草むらの向こうに、白い箱型をしたなにかが置いてあった。そこを過ぎると、すぐに、線路は、今度は、左に曲がるS字曲線を描いた。そのあとは、なにもなかったかのように、線路は、原野を真っ直ぐ延びる直線の形状に、その姿を戻した。
「今のところですね?」
「そう。芦川駅――。
二〇〇一年に、下中川駅、上雄信内駅といっしょに廃駅となって、消えてしまった駅だ」
またもや、時代の波に打ち砕かれてなくなってしまった駅だ。どうして、あれもこれもなくさなくてはならないのであろうか。もちろんそれが、子供がだだをこねるような議論であることはわかっている。でも、だからこそ、やるせなさ過ぎるのだ。
「もしもその時に、秘境駅のことを知っていたら、私もそこを訪ねることができたわけですね」
「そうだね、その時にはまだ智東駅や南下沼駅もあったしね」
「ああ、なんて惜しいことをしたのかしら? 悔やんでも悔やみきれません」
無意識に、青葉はこめかみの付近を両手で押さえていた。長くてきれいな黒髪がさらりと波を打った。
「でも青葉ちゃん、その時は、幼稚園か小学生だろう? ちょっと無理な話だよ。
それに、今の小学生でいる子供たちが、十年後に糠南駅や安牛駅の跡地を見ながら、同じ台詞を口にするのかもしれないぜ」
又村がいたずらっぽい目を向けてきた。
「それって、糠南駅や安牛駅が、十年後になくなっているってことですか? 縁起でもないこといわないでください!」
「あはは。でも、満更、的外れでもないかも知れないよ。
宗谷本線がなくってしまうことは絶対にないけど、途中にある秘境駅なんて、いつ消えてしまっても、ちっとも不思議ではないからね。
僕たちは、そのことを心に留めつつ、秘境駅を探求し続けていくのさ。あくまでも、前向きにね……」
「おっしゃる通りです」
青葉は、又村の主張に同意した。
勇知駅を過ぎると、いよいよ風景の変化は顕著となった。
「ほら、なんだか風景が変わっています。何が変わったのか、よくわからないけど」
「そうか。多分、生えている植物の種類が変化しているのだろうね。もう、この辺は海にも近くなっているし」
今、列車は原野のまっただ中を走っているのだが、そこは、智東駅があった山間部や、神路駅跡地があった深い藪の中とは違った、別の雰囲気の森になっていた。
青葉は、なぜかその光景に、『月の世界』を感じた。もちろん月の中に森があるはずもないのだが……。
「勇知駅を過ぎたら、いよいよ、次が青葉ちゃんの目的地、日本最北の秘境駅で、宗谷本線の数ある駅の中の真打でもある、抜海駅――のお出ましだね」
「わくわくします」
青葉が嬉しそうに瞳を輝かせていた。
抜海駅で降りたのは、青葉と又村のほかに、まだ三人いた。逆に、列車に乗り込む人も、ふたりいた。
青葉は、降りる時、運転手に『青春十八きっぷ』を見せた。すぐ後ろから又村もついてきて、持っていた乗車券を運転手に見せて下車をした。青葉の持っている乗車券とは少し違うものだった。
青葉は、ほかにも下車した乗客がいたことに、ちょっとだけほっとしていた。というのも、又村とふたりだけでこの秘境駅で降りるのは、なんとなく不安だったからだ。ところで、又村はいったいどこまで青葉についてくるつもりなのだろう?
「どうだい、念願の抜海駅は?」
「木造の駅舎が立派ですねえ。雄信内駅の駅舎よりもこちらの方が大きい感じがします。あっ、それから、思ったよりも雰囲気はさびしくありませんね」
「そうだね。ここは秘境駅だけど、ホームは二つあるし、駅舎も立派だ。駅としての機能はしっかりしている。通常ならば、こんな秘境にある駅はめずらしいけど、宗谷本線の中では、むしろ、まともな駅に属しているよね。
実は、この抜海駅が、最近、観光地としての市民権を得つつあるんだ。多くの旅行会社が、道北ツアーの途中で、この駅に立ち寄るプランを採用している。
礼文、利尻の二島に、宗谷岬と肩を並べて、抜海駅が、現在のツアーの目玉拠点になっているのさ!」
突然、又村が、いっしょに下車した見ず知らずの学生風の男の子を呼びとめた。
「ああ、ちょっと、そこの君……」
駅舎の写真を無心で撮っていたその男の子は、ちょっと驚いた表情をして振り向いた。
「なんでしょうか?」
「このカメラで、彼女といっしょに写真を撮ってもらいたいんだが、いいかな?」
こうも強引にせがまれては断ることもできなかろう。もっとも、写真をいっしょに撮るなんて、又村は青葉にも許可を取ってはいなかった。
こうして、青葉と又村は、『抜海』と駅名が書かれた駅舎正面の看板前で、ふたりだけの記念写真を撮った。
「今度ここに来る時は、午前中にするといいよ。駅を出て二キロほど歩けば、抜海港に出る。晴れていれば、そこから雄大な利尻富士が拝めるのさ。
利尻富士こそ、日本一美しい山だと、僕は個人的に思っている。その荘厳な山の形は、本家の富士山をもしのいでいるよ。今日は、残念ながら、曇っていてよく見えないけどね」
又村が指さす方を見てみたけど、たしかに山は見えなかった。
「又村さんは、このあとはどうされるのですか?」
「いつまでも青葉ちゃんといっしょにいたいけどなあ。
ああ、そうだ。僕の名刺を渡しておこう。メールアドレスも書いてあるからね」
拒否するわけにもいかないから、青葉は黙ってもらっておいた。
「このあと、僕は、名寄行きの十七時二十六分の列車に乗って帰るつもりだ。安牛で降りた笹森とも合流しなければならないし。
今晩は名寄で宿を取ってある」
「ああ、そうですか」
青葉は安堵した。黙っていれば、又村は愛知県までついてきそうな気がしたからだ。
「青葉ちゃんはこれからどうするの?」
又村のさりげなく絶妙な問いかけに、青葉はつい口が軽くなってしゃべってしまった。
「私は、南稚内で予約したホテルに泊まります」
又村の目がきらりと光った。
「へえ、そうなの。じゃあ、僕も南稚内で泊まろうかな?」
青葉の顔が一瞬青ざめたのを確認してから、又村が笑いながらいった。
「ははは、冗談、冗談だよ」
名寄行きの列車の到着を告げる構内アナウンスが流れている。
――間もなく、列車が入ってきます。
危険ですので、通路を渡らないでください――。
ホームには、列車の到着を知らせる、キンコン、キンコン、という警告音が、絶え間なく鳴り響いていた。
「じゃあね、青葉ちゃん。これでさよならだ。
きっとまた連絡してくれよ。絶対にね……。このまま永遠のお別れじゃ、あまりにもさびし過ぎるからねえ」
女々しく口惜しげに、又村は最後までしゃべりかけてきた。
「はい、きっと……」
そういって、青葉は無理やりに繕った愛想笑いを浮かべた。内心、ほっと胸をなでおろしながら……。
宗谷本線一言回想録
抜海駅って、思っていたよりも秘境駅じゃないですよ。でも、場所はばりばりに秘境なんですけどね。




