13.下沼(八月二十一日、木曜日、十五時五十六分)
からだがゆすられているような気がした。
「やあ、お目覚めかい?」
目の前の座席には又村が座っていた。どうやら、青葉はしばらくのあいだ、うとうとと眠り込んでいたらしい。
「はっ、私、いつから寝ていたのだろう。今、どこを走っていますか?」
「下沼駅の少し手前だ。列車は、間もなく南下沼駅の跡地を通過しようとしている」
「南下沼駅……?」
「うん。消えてしまった秘境駅さ。
とても趣き深い駅だったけど、現在はあとかたもない」
青葉は慌てて時刻表を開いた。少しだけ頭がズキズキする。
たしか、安牛駅で、笹森が下車をしたのは覚えているけど、そのあとで眠ってしまったのだろうか?
「私、いくつの駅を見過ごしちゃったのかしら?」
「いつから寝てたんだっけ?」
「さあ?」
「たしか、南幌延駅に列車が着いた時には、起きていたような気がしたけどね。ほら、僕が指さしたちっぽけな木造小屋の待合室が、印象的だったろう?」
「ええと、そういわれると、そうだったかもしれませんね」
はっきりとは覚えていなかったけれど、とりあえず相手の話に青葉は帳尻を合わせた。
「でも、次の上幌延駅まで来ると、ぐっすり眠っていたよ。起こそうと思ったけど、疲れていたみたいだから、寝かしておいたんだ。
旭川からずっと、休みなしに外を眺めていれば、疲れてしまうのも無理はないしね」
「ご心配かけちゃって、ごめんなさい」
青葉はさっと頭を下げた。
「ということは、青葉ちゃんが寝過ごしてしまった駅は、上幌延駅と幌延駅の、二駅ということだね」
「見過ごしたのは二つだけで済んだのですね。ああ、よかった……」
青葉はほっと安堵した。せっかくの北海道をめぐる大旅行なのだ。少しでも多くの美しい光景をまぶたの裏に収めておきたいというのが人情である。それにしても、かなり寝てしまったような気がしたけど、結果的には、二駅しか見過ごさなかったのだから、ある意味、それは幸運であったともいえるだろう。
「そして、次に停車する下沼駅――、こいつも大関級の貫録を持つ秘境駅だ」
又村がにやりと笑った。
列車が下沼駅にやってきた。もう見飽きてしまった黄色い貨車駅舎が、ここにも置かれていた。
「この駅は、通過列車ばかりで、訪問がとても困難な駅だ。例えば、今のタイミングでここに降りてしまうと、このあと二時間以上も列車はやってこない」
又村がそういったさなかに、ふたりの男が乗車してきた。互いに面識はなさそうで、車内では別々の席に腰を下ろした。どちらも一眼レフの立派なカメラを手にしている。間違いなく、秘境駅が目当ての旅行者たちだ。
「でも、ふたりも乗ってきましたよ」
揚げ足を取るように、青葉が訊き返した。
「だろうね、実は、この下沼駅を訪問しようと思ったら、一日の間で ここしかない、という絶好の時間帯があるんだ」
又村はスマートホンを取り出して、下沼駅に関する時刻表を検索した。
「ほら、下沼駅には、一日に上りと下りが四回ずつ、合計八回、普通列車が停車するけど、名寄行きの上り列車で十五時〇五分に下車をして、今僕たちが乗ってきた、この稚内行き十五時五十六分発の普通列車で引き返せば、わずか五十一分間の滞在時間で、この魔の駅から脱出をすることができるんだ。
この時間帯こそ、下沼駅短時間攻略のための唯一の手段だ。秘境駅愛好家の中では、こいつはもはや常識だね」
「へえ。そうだったのですか」
青葉は感心していた。秘境駅愛好家の中での常識、という言葉が妙に面白かった。
「それから、ここから少し離れたところにパンケ沼という大きな沼があるんだ。パンケ、とは、アイヌ語で『下』を意味する。反対語の『上』を意味する言葉は、ペンケだ。
北海道には、ペンケとパンケが対になった地名がたくさんある。駅名になっている下沼とは、正にこのパンケ沼のことなのさ」
「又村さんって、本当に宗谷本線について詳しいですよね」
青葉は、口元を隠すように両手を合わせながら、又村を見上げて、称賛した。
「そうだね。小さいころからここに住んでいたし、根がオタク系だからね。
さっき安牛駅で降りていった笹森も、最近になって秘境駅に興味を持ちはじめたんだけど、今回は、僕を案内役にして、宗谷本線の秘境駅訪問を楽しもうと計画していたのさ。
もっとも、青葉ちゃんに出会えたから、急きょ、僕は本来のお役目を放棄させてもらったんだけどね」
「おふたりはお友達ですか?」
「うん、そうだな。友達というよりは、仕事関係の知り合い、といった方が正しいかな。あんなむさくるしい奴と友達でいても、疲れちゃうだけだからね。はははっ」
平然とした顔をしながら、ずいぶんとひどいことをいうな、と青葉は思ったけど、それについてのコメントは差し控えておいた。
宗谷本線一言回想録
下沼駅で降りようと思ったらどうすればいいんでしょう? ちょっとしたパズルです。