12.安牛(八月二十一日、木曜日、十五時〇二分)
下平トンネルを抜けると、列車はほどなく雄信内駅に到着する。進行方向の左手に、木造の立派な駅舎が建っていた。ただ、長い歳月を厳しい気候にさらされ続けたためであろう。よく見ると、屋根の縁をつないでできる直線が、それなりに歪んでいて、風格に満ちあふれていた。ここ雄信内駅は、秘境駅としても有名だが、なにより、この古い駅舎に人気がある。
「さびしい場所だけど、ちょっとは民家がありますね」
駅まわりの景色にほっと安堵したのか、青葉の方からめずらしく又村に話しかけてきた。
「全部空き家だよ、ここから見えるのは……。
昔は、ここは部落の中心地だったけど、もう人はほとんど住んでいない。家屋だけ取り残されているのが、返って痛々しい。
今のこの地区は、ヌカナン地区よりも秘境度が高いのかもしれない」
又村の話から察すると、雄信内駅の外に見えた数軒の民家は、どれもが抜け殻であって、一帯はゴーストタウン状態になっているらしい。ちょっと見ただけだと、活気がありそうに見えるのに……。
駅に停車した列車は、なかなか動き出そうとしなかった。不安になった青葉が、又村に問いかけた。
「なかなか列車が動きませんね」
「うん。対向列車を待ち合わせているんだよ。ここは列車すれ違いのための拠点なんだ」
すると、しばらくしてから対向列車がやってきた。特別急行列車の『サロベツ号』であった。けたたましい轟音をまき散らして、特急列車は雄信内駅を通過していった。
そのすぐあとで、青葉たちを乗せた普通列車が、十四時五十五分に雄信内駅を出発した。こんどの停車駅は安牛駅だ。そこも堂々たる秘境駅である。
実は、この辺り一帯は、日本全国を探してもここだけにしかない驚愕の事実がある。それは――、
糠南駅、
雄信内駅、
安牛駅、
南幌延駅、
上幌延駅、
の五つの隣接駅が、ものの見事に、全部秘境駅になってしまっていることだ。
そもそも秘境駅が三つ連続しているのが、JR九州が管轄する肥薩線の大畑駅、矢岳駅、真幸駅しかないのだから、いかにここがすさまじいかがうかがえる。これも、宗谷本線という路線の厳しい現状を物語る証拠のひとつだ。
「おい、次はいよいよ安牛だぞ。おまえ、どうするんだ?」
となり席でずっと黙り続けてきた笹森が、突然、又村に声をかけてきた。
「ひとりで降りろよ。僕は青葉ちゃんといっしょに話をしている方が楽しいんだから……」
又村は、振り向かないで、返事だけした。
「ふん、うつつをぬかしやがって……。勝手にしろ。
俺は予定どおり安牛で降りるぜ」
笹森はちょっと怒っているようすだった。
次の、安牛駅で降りる……、いったいなんの目的で?
考え込んでいる青葉のようすを察した又村が、そっとささやいてきた。
「笹森も秘境駅めぐりが旅行の目的だ。僕はその案内役として同行した。そして、今日の奴の目標は、安牛駅だ。そこは糠南駅にも引けを取らないすごい秘境駅なんだよ」
列車の走行音のテンポが速くなってきた。笹森が立ち上がって、荷物を整え始めた。本当に次の安牛駅で降りるつもりらしい。この辺りで見える車窓の景色といったって、沿線に植え込まれた防風林と牛がのんびりと昼寝をしている広大な牧場くらいなのに……。
「そうだ、笹森――。
駅に降りればきっとのどが渇くだろう。これ持っていけよ」
と、又村が、さっきの小豆色をしたステンレス製水筒を、笹森に差し出した。
「別に、いらねえよ。どうせ一時間で返しの電車が来るんだから」
と、乱暴な口調で、笹森は拒否をした。
「遠慮するなよ。今日は相当暑いぜ。もちろん、駅を降りたところにコンビニや自動販売機なんてありはしない。それに、このカップは、さっき青葉ちゃんが口をつけたばかりなんだけどなあ……」
予想外の不謹慎な発言に、青葉は一瞬とまどった。
笹森は水筒を恨めしそうにしばらく見つめていたが、やがて、ひったくるように又村からそれを奪い取った。
「じゃあな」
笹森は、薄気味の悪い笑みを浮かべると、運転席の方にすたすたと歩いて行った。青葉は、水筒を取り戻すよう又村に頼もうとしたが、なんだかそれも面倒くさくなっていた。
列車が安牛駅に停車した。笹森が降りていった。降りたのは彼だけだ。それ以外の乗客の乗り降りはなかった。もちろん、安牛駅の構内には、下車したばかりの笹森ひとりを除いて、誰もいなかった。
土のホームに、例の黄色い貨車駅舎がでんと建っていた。ここも人の気配が全くしない淋しい駅だ。
列車のドアが閉まった。キンコン、キンコン、と鳴り響く警鐘音に入り混じって、
――次は、南幌延、南幌延です――、
と、車内アナウンスが流れてきた。
窓の外では、笹森がせわしく列車の写真を撮りまくっていた。さりげなく青葉のすぐ前までやってきて、窓越しに、青葉の顔を狙って写真を撮るような不自然な動きもあったが、まさか気のせいであろうと、青葉は考え直した。
列車が動き出して、ホームにひとり取り残された笹森の姿が、どんどん小さくなっていった。
「さあ、これで邪魔者はいなくなった。青葉ちゃんとふたりきりでおしゃべりに専念できるな。はははっ」
勝ち誇ったような又村の笑い声が、耳元で聞こえてきた。青葉は車内をぼんやりと見回した。乗客はわずかしかいなかった。
次は南幌延駅か。いったい、どんな秘境駅なのだろう……。
宗谷本線一言回想録
雄信内駅の木造駅舎の屋根が曲がっていました。過酷な環境なんでしょう。