11.糠南(八月二十一日、木曜日、十四時四十五分)
「ほら、ここが僕の故郷、問寒別だ!」
と、いつになくはしゃぎぎみの又村が指をさした問寒別駅のまわりには、民家がちらほらと点在していた。線路沿いに道路が走っていて、小学校や郵便局もちゃんとある、ちょっとした街になっていた。
「問寒別は、幌延町の端っこに位置する集落で、狭いけれど、住みよいところなんだよ。
そして、この次こそ、宗谷本線が誇る屈指の秘境駅、糠南駅だ。
糠南駅があるヌカナン地区は、問寒別の集落のさらに西の端っこに位置する。そこまでの道路はそれなりにしっかりしているから、ここ問寒別駅から糠南駅までは、歩いて三十分ほどで行ける。実はすぐ近くなんだよね。距離にして二キロちょっと」
「いよいよ宗谷本線の秘境駅の王様、糠南さんの登場ですね。わくわくします。
ところで、どこがどう秘境駅なのですか?」
「糠南駅ね……。ふふふっ。まあ、見ればわかるよ。
でも、そうだなあ。ここじゃ、少しわかりにくいかもしれない。また、前にいってみようか」
そういって、又村は席を立つと、青葉を連れて、再び運転席の真後ろに移動した。
列車が鉄橋を渡り終えると、風景が一変した。民家はもう途絶えていた。列車は藪の中をすり抜けていく。線路脇に立てられた黄色い標識に『糠南』と文字が書いてあった。もうすぐ幻の秘境駅が、ヴェールを脱いで、そのこうごうしい姿をお披露目しようとしているのだ。
線路が左の方向へ大きくカーブを取り始めた。緩やかな長いカーブを列車が進んでいくと、景色もゆっくりと回転しながら、流れていく。
すると、進行方向の左手に、駅のホームがすっと現れた。
糠南駅だ――!
青葉たちの列車は、時刻十四時四十四分に糠南駅に停車した。又村が運転手に、見るだけで降りませんから、とひとこと告げた。青葉が開いたドアからちょっとだけ顔を覗かした。
そこは、短い板張りのホームだった。何よりもびっくりしたのが、駅舎だ。いや、正確には、駅の待合室というべきか。
それは、単なる倉庫に過ぎなかった。それも、一般家庭で使われている、庭の清掃器具をしまっておくような物置用の倉庫だ。そんなものが、こともあろうに、駅の待合室に使用されていた。板張りのホームが、ご丁寧に、その待合室の前だけT字型になっていて、待合室への通路をしっかり確保していた。
踏切がそばにあって、細い道路が横切っていた。それ以外で周りに見えるものといったら、低い山々と広大な牧草地しかなかった。
牧草地には相当数の白くて丸いかたまりが点在していて、牧草の緑色とマッチしながら、絵画のような美しい風景を作り出していた。
「あの白いかたまりはなんですか?」
「ロールベールラップサイロね。刈り取った牧草をベーラーで丸めて、ポリエチレン製のラップで巻いたものだ。
ラップの中で、牧草を乳酸菌発酵させてやると、栄養価の高い、長期保存が可能な家畜の飼料になるんだよ」
「へえ、おいしそうですね」
「ううん。まあ、かなり臭い匂いがするけどね。まあ、牛にとってはごちそうなんだろうな。喜んでそれを食べるらしいよ」
青葉は、糠南駅の勇姿を、あらためて眺めてみた。
「ここは、そんなに閉鎖感がないですね。もっとさびしいところだと想像していました。
でも、なんだろう。秘境駅のオーラはすごいです。なんか、こう……、いかにも、北海道らしいとでもいうような……」
「青葉ちゃんがいわんとしていることは、よくはわからないけど、その気持ちはひしひしと伝わってくるよ。
駅がなければ、誰も気づかずに見過ごされてしまう美しい風景が、駅が存在することで、独特な景観に生まれ変わっているのかもしれないね」
青葉が席に戻ろうとしたのを、又村が制した。
「もう少しここにいよう。次の雄信内駅の手前に、もう一つ、かつての偉大なる秘境駅の跡地があるんだ」
ふたりは、再び運転席の後ろを陣取って、前方の窓に注目していた。列車は、糠南駅を発ってから、相変わらずの鬱蒼とした藪が生い茂る原野の中を走っていた。時々、鉄橋や覆道などの人工物が現れては、消えていった。
「秘境駅の跡地?」
「そう。
上雄信内駅――。
廃駅になる前は、智東駅と上雄信内駅の二つが、糠南駅よりもランキングが高かったんだよ。秘境駅のね……」
「あの糠南駅よりも秘境だったなんて、ちょっと想像が付きませんね」
「うん。上雄信内駅は、牧場のど真ん中にあった駅で、駅のホームから外部に出るための道がなにもなかったんだ」
「じゃあ、駅から出られない、ということじゃないですか?」
さほど感情が込められていない口調で、青葉が訊き返した。
「そう。出るためには、私有地である牧場を横切るしかない」
「それだと、誰も利用することができませんよね。牧場関係の人たち以外には……」
「当時は、地元の高校生が、牧場を横切って、この駅から通学していたらしい。でも、彼らが卒業して、誰も利用しなくなったため、仕方なく廃駅にされてしまったんだ」
「ということは、宗谷本線の至高の二大秘境駅――、糠南駅と上雄信内駅は、かつて隣り合っていたわけですね」
突如、青葉が思いついたようにポンと手を叩いた。
「うん。駅としては隣接していたけれど、川で阻まれているから、実際は、二駅をつなぐ道路はないんだ。
そもそも、糠南駅があるヌカナン地区は問寒別部落の西の端っこだし、上雄信内駅があったタンタシャモナイ地区も雄信内部落の東の端だ。両駅は近いようで、行政区分的には、全く近くはないのさ」
進行方向左手には美しき大河天塩川が流れていた。そして、天塩川から離れると、やがて、線路が大きく右へカーブをし始めた。
「このカーブの途中に、上雄信内駅はあった。下平トンネルに入るすぐ手前だ。
ちなみに、下平トンネルは、宗谷本線唯一のトンネルだね」
列車は長いカーブに沿って、右方向に進路を変えながら進んでいった。やがて、その先に、トンネルの入り口がぽっかりと現れた。又村の説明によれば、上雄信内駅の跡地を、ちょうど今、列車が通過したことになるけど、残念ながら、その面影を示すものは、青葉にはなにひとつ見つけられなかった。
列車がトンネルに入ると、ふたりは車内の座席へ戻った。いわれてみれば、宗谷本線に乗ってだいぶ旅をしてきたけれど、暗いトンネルの中を走っている記憶は、確かになかった。
「『上』と『下』、という接頭語が名前につけられた駅が、宗谷本線の中にはいくつかある。たとえば、
幌延駅と、上幌延駅、
雄信内駅と、上雄信内駅、
士別駅に、下士別駅、
天塩中川駅に、下中川駅、
などがそうだね。
いずれも、旭川方面に位置する駅が『上』と、そして稚内方面に位置する駅が『下』、という称号を得ている。やはり、暖かい土地に対するあこがれというものがあるのだろうかね?」
そんなに長くはない下平トンネルを抜けると、列車は右方向にゆっくりとカーブを取っていった。
「さあ、次は木造駅舎で有名な秘境駅――、雄信内駅か……。
のどが渇いたろう。紅茶でも飲むかい?」
そういって、又村はリュックサックの中から小豆色の水筒をひょいと取り出した。
宗谷本線一言回想録
寒さが厳しい北海道では、どんな秘境にある駅でも、駅舎が必要なんですね。