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9.神路(八月二十一日、木曜日、十四時〇九分)

 それは、村のだれもが我が目を疑うほどの空前絶後の事件だった。

「なんてこった。まさか、昨日のあらしで、あの立派な橋が落ちちまうなんて……。まんだ、できて、一年も経っとらんかったぞ」

神居カムイ山の神さまのたたりかのう? やっぱ、橋なんぞ架けちゃいけんかったんじゃ」

「どのみち、だめなんさ。これで、この村はもう終わりじゃて……」

 天塩てしお川対岸の国道と神路かみじ地区とをつないでいた神路かみじ大橋が、完成から一年と経たぬうちに、近隣の山から発生した木枯らしによって落橋した。昭和三十八年十二月十八日の出来事であった。


 音威子府おといねっぷ駅を出ると、あっという間に、家々や道路、電線が姿を消してしまう。又村のいう通り、音威子府おといねっぷ村はそんなに大きな集落ではなかった。

 進行方向の左手には、とうとうと天塩てしお川が流れ、右手には、深い山並みがどっしりと構えている。列車は、さまようまよい子のように、深い雑木が生い茂る荒れ地のすき間をひた走っていた。もはや、人が生活を営む気配などは、完膚なきまでに打ちのめされている。

「次の、筬島おさしま駅と佐久さく駅とのあいだの路線距離が、十八キロもあるという事実に気づいたかな?」

「えっ、そういわれてみると……、ああ、そうですね」

 青葉は、旭川あさひかわ駅の売店で、交通新聞社出版の『道内時刻表』を買っていた。これには北海道内のJRやバスの時刻が全て掲載されていて、時刻表の全国版よりはずっと軽くてコンパクトな冊子になっている。旭川あさひかわ駅を起点とした各駅までの路線距離が載っているから、筬島おおさしま駅と佐久さく駅の距離の差を計算すれば、二駅間の距離がわかるというわけだ。でも、さすがに指摘されなければ、そんな些細な情報なんて気がつかない。

「でも、それがどうかしましたか?」

 青葉はキョトンとして訊ねた。

「普通は、駅間の距離なんてせいぜい五キロから十キロ程度なものだろう。だから、十八キロというのは規格外の長さなのさ。しかも、その途中のほとんどが森ときている」

「人が住めない土地だからですよね」

「でも、かつて、その途中に集落がひとつ存在していた。そして、そのための駅もあった」

「駅が?」

「そう。駅の名前は、神路かみじ――。神さまのみちと書く……」

 青葉の胸がドクンと脈を打った。なにかしら、とてつもなく深遠な話が、これから展開されようとしているのが、はっきりと伝わってきた。


神路かみじ部落――。周囲から完全に孤立した集落で、信じられないことに、当時そこへ入るための道路は、けものみちまでも含めて、なにもなかったんだ。だから、そこは、宗谷本線の鉄道を利用しなければ、絶対にたどり着けない場所だった」

「鉄道でしか行くことができない村、ですか?」

「そう。神路かみじは、天塩てしお川が大きくうねった場所にできたわずかな堆積地の中に開かれた集落で、川の反対側は山になっているから、外部に出ることができない。宗谷本線がとおっていて、駅があったから、住民はかろうじて生活を営むことができたんだ。それでも、昔は小学校もちゃんとあったそうだよ。

 そしてある時、住民の積年の願いがかなって、神路かみじ集落と対岸の国道とを結ぶ橋が架けられた。車も通行できるくらいの立派な橋だ。この神路かみじ大橋のおかげで、これから集落は活性化が進んでいくだろうと大いに期待された。ところが、完成からわずか一年も経たないうちに、その橋が大風で落ちてしまった」

「台風ですか?」

「いや、冬の木枯らしだったそうだ」

「できたばかりの新しい橋が、風で落ちてしまうなんて……」

「それから間もなくして、神路かみじ集落は無人になってしまった。それが、昭和四十年のことだ」

「橋ができたことが、逆に過疎化を促進してしまったみたいですね」

「そのあと、しばらくの間、神路かみじ駅は、神路かみじ信号場として機能していたが、それもついに廃止された。今では、当時あった駅舎も撤去されているから、かつての跡地には、もうなにも残されてはいない」

「それじゃあ、あった場所すらわからないということですか?」

 心配そうに、青葉は又村の顔をのぞき込んだ。

「ふふふっ……、もうすぐ、筬島おさしま駅だな。

 さあ、青葉ちゃん。まず、この筬島おさしま集落をよおく見ておくんだ」

「見る?」

「そう。神路かみじに存在した集落を想像するためには、この筬島おさしまが格好の見本サンプルになるんだよ。どちらも天塩てしお川と山とで囲まれた堆積平野に作られた孤立集落だし、実際、筬島おさしま集落も、対岸の国道四〇号線とを結ぶ唯一の命綱が、筬島おさしま大橋だけなんだから」

「えっ、それじゃあ、もしもその橋が落ちてしまったら……」

「ははは、縁起でもないことをいうなよ。でも、たしかに筬島おさしま大橋が落ちるようなことがあれば、筬島おさしまも鉄道でしか行くことのできない完全孤立集落になってしまうね」

「だからこそ、まぼろしの神路かみじ集落を想像するために、この筬島おさしま集落をしっかりと見ておかなくちゃ駄目なのですね」

 そういうと、青葉はすっと身体を乗り出して、窓をのぞき込んだ。そのようすを見て、真面目な子だなと、又村が感心していた。


 そうこうするうちに、列車が筬島おさしま駅に到着した。時刻は十四時〇一分だ。

 ちょっと見た感じ、筬島おさしま地区は、これといった特徴のない平凡な集落であるかのような印象を受ける。もっとも、ここまで来ると、稲作の北限は超えてしまっているので田んぼは全く見当たらず、それどころか、大規模に農作物が栽培されているようすもない。駅の周りは草が伸び放題の荒れ地と迫りくる山だけで、数軒の民家が点在している。決して、華やかな集落とはいえない。

「すぐ近くには、かつての筬島おさしま小学校の廃校校舎を利用した、砂澤すなざわビッキの作品を展示した美術館がある。秘境駅筬島おさしまの、駅前観光スポットといったところだ」

「砂澤ビッキさん?」

「そう。アイヌ出身の彫刻家だよ。北海道の岡本おかもと太郎たろう、といっても過言ではないね」

 胸を張って、又村が断言した。

「岡本太郎……さん?」

「えっ、知らないの? ほら、『芸術は爆発だ』って名言を残した人だよ。ええと……、そうだ。万博の有名な、あの『太陽の塔』の作者さ」

「万博のモリゾーとキッコロならわかりますけど……」

「はははっ、そうだよね。まあ、気にしないでくれ」

 又村はすっかりあきらめて笑っていた。

 それにしても又村の雑学知識はいつまでも尽きることがない。本当に、底知れぬ物知り屋さんだ。最初はあまりになれなれしいから、ちょっぴり閉口したけれど、又村がいるおかげで宗谷本線の旅路も楽しくなって、仲良くなって意外と正解だったかもしれない、と青葉は心の中で思っていた。


 列車が筬島おさしま駅を出発した。


――次は、佐久さくです――、


 と、車内アナウンスが告げられて、列車は深いブッシュの中に入っていった。智東ちとう駅跡地の周辺にあった森とは少し様相が異なる、これでもかとばかりに低木が生い茂った、深緑の世界である。

「さあ、ここからが、イッツ メインディッシュだ! ついてきたまえ」

 又村は青葉の手をさっと掴んで、席を立った。そのまま、おたおたする青葉を引っ張って、車内を前へ突き進み、手動のドアを開けて、運転席のすぐ後ろまでやってきた。普段のここは、トイレが設置されているから、用を足したくなった人がやってくる場所なのであるが、別にトイレを使用する目的ではないらしい。

 きりっと制帽をかぶった運転手が、運賃両替箱の向こうにある運転席に座って、運転に専念していた。運転席は進行方向の左側にあるから、青葉たちふたりは、反対の右側に立った。すると、正面にある大きな窓の向こうに、線路をはじめとする進行方向の景色が、ことさらよく見えた。

「ここから、かつて神路かみじ駅があった場所の痕跡を眺めることにしよう。でも、それは一瞬で終わってしまうから、注意していてよ」

 そういう又村も、いつになく真剣な顔つきになっていた。

 列車は、くねくねと曲がる連続カーブ地帯を通過していく。右へ、左へ、とにかくカーブの数が多くて、線路の地面の茶色と、鬱蒼と生い茂った沿線の深い藪の緑とが、うねうねと交差しながら、絶えず視界を往復していった。列車の進行時に発生するリズミカルなガタゴト音に加えて、時おり奏でられる、車輪とレールが擦れて生じる高音の薄気味悪い軋み音が、まるで悪魔の笑い声のように、耳をつんざいた。

「列車のスピード、ちょっと遅くないですか?」

「ここいら一帯は野生の鹿がいっぱいいるからね。奴らは平気で線路を横断する。だから、あまりスピードが出せないんだ」

「いったい何が見られるのですか? 神路かみじ駅が残した痕跡って……」

 ついに我慢できなくなった青葉が、又村に問いかけた。

「線路の曲線カーブだよ」

曲線カーブ?」

「そう。ごくわずかにS字の形を描いた、美しい線路の曲線カーブを見るために、僕たちはここにやってきたのさ」

「どういうことですか?」

 青葉は少し混乱した。線路の形なんか見て、いったいなにがうれしいのだろう?

神路かみじ駅の跡地は、ちょっとだけ開けた土地にあって、その近辺では、線路が真っ直ぐ一直線に延びている。理由は、ある程度平らなスペースが広がっているので、線路を無理に曲げる必要がないからだ。

 でも、なぜか、その線路の一箇所だけが、明らかに不自然なS字の曲線カーブを描いている」

「なぜですか?」

「かつて、そこに引き込み線の切り替えポイントがあったせいだ。神路かみじ駅は、当時、二つのプラットホームを持っていて、そこで列車がすれ違うことができた。つまり、宗谷本線のダイヤにとっても、そこは重要な拠点であったんだ」

「なるほど。十八キロの区間の途中で、列車の行き違いができる唯一の場所だったわけですね」

「そう。だから、昭和四十年に住民がいなくなっても、そのあとしばらくは信号場として、お役目を果たしていた。

 でも、それも廃止された現在は、当時の駅舎や施設はすべて撤去されてしまった」

「残念ですね。どうせなら、記念にそのまま残しておいてくれればよかったのに」

神路かみじ信号場には、列車が停車することはないし、そこにいくための道路も、ダートや獣道まで含めて一本も存在しない。つまり、いかなる手段を用いても、そこにたどり着くことができない神秘的ミステリアスな場所――、究極の秘境駅、いや信号場だった。

 でもそうなると、線路上を歩いてまでしても、その聖地サンクチュアリへ到達しようとする、一部の身勝手なやからがどうしても出てくる。JR北海道は、そんな無鉄砲な招かれざる訪問者を危惧して、駅舎やホームを撤去するしか方法がなかったんだ」

 又村の言葉には、やり場のないいきどおりとともに、悲愴感が漂っていた。

「又村さんは、駅があった場所に行ってみたいなんて思ったことはありませんか?」

 青葉がいたずらっぽい口調で訊いてきた。又村はふっと笑った。

「思わない、なんていったら嘘になるね。でも、そこに行くためには、どうしても線路上を歩かなければならない。それは純然たる事実なんだ。そして、その行為は危険極まりないものだし、たとえ我が身が無事であろうと、歩いている最中に、うっかり線路上に小石を蹴りあげたりしてしまえば、列車の大惨事にもつながりかねない。神路かみじ駅や張碓はりうす駅の跡地など、現在、様々な場所ポイントが、条例で訪問を固く禁じられているけれど、仮にそんなものがなくたって、JR北海道を愛する者なら、線路上を歩くなどという無責任な規則ルール違反は絶対に冒してはならない。たかが、いち個人の感情に過ぎないけれど、僕はそう信念を抱いている。

 だから、神路かみじ駅の跡地にある線路に残された曲線カーブを見て、かつてのありし姿を思い浮かべるだけで、僕にとって、至福の喜びとなるのさ」


筬島おさしま駅を出てから、だいぶ進んでいるような気がしますけど、まだですか?」

 さっきからずっと同じ緑の景色が流れている。いったい、どこまでこれが続くのか、想像すらつかない。やがて、待ちくたびれた青葉が、肩の力をふっと抜いた時だった。又村が大声で叫んだ。

「あっ、ここだ!」

「えっ?」

 青葉たちを乗せた列車が、前方の線路に覆いかぶさる覆道スノーシェッドの下を通過した。それは濃い緑色の鉄骨でできていて、注意してさえいれば、決して見逃すことはない建造物である。

「ここを通過すれば、もうじきだ!

 この覆道スノーシェッドは、神路かみじ駅跡を見つける際の、重要な目印チェックポイントなんだ」

「ああ、びっくりした。もう、通り過ぎちゃったのかと思いましたよ」

 青葉は胸に手を当てていた。

「はははっ、ごめん、ごめん。

 ここからあと二、三個のカーブを抜けると、突然、線路が遠くまでまっすぐに一直線状となる。その長い直線も、やがては行き詰まって、最後は大きく左に曲がり出すのだけど、そのちょっと手前に、神路かみじ駅の切り替えポイントだったS字曲線カーブはある」

 列車はちょうど、急なカーブを曲がっているところだった。しかし、そこを曲がり終えると、線路が少しだけ真っ直ぐになった。

「ここですか?」

 必死に前方を凝視する青葉が同意を求めたが、

「いや、違う。もう少し先。こんなんじゃなくて、もっと、ずっと、長い直線なんだ!」

 と、だだをこねる子供みたいな声だけが、返ってきた。

 すると、今度は、列車が右に大きくカーブを取り始めた。

 耳ざわりな軋み音を響かせながら、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと、右への旋回を続ける。それは、これまでにないほどに、異様に長くて大きなカーブだった。まるでUターンをしているかのようだ。青葉には、その時間がとてつもなく長いものに感じられた。


 突然、カーブが消えた。すっと線路が真っ直ぐ延び出した。目の前の視界がさっと開けた。真っ直ぐな線路と、自然そのままの美しい原野が、そこにたたずんでいた。


「ほら、あそこだ!」


 時間が一瞬停止したように感じた。真っ直ぐな線路が、ずっと先のある地点で、ほんのかすかに曲がっているのがわかった。

 たしかに、Sの字を描いている! 


 そのS字の曲線カーブは、まるでスローモーションのように近づいてきた。そして、列車がその地点を通過する。その時、ほんのかすかに、左右に揺さぶられる振動が身体に伝わってきた。


「ここが、かつて神路かみじ駅が存在した場所だ。そして、この左手に駅舎はあった……」

 そうはいわれても、今、現実に、ここにはなにもなかった。あるのは荒れ放題に伸びきった草と木、そして、遠くに立ちはだかる山々、ただそれだけだ。

「どうして……、こんなところに……?」

 青葉が出せたのは、蚊が鳴くほどの小さな声であった。とてつもなく巨大な怨念や悲哀がこめられた黒い空気が、あたりをうずまいているようだった。

 そこは人が住めるどころか、入り込める場所にもなっていなかった。線路以外には、家も道路も、ましてや人が踏み固めた土くれさえ、ありはしなかった。

 やがて、列車が左側に大きくカーブを切り始めた。こうして、神路かみじ駅の跡地は、またたく間に通り過ぎていった。


 ガタッタタン、ガタッタタン、ガタッタタン、キュイィーー。


 目の前は、相変わらず、深緑の藪の光景が転回されている。筬島おさしま駅を出て、もう十分近くも経過しているのに、なにひとつ景色が変わらないのが、全くもって不思議だ。

 目を閉じた青葉のまぶたの裏に、突然、かつての神路かみじ集落の風景が浮かんできた。もちろん、青葉はそこにいったことがないのだから、それは青葉の勝手な推測の映像に過ぎない。さっき見た筬島おさしま集落のようでもあったが、ちょっとちがってもいた。


 駅のホームには駅員が立っていて、出ていく列車に向かって敬礼をしていた。神路かみじと大きく書かれた木造の立派な駅舎が、そこにはあった。時刻は夕方だった。夕暮れの茜色に染まった光景の中に、わずかに家が点在するのが見える。どこかで火を燃やしているようで、うっすらと黒い煙が立ちのぼっていた。灰のにおいがつんと鼻をかすめる。線路沿いの砂利道の途中には、お地蔵さんの御堂があって、花がきちんと添えられていた。遠くから虫の音が聴こえてくる。もう秋が近いのだろう。おじいさんと手をつないだ孫娘ふたりが歩いていた。ふたりのうしろ姿の影は、どこまでも長くのびていた。


 ふと目を開けると、現実という、青々と生い茂った灌木の世界が、目の前に展開している。それは、それまでつちかった人々の生活の息吹きをすべてのみ込んでしまう、力強くて容赦のない、ありのままの自然の姿であった。

「私、今、はっきりと見えました。神路かみじの集落が……」

 誰に聞かせるでもなく、無意識に青葉はそう唱えていた。それにおどろいた又村は、青葉の顔をただじっと見つめるだけだった。


 キハ五十四形気動車は、まだ原生林のあいまを走り続けていた。でも、イタドリの深い藪が途切れることだけは、決してなかった。

 宗谷本線一言回想録


神路駅跡地に残されたS字カーブ。あなたは見つけてくれますか?

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