夏の幻
この夏、僕は幽霊を見ました。
天神祭の夜、神社に忽然として姿を現した白装束の女は、ゆらゆらと黒くて長い髪をなびかせながら、少しずつ、少しずつ、近づいてきました。
僕は余りの恐怖に持ってきた懐中電灯を落して、そのまま一目散へと境内から出ました。石垣の階段を下り、灯りが見える方向に向って懸命に走りました。時折、後ろを振り向き、あの白い女が追ってこないか確認すると、女の姿はもうそこにはありません。
提灯が並んだ明るい道路に抜けると、そこには未だ大勢の人が居て、いっぱいの笑顔がありました。皆、それぞれにお祭りを楽しんでいるみたいでした。
綿菓子に、フランクフルト、カステラに林檎飴。様々な屋台から流れてくる美味しそうな香りをかいでいると、僕は、先ほど見た幽霊が本物だったのかさえ、分からずにただただ一人混乱するばかりです。
しかし、僕は偽りなど書いているつもりはありません。
これは、真実なのです。
この夏に見たあの幻を僕は一生忘れません。
四年一組 御影吉秋
1 夏の幻
八月六日。
開いた教室の窓から、喧しいほどに油蝉の鳴き声が響いていた。夏休み真っ盛りだというのに、どうして僕は学校に来ているのか。毎年、この日が来るのを僕は誰よりも嫌っていたと思う。
今日は戦争が終わった日らしい。
朝早くから登校して、戦争をテーマにしたアニメを見せられたばかりでなく、今日は夏休みの課題でもある、作文を発表しなければならなかった。何故夏休み明けに提出すればいいだけの課題を今、この日に発表しなければならないのかについては、僕達の担任である、里宮先生の計らい事だったのである。夏休みの前半でどれだけ課題を終わらせているのか、一つでもクリアしておけば、後半になった時に楽だろうということで、里宮先生は二つの期限を設けたのだった。ひとつ目は、今日。そして、二つ目は夏休み明け。しかし、この作文だけは、必ず前半に終わらせる様にしなければならないというのが、里宮先生の計らい事である。
「はい、題材はともかくよく出来てる作文じゃないか吉秋。流石は小説好きなだけあるな――しかし、まぁ、幽霊を見るとは吉秋も災難だったな」
皺の入った額に、更に皺を寄せて、里宮先生は白い歯を見せた。里宮先生は普段はジャージで授業に来るのだが、この日はスーツ姿である。何でもこの後に会議があるのだとか朝の会で言っていた。そんなスーツ姿の彼は教壇の前で生徒達に作文を朗読させると、決まって丁寧に感想を述べていた。
だが、その感想というのが聊か難であった。
僕が作文を読み終えると、級友の幾人かが、予想していた通りの、言葉を放ってきたのである。
――嘘つき。
――そうだよ。幽霊なんて絶対にいるわけないよ。
――吉秋は嘘つきだ。嘘つき。
級友達は教室の中でそれぞれ好き勝手なことを言っていたが、見たものは見たのだから、僕は悔しくなって、不機嫌に顔をしかめている彼らに言う。
「嘘じゃないよ。本当に見たんだ。本当に。第一、僕だけじゃない。あの時、神社の境内には時雄や朱里、渚だっていたんだ」
ほんとかよ?
級友達は、そう言って揃って友人達を見据えた。
時雄というのは、クラスのガキ大将の様な存在で、背が高く腕っ節が立つような体躯をした少年である。坊主頭が印象的で、細長く切れ長の目は狐のようであった。
彼とは小学一年生の頃からの付き合いで、最初に声を掛けてきたのは時雄の方だった。入学したてで、右も左も分からずただ、人見知っていた僕を、ドッジボールに誘ってくれたのだ。それを機に僕達は昼休みに行動を共にする様になったが、性格といえば、僕と彼とでは全くの正反対で、彼が体育会系と例えるなら、僕は完全に文科系と言っても過言ではなかった。僕は二年生の頃から、国語の授業が楽しくなり、読書をこよなく愛するようになったのである。その御蔭で僕は国語の成績だけは優秀だったので、今回の作文には大層自信があったのだが――
級友達を、文章力だけで説得させるのは余りにも難しい。
頼りになる筈の時雄でさえ、残念そうに首を横に振る始末である。
あの時――
僕と一緒に神社に行った他の三人は、霊を見ていなかったのだ。
「ごめん吉秋。私フォローできない」
教壇のすぐ手前にある席に座っている朱里が振り向きざまに掌を合わせて申し訳なさそうに苦笑していた。肩の少し上の方で切り揃えられた髪に、茶色く焼けた肌。整った鼻筋に、猫の様な丸い眼が可愛らしい。朱里という少女を一言で表現すると、少年である。正確には少年の様な心を持った活発な少女だ。彼女はよく僕に自分の身体能力の高さをひけらかしてくる。五十メートル走で9秒台を記録したとか、走り幅跳びで二メートル跳んだとか、よく誇らしげに自慢話をしてくる。彼女は中学に入ったら陸上部に入りたいのだと言う。
私は苦笑している朱里から、窓際に座っている渚に目を向けた。
渚は相変わらず醒めた目を僕を見ていた。
「ごめん。私も無理。助けられない」
抑楊の無い声音。
「そ、そんな……」
「確かに私達は彼の言う通り、七月二五日の晩に長柄神社の境内で肝試し大会をしました。一人ずつ境内をぐるって廻って終わりってやつ。だけど、そこで幽霊を見たのは吉秋だけなんです。私達は何も見てません」
渚があまりにも正確な説明をしたので、僕は思わず舌を巻いた。この長い黒髪を後ろで束ねた少女はいつだって冷静なのだ。理知的で、感情表現が下手糞だ。算数が得意で、テストではいつもクラスで一位の成績を残していた。冬の雪原の様な白い肌が特徴的で、口数は多い方では無かった。
だが、そんな恰も人づきあいが苦手そうな渚にも親友が居た。
それが、朱里だ。
渚と朱里はいつも行動を共にしている。給食を食べる時も、昼休みの時も常に。
そんな対照的な肌の色をした彼女らのコンビを僕達は白黒コンビと言って面白がっていた。
渚の説明を聞き、また教室が騒がしくなる。ひそひそと僕に霊感があるのではないか?などのささやき声が、油蝉の鳴き声に混じって鼓膜に忍び込んできた。
「里宮先生、僕、本当に見たんです。ネタが無いからって嘘を作文にしたわけじゃないんです」
「あぁ、もう分かったから、座りなさい。ほら、皆も友達を疑うのは良くないぞ」
里宮先生がそう言った後、漸く教室に静けさが戻った。それからしばらくの休憩をはさんだ後、里宮先生の授業が始まり、戦争と言う、僕らが全く知らない時代の話を延々と続けるので、僕は窓から見える蒼く澄んだ空を見ていた。
空には綿菓子の様な雲がぷかぷかと漂っている。
その情景を見て、僕はあの日の夜の事を思い返していた。
2 白装束の女
七月二五日。
「お母さん、懐中電灯どこにあるの?」
「玄関の靴箱の隅っこの方に入ってるわ。あんまり夜遅くなっちゃ駄目だからね」
午後七時半過ぎ。僕がかねてから楽しみにしていた天神祭の日がやってきた。僕は、早めに夕御飯を済まし、母親から僅かな駄賃を貰った後、急ぎ足で家の玄関を飛び出したのだった。外はもうすっかり日が落ちていて、薄暗く、外灯の光が点いている。
祭りが行われる長柄神社までは、僕の家から徒歩一五分ほど離れた場所に位置していたので、僕はそこまで自転車で向かう事にした。
自転車を漕いでいる最中、遠くで大きな花火の音が聴こえたので、ふと音のした方へ視線を放ると、赤と青が混じった打ち上げ花火が、真っ黒な空を彩っている。
その音は祭りの最中で行われる花火大会が始まったという合図だった。僕はその音を聴いて、ますます高揚としてしまったので、自転車の速度を上げた。
「遅いわよ。吉秋」
そう言ったのは朱里だった。
僕が神社に到着した時にはすでに他の三人は到着していた。
朱里は桜の柄をした蒼い浴衣を着ていて手には、京扇子を持っている。艶やかな姿をしている朱里に負けず劣らず、渚は赤い金魚の模様が入った紺色の浴衣を着ていた。
そんな晴れ姿をしている二人に対して時雄はと言うと、何時もどおりTシャツに半ズボンと言った格好だったので、二人と並んでいると何だか滑稽に見えた。普段通りの格好をしてきた僕も人の事は言えないのだが。
「ごめん、ごめん、懐中電灯が見つからなくて」
僕は赤い漆が施された鳥居の前に自転車を止めて、急いで三人と合流する。
神社の境内から伸びた一本道の脇には沢山の出店が並んでいた。民家の軒下には提灯が吊るされていて、あちらこちらから人々の楽しげな声音が響いていた。綿菓子を美味しそうにほうばっている稚児に、浴衣姿で微笑み合っている恋人達の群れ。そこには沢山の笑顔がった。フランクフルトにカステラ、そして林檎飴に、たこ焼、鯛やき、焼きそばなど数々の出店から漂う香ばしい香りを嗅いでいるだけで、財布の紐が緩んでしまいそうだった。
「さぁ、まずは出店巡りでもしますか」
時雄は溌剌とした笑みを浮かべながらそう言った。訊けば、彼はこの時の為に夕御飯を抜いてきたらしい。食べ歩きを楽しみたいのだろう。
そんな彼の話を聞いて、僕は夕食を済ませた事を酷く後悔した。しかし、僕には彼ほどの胃袋も備わってなければ、それほどのお小遣いも持っていなかったので、都合は良かったのかもしれない。
「もう、時雄は食べる事しか頭にないの? まずは花火大会を見るんでしょ? ねぇ渚?」
「ええ。ここからじゃあまり見えないから、神社の裏手にある山を少し登りましょう。急がないと花火終わっちゃうから」
渚は境内の裏手にある坂道を指差した。急斜面になっている坂道は背の高い杉や椚の木で蔽われている。
渚に訊けば、境内の裏手にある山道を少し登ると、木々に覆われている筈の道の一部に吹き抜けが現れるらしい。そこはこの田舎町の夜景や花火が見える絶景スポットなのだ。
暗い山道には電飾が施されていたので、視界には問題なかった。が、道は全く舗装されていないので足場はもの凄く悪く、歩を刻む度に、じゃりじゃりと枯れ葉や枝を砕く音が響いた。浴衣姿の二人はさぞかし歩きにくいに違いない。
「あのさ、本当に今日、肝試し大会やるの?」
間もなく目的地の吹き抜けの部分に差し掛かろうとした頃、朱里が悄然としながら呟いた。
「当たり前だろ。夏と言えば、肝試しに決まってるじゃないか。なんだお前びびってるのか?」
時雄は朱里をからかった。
朱里はどうやら祭りが終わった後に計画している肝試し大会に余り乗り気ではないらしい。それは朱里だけでなく、渚もらしいのだが、時雄の強引な誘いを断りきれなかったので、渋々参加することにしたのだった。
「そうじゃないけど、どうしてわざわざこんな楽しい日に肝試しするのよ? 本当に何か出たらどうするつもり?」
「馬鹿だな。肝試しって言ったら夏にやるに決まっているだろ。大丈夫。何も出やしないって」
「どこからそんな自信が来るわけ?」
「幽霊なんて本当に居るわけないじゃないか。よくビデオなんかに映り込む霊なんて作りものだよ、なぁ、吉秋?」
「え、あぁ――そうだね。あんなのは大方、投稿者が撮影した動画に細工をしている事が多いらしいよ。ああ言う恐いビデオを作ってる会社って、たくさんの人達にビデオを投稿をして欲しいからって言う理由で賞金を出してるところが多いからね。その金欲しさにインチキビデオを送る人が大半なんだって、うちの父さんが言っていた」
「本当? 私てっきり本物だと思ってた」
朱里が食いつく様に訊ねた。
「本当――だと思うよ。でも全部が全部インチキだとは言えないけどね。中には本物も混じっているかもしれないけど、それ以上の事は僕には分らない」
「そうなんだ……」
朱里は再び曇った表情を浮かべた。
「ほら、着いたわよ」
先導を切っていた渚がぴたりと足を止めると、目の前には僕達が住んでいる町の夜景が見えた。夜空の下に煌く民家の灯りはまるで星の様で、大きな破裂音が鳴り響いたかと思うと、巨大な火の花が、黒い空にぱぁっと咲いた。
僕達は幽霊の話題などすっかり忘れて、しばし夏の風物詩に心奪われるのであった。
◆◆
「ほら、着いたぞ」
フランクフルトを手にしながら時雄が言った。神社の境内の周りには細長い獣道が存在している。ぐるっと一周、距離にしたら約100メートルほどの道。神社の裏手、丁度僕達がさっき花火を見に行った山道とはまた別の場所にある獣道なのだが、その道を進んでいくと七つの祠が祀られているのだった。誰が何の目的で作った祠かは分からないが、遥か昔に住んでいた人たちがそこの祠にお参りをする為に作られた様な獣道だった。だが、その祠に参拝する人などもう今となっては皆無なので、神主でさえも手入れすらしてない放置された祠である。
当然そこには祭り会場の煌びやかな灯りは届かない為、闇だけが僕達の視界を阻んでいる。
それぞれに家から持ってきた懐中電灯を手にすると、朱里が、止めようと、か細い声を出したが当然、時雄はそれを拒絶した。
「ここ――危ないって、お母さんが言ってた」渚が言った。
「危ないって? どう危ないんだ」
雑草や枯葉に埋め尽くされた地面。低い樹木の葉に邪魔された獣道の入口を見据えている渚に僕は問うた。
「見た人いるんだって。――あくまで噂だけど」
「見た……って霊をか?」
「うん」
ひゃあぁと朱里が叫び、その場で蹲った。震えながら頭を抱えている。
そんな臆病な朱里に見向きもせずに時雄だけは感極まっているようである。
「へぇぇ、ますます面白くなってきた。じゃあ、早速始めるか。ルールは簡単、この道を一人ずつぐるっと一周してここに帰ってくるだけ。だが、その時にこの俺が持ってきたデジタルカメラでその七つの祠を撮影してくる事。いいな」
時雄の言葉に頷く者はいなかった。
「そんなに肝試しが好きだったら、まずは時雄から行きなさいよ」
先ほどから蹲っている朱里を見かねたのか、渚が真っとうな意見を述べる。
「あぁ、いいとも。言っとくけど俺は霊なんて信じちゃいない」
時雄は威勢の良い事を云うと、そのまま暗がりの獣道を力強い足取りで進んで行ってしまった。残された僕は、ただただ自分の番が回ってくる瞬間の到来を恐れていた。
それから十分後。
何事も無く戻ってきた時雄を見ると、朱里は少し安堵したのか、肝試しを拒否するような事はなかった。が、一人であの道を歩くのは流石に厭だと言うので、特別に渚と二人で行くことになった。
結局、二人は無事に写真撮影を終えて帰って来たので、やはり渚が言った噂話は所詮噂話なのだという事が見事に証明されようとしていた頃、ついに僕の番が廻って来たのだった。
何もない一本道。腐った木々の匂い。澄んだ冷たい空気。頼りない懐中電灯の光を頼りに、一つ目、二つ目、三つ目と――撮影を行っていく。その最中で僕はあれを見たのだった。
五つ目の祠。
崩壊しようと云わんばかりにボロボロになった木製の小さな祠の中にいる一体の白い前掛けをした地蔵を撮影しようとした時に、僕は微かな音を耳にしたのだった。
ゴソゴソ――。
ゴソゴソ――。
誰かが腐った落ち葉を、枯れ木を、踏み締める様な不快な音を。
懐中電灯の明かりを祠の後ろに向ける。祠の裏には林が広がっている。どこまでも深い闇が林を覆っていた。
そして。
音は次第に大きくなっていき――
祠の屋根になった部分の後ろから髪の長い白装束を着た女が真っすぐに僕を見ていた。
そこからは記憶が途絶えていた。残り二つの祠の事など忘れて無我夢中で走り、ゴール地点に待つ三人の存在すら見えずに、鈍い声を上げながら全速力で神社の境内に抜け、階段を下り、気がついた時には――
また人々の笑顔が溢れる祭り会場に居た。
3 苛められっ子
八月六日。
「おい吉秋。どうしたんだよ?」
時雄の声で僕ははっと我に返った。
「あっ……ごめん。何か用か?」
「さっきから呼んでるのに、聞こえてなかったのかよ。お前もしかしてさっきの事気にしてんのかよ。あぁ、分かったよ。俺はお前の事を信じてやるさ。お前は霊を見た。それでいいだろ」
ついこの間までは霊現象その他一切の事象を否定していた癖に随分と虫のいい話である。
いや、時雄だけでは無い。
白装束の女を見るまでは、僕自身も霊現象の全てを否定する側の人間だった。無論、父親の受け売りに過ぎないのだが。
「もういいさ。霊は僕の勘違いだった。もういい……」
「そんなに落ち込むなよ。あっそうだ。アイツに相談すればいいんじゃないのか?」
「アイツ?」
時雄は、冷たい視線を教室の後ろに向ける。窓際最後尾の席にぽつりと座っている男子生徒。真っ直ぐな髪は眉を覆い隠し、男にしてはとても色白の肌をしている。端整な面持ちをしているが、目はどこか虚ろで、陰気な雰囲気が漂っている。
「新平?」
「そうさ。お前も知ってるだろ。あの事」
「あぁ……」
新平には特別な能力があるという事はすでにクラス中に知れ渡っていた。いや、その情報が流布しているが故に、新平はクラスから孤立していたのである。
特別な能力というのは、霊感の事だ。
どうやら新平には――
見えるらしい。
小学一年の頃、僕は彼と同じクラスだった。彼はその時から孤立していたように思える。常人には見えないモノが見えるという一種の能力は、当時から気持ち悪がられていたのだった。そう言えば彼は視聴覚室で女子生徒の霊をよく見かけると言っていたか。彼の霊視能力はやはり他を超越しているといっても過言ではなかった。
「覚えてるか? アイツこの前も体育の授業中、鉄棒のところで男子生徒の霊を見たっていってたぞ」
「その話なら覚えてるけど」
「新平を神社に連れていってさ、本当に女の霊が見えるか確認して貰ったら、お前の気も晴れるだろう。悪いがこの手の事には俺達じゃどうすることも出来ない。ほら、アイツ友達いないから、いつも暇だろうに」
時雄はそう言うと、渋い目を新平に向ける。
彼は相変わらず陰鬱な無表情を貫きながら、机の上に文庫本を拡げていた。
「そうだけど、でも……」
「いいから行くぞ。ほら――」
時雄は僕の肩を掴み、無理やり新平の机の前へと連れていった。新平は僕達の存在に気がつくと、文庫本を畳み、不思議そうな顔でこちらを見つめていた。
「何か用?」
穏やかな声音である。透き通った女の様な声。
「あのさ――何、読んでたの? 分厚い本だね。実は僕もさ、本好きなんだ」
僕は当たり障りの無い事を訊いた。そう言えば僕は新平とほとんど口を訊いた事が無かった。きっと僕は犬猿していたのだと思う。クラスから孤立している新平と話す事で、僕自身もクラスから浮いた存在になるのではないかと。
それを何よりも畏れていたのだ。
「姑獲鳥の夏。京極夏彦氏のデビュー小説だよ」
淡々とした口調である。彼はブックカバーを取り外すと分厚い文庫本の表紙を見せてくれた。コンピュータグラフィックで作られた美しい娘が柄杓を加えて穏やかに目を閉じている。その有名な作家なら僕も知っている。
何でも妖怪を題材にした小説を書いている作家である。
やはり、新平はその手の世界に詳しいのだろう。
「何だか難しい漢字が沢山出てくる小説なんでしょ。読めるの?」
訊ねると新平は微かに微笑んだ様に見えた。
「難しい漢字にはちゃんとルビが振ってあるから大丈夫だよ。それに読者が読みやすいように改行もきちんとされているから」
新平は意味の分からない事を言った。
「へぇ、詳しいんだね。同い年なのに、もうそんな難しい本が読めるなんてすごいや」
僕が適当なことをぼやくと、新平は小首を傾げる。
「あの、御影くん? 何か用があったんじゃないの?」
「うん、まぁ……」
曖昧に言葉を濁すと、苛立ちを抑える事が出来なくなった時雄が会話に割り込むんだ。
「もうそうじゃねぇだろう。本なんてどうでもいいんだよ。なぁお前さ、幽霊とかそういうの見えんだろ? だったらさ、お前なら吉秋の話が嘘か本当か分かるんだよな? 今日の放課後、一緒に神社に行こうぜ。な?」
「え……あ、さっきの話?」
「そうだよ。お前のその不気味な力で吉秋の言ってる事が本当かどうか見抜いて欲しいんだ」
「――どうして?」
新平は明らかに険悪な目付で時雄を居竦めた。確かに新平が気を悪くするのも理解できる。普段、時雄や僕達――いや、級友達の誰もが新平の存在を無視している。
それだというのに、都合の良い時だけ、彼を利用しようと言う事が新平を不快にさせたのかもしれない。
「どうしてって、お前どうせ暇なんだろ? 付き合ってくれてもいいじゃんか」
新平は黙りこんで、再び文庫本を開き始める。
まるで、時雄の話など聴こえていないかのように。
この行為が時雄の苛立ちを煽った。
「おい、聴いてんのかよ」
「放課後はいつも図書館で読書するって決めてるんだ」
新平は毅然とした口調で言った。
「そんなのいつでも出来るだろ。お前な、そんな事ばっかりしてるから、いつも一人なんだよ。寂しくないのか? もっとクラスメイトと仲良くしろよ」
時雄の言う事は強ち間違いでは無い。新平というクラスメイトは、一年の頃から霊感のせいで孤立していた――様に思えるが、どちらかというとそれはきっかけに過ぎなかった。僕達は彼を犬猿していたが、それは彼自身の内面世界が影響しているのかもしれない。
現在に至るまでの三年間はむしろ、新平の方が級友達を遠ざけている様だった。
――俺は普通では無い。
そのような雰囲気が、新平を覆っていたのだ。
新平は僕達とは違う。
だから、僕達は新平に声を掛ける事を拒んだ。
もし、彼がもっと明るく社交的な性格ならきっと――と幾度か考えた事があった。
「友達なんていらない。君達はずるいよ。こんな時だけ僕を頼って」
そうだ。
新平の言っている事は正しい。今回の件ばかりは明らかに僕と時雄の方が卑怯なのだ。
「ぐっ……」
時雄が怯んだ。
「時雄、もういいよ。あれはきっと僕の見間違いだったんだ。あの神社には霊なんていない」
「吉秋、お前は黙ってろ。あぁ、もうなんかむかついてきた。あのさ、こんな事言っちゃ悪いけど、お前さ、本当は見えないんだろ? 見えないから神社に行きたくねぇんだろ。俺知ってんだよ。お前には本当は霊感が無いって。いや、俺だけじゃねえ、クラスメイトの大半はお前に特殊な力なんて無いって疑ってる。お前は友達が欲しくてみんなに嘘を吐いてるって噂だぜ」
時雄は文庫本の活字を追いかけている新平を睨めつけた。
「ぼ、僕の力は本物だ」
ここで初めて新平は動揺の色を見せた。
「だったら、これはお前にとってもチャンスなんじゃないのか。ここでお前が吉秋の見た白装束の女の存在を証明することが出来たら、俺はお前の事信用してやるけどな。もし来ないってんなら、俺はこの先もずぅ――っとお前を嘘つき呼ばわりしてやる」
「時雄くん。君って本当に厭な奴だね」
「あぁ、よく言われるよ」
パタン――と勢いよく新平は文庫本を畳んだ。
「――仕方が無いな」
新平は大きなため息を一つ零して、僕達の誘いを了承したのだった。
◆◆
放課後。僕達五人は再び長柄神社に集まった。
「私、もう二度とここに来ないって決めてたのに」
朱里が渚の肩に寄り添いながら言う。確かに以前までは普通だったこの神社も、僕があんなものを見たせいで、心霊スポットの様な曰くつきの社と化してしまっていた。
唯一救いなのが、まだ日が落ちていないという事だろう。
傾いた太陽の光が、境内の全てを明瞭と映し出している。以前とは違い、懐中電灯など無くても強気でいられるような気がした。
時雄を先頭にして、僕達は例の祠がある山道を歩き始める。そして、五つ目の祠の前に辿り着いた時、新平はぴたりと足を止めた。
「ここだよ」 僕が祠を指差すと、新平はその方向を見据える。祠の屋根の後ろ、林が広がっている薄暗い空間。そこで僕は確かに霊を見た。
「霊視してみるよ」
新平は毅然とした口調で言う。
霊視とは霊の存在する場所を見分けるための能力である。これは霊感のある人間にしか出来ない、一種の透視能力のようなものである。
それからどれほどの時間、新平が何もない空間を見つめていただろう。五分、六分、七分、彼が霊視を続けている間は、驚くほど静かだった。聴こえるのは、林に住む鳥達の囀りと風で揺れる木の葉の囁きだけだった。
僕達は新平の横顔をずっと黙視し続けていた。
「――ここには何もいないよ。御影くんの言っていた女の人らしき霊の姿は無い。きっと見間違いだったんだと思うよ」
新平が口を開いたのは霊視開始から十分が過ぎた頃だった。だが、彼が放った言葉は正しく、僕が想像していたものとは正反対の事だった。
「そんな……でも僕は確かに見たんだ」
悄然とした口調。僕は嘘を言っていない。
「御影くん。別に君を嘘つき呼ばわりしているわけじゃないんだ。少なくとも僕が今視る限りでは、ここに幽霊というものは存在しない」
「おい、お前いい加減な事言ってるんじゃないだろうな?」 時雄が訊ねる。
「本当さ。ここには何もいない。残念だけど」
しばらくの間、重厚な空気が流れる。僕と新平のどちらが嘘をついているのか?――という厭な空気が。
新平には特殊な力がある。――だがそれを証明できる人間などいない。
そして僕も確かに幽霊を見た。――だがそれも証明できる人間はいない。
どちらにしようとも所詮口論を続ける事など無意味なのだ。
「はぁ……もうなんか幽霊とかそんなのどうでもよくなってきた」
時雄が呆れたように言った。
「吉秋ももしかして霊感に目覚めたのかもね」 渚がからかう。
「もういいから帰ろうよ」朱里が呟く。
「そうだな。帰ろう」
僕と新平以外の三人はそそくさと祠の前から立ち去っていく。何もかもが無意味だったのだ。最初から分かっていたこと。霊の存在を証明できる人間など、いない。例え霊感があったとしても、一般人に霊を見せる事は出来ないのだ。なら、何故この世の中に霊感という能力が流布していったのか。虚言? それとも真実?
僕は頭が痛くなった。
祠の前に残ったのは僕と新平だけになった。
「霊感に目覚めるってどんな感じなの?」徐に新平に訊ねる。不安だった。僕も級友達に変な目で見られる事が。霊を見てしまった恐ろしさより、新平の様にクラスから孤立する恐ろしさの方が圧倒的に勝っていたのだ。
「さぁね。分からない。僕――小さい頃から見えたから。初めて見たのは三歳の時。御墓参りに行った時にさ、死んだはずのお爺ちゃんの霊を見たんだ。お爺ちゃんがお墓の横で笑ってるよってお母さんとお父さんに言ったら凄く気持ち悪がってた。何回か病院にも連れていかれたけど、そんなの無意味だった。お墓に行くと変なものばかりが目に映った。でもお母さんやお父さんの前では、そんなものを見ても何も言わないようにしていた。だって気持ち悪がられるから。御影くんにこの辛い気持ち分かる?」
「……今なら少し分かる気がする」
両親にさえも蔑まれる気持ち。
彼は家庭の中でさえも孤独だったのかもしれない。
「こんな変てこな力のせいで、僕は本心を隠してずっと生きてきたんだ。僕だって本当は胸を張って、霊の存在を証明したい。けれどもそれを霊感の無い人に見せる事は決してできやしないんだ。だから、僕はずっと孤独だった。こんな力なくなればいいってずっと思ってた」
「新平くん……」
掛ける言葉が見つからない。
なんだか酷く自分が疎ましかった。
「御影くん。君は本当にここで霊を見たの?」
「うん。間違いない。ここで僕は女の霊を見たんだ」
「本当に?」
「間違いないって」
そう断言した瞬間、新平の口元が綻んだのを、僕は見逃さなかった。
「君は嘘つきだね」
「――え?」
林を吹き抜ける風が、獣の咆哮の様に聴こえた。
4 新平
「嘘つき?」
「君が見たのは、白装束を着た女の霊でも何でもない。あれは僕だ」
一瞬、彼が何を言ったのか、分からなかった。
目の前の新平は、微かに微笑んでいるが、どこかその表情は哀しかった。今にも泣き出してしまいそうな、弱弱しい目。迷い猫の様な哀しげな瞳。
「僕の見た霊が君? 何を言っているんだ?」
新平は無言のまま祠の方へ歩み寄り、ボロボロになった地蔵の頭をそっと撫で回す。
「――友達が欲しかったんだ」
「友達?」
「そう……もう耐えられなかった。孤独、友達が居ない日々が辛くて仕様がなかった。僕はどうしても友達が、一緒に遊ぶ友達が欲しかった。だけど、こんな変てこな力を持った僕に寄り添う人間など決していやしない。そこで僕はある作戦を考えた」
「作戦ってどんな?」
「普通の人に幽霊を見せる方法さ」
「あっ」
「簡単な事だったよ。夏休み前に君達四人が、ここで肝試し大会をするって知ってたんだ。君達が楽しそうに話しているのを盗み聞きした。そこで僕はこの作戦を思い立ったんだ。四人の内君だけに幽霊を見せ、他の三人に君を疑わせる。君に僕の気持ちを理解してもらいたかった。孤独がどれほど辛いのかを。――七月二五日。白い装束衣装と黒い髪の毛の鬘を近所の雑貨屋で買って夕方ぐらいからずっとこの祠の影に潜んで君達が来るのをずっと、ずっと待ってた」
「そんな……でもどうして僕を選んだんだ? 四人いるんだから、別に僕じゃなくても良かった筈だ。朱里でも、時雄でも渚でも、誰でも良かったはずだ」
新平は哀しげに微笑んだ。
「そうだよ。君の言う通り、誰でも良かった。でも四人の中で一番友達になれそうなのが君だった。――君が小説が好きなのを知ってたから」
小説。
確かに僕は読書が好きだった。
それは僕と新平との唯一の共通点だ。
「それで、僕と……」
「君となら友達になれると思った。だから肝試し大会の夜、一人でここにやってきた君の前に、女の霊となった僕は姿を現したんだ。君が驚いて一目散に逃げて行ったのを見て、僕は作戦が成功したのを確信したよ。これで、君もクラスから孤立すると思ったからね」
「新平くん……」
彼は寂しかったのだ。
だからこんな下らない悪戯を。
「これで君は、僕と同類だ」
新平はそう言って、祠の前からゆっくりと歩を進めた。山道を下っていこうとする彼の暗い後姿を視線だけで追いかける。
孤独。
僕が見た女は、偽りでは無かった。
ただし、それは幽霊では無く新平だった。
嘘をついたのは、新平だ。
僕は悪くない。
だが。
孤独。
新平も悪く無い。彼は友達が欲しかっただけだ。
毎日他愛もない話をする級友が欲しかっただけなのだ。
ただ彼は余りにも不器用過ぎた。
待って!
彼の後ろ姿に、大声を放った。
そして追いかける。
新平はぴたりと足を止め、こちらをくるりと振り返った。
「何?」
「――僕だけでいいの?」 訊いた。
「え? 何が?」
「友達が僕だけでいいのか? って訊いてるんだよ。もっと、いっぱい欲しくないのかって訊いてるんだ。毎日、学校に来て、くだらない話や、一緒に遊んだりする友達。もっと欲しいんだろ?」
「――僕は……」
新平は言葉を切り、黙りこんだ。何かを考えているかのように。
もどかしい。
「素直になるんだ。――僕が力になってあげるから」
僕は彼に右手を差し出す。
彼は一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、やがてその意味を理解出来たのか、照れくさそうに視線をうつむせにして僕の掌を弱弱しい力で握りしめた。
新平は恐らく握手というものをこの日初めてしたのかもしれない。
「君が力に? どういう事?」
「僕が君に霊感があることを証明してあげるよ。君が僕にした事をもう一度やるんだ。時雄達の前でね」
「え?」
「分からないのか。いいかい。今度は僕が幽霊役を引き受けるって言ってるんだ」
新平ははっとしたかのように口元を開けた。
我ながら素晴らしいアイディアだったと思う。これが孤立した彼を救うべき最善の策だったとすれば、新平が僕に悪戯を仕掛けたのも何かの縁だったのかもしれない。
今度は僕が女の幽霊の格好をして、新平が引き連れた三人を脅かしてやれば、流石に彼らも、新平の力を信じる他無いのだ。
「そんな事して信じて貰えるかな?」
「大丈夫さ。僕は君にすっかり騙された」
そう言って僕が物可笑しげに笑うと、彼も釣られたように口元を綻ばせた。
その時僕は思った。
この瞬間に見せた笑顔が彼の真実の笑顔なのかもしれないと。
柔和に垂れさがった眼尻。
包み込むような温厚な笑顔。
人に嘘を吐くのは良くない事だと思う。
しかし嘘を吐くことで誰かを救えるならば、
僕は嘘を吐くべきだと思った。
「御影くん。僕……友達出来るかな?」
「出来るさ。きっと」
計画が実行されたのは翌日の夜の事である。
霊の姿をした僕が三人の前に姿を見せた時、それぞれがどのような表情を浮かべていたかは、ここでは綴らない事にする。
だが、冒頭で述べた作文が真実になったという事は明らかである。