運命の始まり〜と書いて腐れ縁と読む
初めて君に触れた時、これは神様が僕に授けてくれた宝物だと思った。
すごくすごく、大事にしなきゃいけないんだって。
君が笑ってくれたから、僕も許されていいんだって。
僕の指を握りしめた君の手に、今でも僕は捕まったままなんだ。
夢と現を間違えはしない。間違えようがないからだ。現の世界にあの子はいないから。
目覚めた時、すぐに目に入ったのは、見慣れた自室の天井ではなく、女の子の顔だった。女の子と言っても、恋人とかそういうのとは違う。何故なら、てるはまだ九才になったばかりだ。僕に膝枕をし、あと年が五つ上なら、慈悲深いと言えるような微笑みを浮かべている。
「四郎様」
彼女は黒目の大きな瞳を柔らかく綻ばせ、無意味に僕の名前を呼んできた。僕は畳の上に肘枕で眠ってたはずだから、彼女が僕の頭を持ち上げて、自分の膝に乗せたことになる‥‥‥自分で寝ぼけて彼女の膝に抱きついたなんて考えたくない。
「抱っこ」
至極、単純に彼女は要求してきた。
「てるが抱っこしてあげてたから、次は四郎様の番よ」
「ああ、いいよ」
僕は彼女の膝から頭を起こし、その小さな体を抱き上げた。彼女は僕の体の中に自分の定位置を見つけているらしく、抱き直さずとも安定して僕の腕に収まる。
彼女がこうして必要以上に僕に甘えたがるのにも理由がある。彼女の父親はお役人。母親は既にない。世話とか教育とか、そういった義務的なものから離れて、彼女を構う大人はいないと言っていいだろう。
(りん……)
彼女の相手をしてる時、いつも思う。あの子には抱き締めてくれる腕があるのだろうか。いないことはないだろう。人の情というものは、理由もなく取り上げられる一方で、無条件に与えられるものでもある。
いつしか、てるは目をつぶっていた。寝たふりさえしてしまえば、本当に眠ってしまうまでは、僕が彼女を置いていかないことを彼女は知っている。
「誘拐?」
聞き慣れない物騒な単語。彼の顔を見れば、それが聞き違いなどではないことは分かる。
いつもの場所、いつもの顔ぶれ。北辰一刀流の千葉道場は今日も塾生で暑苦しい賑わいを見せている。
今は昼の休憩中。この時間に顔を出したのは、ここの塾頭の友に特に用事があってというわけでもなかった。たまたま道場の前を通りかかった時刻が昼だったに過ぎない。
「一昨日、橋の下で手首だけが見つかったちゅう話じゃ」
いつものバサバサ頭。いつものヨレヨレ袴。だが、今日の彼の表情にはいつもの明るさがない。
「その前はゴミ箱の中に足がまるまる一本、その前は寺の狛犬の頭の上に耳、同じ日に頭の皮が見つかっちょる」
「……」
先週、呉服屋の娘が行方不明になったのだという。五歳のその娘は縁日で、母親がちょっと目を離したうちに、いなくなってしまったのだ。日を置いて、断片的に体の欠片だけが見つかっている。母親は発狂し、川に身を投げた。助け出されたが、未だに意識が戻っていない。
四郎は両手に持っていた茶がすっかり冷たくなっていることに気づき、側に置いたままになっている盆の上に戻した。からっと晴れた陽気にも関わらず、日溜まりの縁側の温かさが、ひどく湿って感じられた。
(探すだけ無駄だろうな)
四郎は言葉に出さず、ひとりごちた。
被害者の子供の安否は言うまでもない。そして、犯人。こういった猟奇的な行動を起こす者ほど、平穏な表情を保ち、普通の何でもない人々に溶け込むのが巧い。そして、それを見分けるのは不可能に近いのだ‥‥‥彼らと同種の人間でない限りは。
この事件のように、人混み雑多な縁日での連れ去りとなれば、目撃者を確保できなければ、犯人はまず捕まらない。一週間経って、犯人が挙がらないということは、つまりはそういうことなのだ。
「道場の若いもんも見廻りに駆り出されるぜよ。ま、半分以上が立候補じゃが」
自慢気に言う彼も、自分とそう年は違わないはずだった。十五歳と十九歳。あと十年も経てば年の差という差はどうでもいいものになるだろう。
「あんたも参加するのか? 龍馬」
「実はおまんを誘おうと思っちょったところじゃ」
彼、龍馬は掻き込むように四郎の肩に腕を回してきた。だらりとはだけた衿は鍛錬直後だからだけというわけではない。少なくとも、四郎は龍馬の袴に折り目がついているのを見たことはなかった。
(断れば悪人だよな)
やるべきことさえやってしまえば、そのきっかけがどれほど悲惨な出来事であったとしても忘れてしまうのが若者という人種である。四郎は曖昧に頷いた。
どたどたと、慌ただしい足音が近づいてきた。
「龍馬ー!」
寝起きにはあまり聞きたくない甲高い少女の声が龍馬の肩に噛みついた。
「わたしを仲間はずれにするのって、どういうことよ?!」
現れたのは、十六歳ほどの少女だった。色白で小柄な体躯に短めの紫の袴がよく似合っている。白の元結いで結い上げた長い黒髪、小顔にきりっとした奥二重の目。美少年という形容がぴったりだが、彼女はこの千葉道場の娘、佐那子だ。
「遊びに行くんじゃないぜよ」
「分かってるわよ!」
佐那子は四郎と龍馬の間に割り込むように(正確には四郎を押しのけるように)腰を降ろした。
「あんなひどいことする奴は、生まれてきたことを後悔するような目に遭うべきだわ。わたし、間違ったこと言ってるかしら」
「指摘しづらいが、あまり大声で言わん方がええぜや」
「そうよね。犯人に聞かれたら元も子もないもんね」
「……」
龍馬はこめかみを押さえた。
「連れてってあげれば?」
事も無げに言ったのは四郎だった。佐那子が間にいる為、龍馬がどんな顔をしてるかは見えないが、想像はつく。その上で、更に続けた。
「女子だってことを考えなければ、戦力になることは否定しないだろ? それに、彼女を加えることで、また見廻りに参加する人が増えるかも」
これが本格的な捕縛作戦なら、彼女を囮にするというのも考えられるのだが、四郎はそれは言わないでおいた。別に彼女でなくとも、自分が女装すればいい話だ。今の素の佐那子よりは綺麗に『作れる。』口が裂けても言えないが。
龍馬が力なく項垂れた。手元にどんな手札を持ってようが、関係ない。佐那子の気まぐれから本気まで、付き合うしかないのが、彼と彼女の関係だ。
夜な夜なの見廻りの効果はあるとも言えるし、無駄だとも言えた。下手人は捕まっていない。ただ、新たな犠牲者の話は聞こえてこない。下手人の捕縛という意味でならさっぱりだが、凶行の予防という点では大きな効果を挙げていると言える。
「奥義・バク転だるま転がし!!」
意味不明の必殺技の名を叫びながら、佐那子が木刀を尋常じゃない速さで振り回しながら突進してくるのを、四郎はどうということもなく眺めていた。
やはり、運動神経はずば抜けて優れている。それが大流儀、北辰一刀流の千葉家の血統によるものなのか、本人の努力によるものなのか、あるいはその両方なのかは分からない。が、どうでもいいことである。彼女は剣の天才。その事実は動かない。
扇型の残像を描いて振り下ろされてくる木刀。四郎は僅かに体をずらしただけで、完全にその軌道から逸れる。佐那子の顔が歪むのが見えた。次に来る衝撃を予想してのことだろう。かわいそうだと思わないでもなかったが、四郎はいつもの通り、彼女の脇に回り、軽く肩を押した。触れる程度に。
「きゃぁあああぁあぁぁぁああ!!」
それだけで、彼女の体はバランスを崩し、派手に転倒する。四郎が唇を動かす前に、彼女は木刀を杖のようにつき、腰を上げた。だが、打ち所が悪かったのか、完全に立ち上がれないでいる。
「まだよ。まだ、負けてないわ」
頬を紅潮させ、こちらを睨めあげる彼女の汗ばんだ首筋に当てたのは、木刀ではなく、人差し指と中指の二本の指。
「納得したかい?」
空いた手で木刀を肩に担いだ格好のまま、四郎が言うと、佐那子は何を言い返すわけでもなく、ぺたんと尻を床についた。ただ、その貫くような視線だけは対峙した最初からずっと四郎に突きつけたまま、今も変わらない。
「ズルいわよ」
拗ねた顔で、彼女は小さく呟いた。そう言いたくなるのも分からなくはない。
「悪くないよ。あと一年もしないうちに、僕も木刀を使わないといけなくなるな」
「その嫌味な喋り方、何とかならないの?」
彼の何かどれにでもケチをつけてやらないと気が済まないとばかりに、佐那子はぶっすりと呻いた。
「とにかく、約束は約束だよ。君は今夜から大人しく家にいること」
「うるさいわよ。何よ。分かってたのよ、本当は! 僕から一本取れるなら、龍馬も心配することないだろうけど、なんて! いつもの口車じゃない」
「その口車に乗ったのは君だ。それに、龍馬が君の身を心配してるのは本当だよ」
「嫌い! もう、あっち行ってよ!」
佐那子は草でもむしるように床の上で拳を握り、四郎の背中に本当にちぎった草でも投げつけるような仕草をした。
(龍馬の奴も、このくらいことが考えつかないことはないんだろうけどね)
龍馬も刀を取らせれば、四郎と互角以上に渡りあう。塾頭の肩書きは伊達でも贔屓でもない。だが、彼の気持ちが分からないわけではない。大切な宝物を扱う時、人は誰でも臆病になり過ぎる。震える指で触れて、取り落として、壊す。あるいは、触れることすら出来ずに、朽ちさせる。そして、誰もそれに気づかない。
(分かるよ。すごく分かるんだけどね……)
千葉道場を出た四郎の足は、ごく自然に鄙びた街並みへ向かっていった。牛込の烏道場‥‥‥試衛館へ。
中へ入るわけでもない。ただ、通り過ぎるだけ。あの子が掃き清め、水をまいたかもしれない道場の前を。もしかして、おつかいか何かでここから飛び出してくるようなことを期待していないと言えば嘘だろう。だけど、それが馬鹿げた妄想だと認識できる理性はいつだって残っている。
「行ってまいります。若先生」
快活な童の声が門の奥から聞こえてきた。
四郎は道の角へ身を隠した。そうしなければいけない理由は思いつかない。しかし、あのまま往来であの子とすれ違うことは出来そうにもなかった。
門の奥から出てきたのは十歳くらいの少年に見える。紫色の風呂敷包みを抱える両手も、短い着物の裾から除く足もカリカリに痩せていたが、不健康というよりは、年齢に不相応に引き締まった印象がある。それは的はずれでもないかもしれない。『少年』は、ここしばらくの間に、試衛館の正式な弟子として迎え入れられたという話だから。
欲目でなく自分に似てると思う。並んで歩けば、誰もが兄弟だと見るだろう。その想像は楽しかった。
ふらふらと少年の後をつけるような感じで歩きながら、一丁目で四郎は自分がとんでもなく馬鹿げたことをしてるという自覚に負けた。このまま視界にあの子を入れていても、抱き締めることはおろか、話しかけることもできない。ああ、もしかして、あの子が抱えてる風呂敷が解けて、落とし物でもしてくれることでも期待していたのか? だとしたら、お前はどうしようもない大バカ者だ。小島四郎……父上の教えをもう忘れたのか。
落胆と安堵が重なって、じっとりと重くなった足取りで、四郎は元来た道を引き返した。しばらく、来るのはよそう。沖田さんはしっかり約束は守ってくれているし、今のところは約束が破られることも、秘密が漏れる危険もなさそうだ。
ザリ……と、下駄の歯が砂を噛む音がした。背後から。どうということもない。しかし、振り向いたのは正解だった。
視界いっぱいに広がった影が人間の拳だということを認識したのは、視覚よりも直感だった。四郎は腰を屈め、地面に手をつくと、そこを重心にして、足払いをかけた。
「ちぃっ!」
だが、敵もなかなかやる。垂直跳びで四郎の足をかわし、そのまま真上から足を振り下ろしてきた。
(闘い慣れしてる!?)
動きは雑だが、無駄はない。専門の訓練を受けた、というよりは、喧嘩の場数を踏んでいるという感じだ。どちらが厄介かは場合にもよるが、後者の方は次の動きが読みにくい為、前者である四郎はやりづらい。
四郎は迷わず地面についていた手を握った。そして、男の顔面に叩きつけるように開く。
「ぶわっ!」
突然、砂をぶちまけられた男は目を押さえて、動きを止めた。その隙に、四郎は腰を上げ、逃げ出した。
(間違いない。あいつだ)
特徴は覚えた。年齢は二十歳ほど。背は高い。色白で二重の切れ長の目。鼻筋は通って、顎は細い。要するに文句のつけどころのない美男子だということだ。
四郎は自分の閃きを疑わなかった。往来で無抵抗の子供にいきなり殴りかかってくるような奴がそう何人もいてくれてはたまらないではないか。
(間違いねぇ、あいつだ)
歳三は慎重に目に入った砂を取り除きながら、確信した。
特徴は覚えた。年齢は十五、六ほど。小柄だが、何かしらの戦闘訓練を受けている。どこかしら宗次郎に似た印象を受けたのは、中性的な面差しのせいだろう。
疑いの余地はない。塀の陰に隠れて、宗次郎の後をつけていた。途中で尾行を止めたのは、俺に気づいたからだろう。
試衛館にて。
「怪しい奴を見ただと?」
勇は訝しんだ。太い顎を撫でながら、今耳から入った情報を噛み砕いてるようだ。
「しかし、トシよ」
最初から信じてもらえるとは思っちゃいない。
「宗次郎をつけてたってか? 人並みの愛情を持った人間が、可愛い子供を可愛いと思うことまで怪しんでは可哀想ってもんだ」
こういう奴なんだ。もっとも、歳三は勇のこの鷹揚さが好きだが。
「真面目に聞いてくれ」
一刻を争う。奴は自分の顔を覚えられて、焦ってるはずなのだ。
自分があの時あの場所にいなかったら、どうなっていたか。宗次郎は確かに剣才がある。だが、子供は子供だ。
「調べはついてる」
宗次郎を守ってやれるのは自分しかいない。
「名前は小島四郎。赤坂の金貸しの倅だ。そこらの若君より高等な英才教育を受けてるらしいが、要するに、学がある奴はロクでもねぇってことだ」
「で、どうするんだ?」
「一人の時を狙って消す」
「……」
ジト目になる勇は既に眼中になく、歳三は策を練りだした。
(門下でもないのに千葉道場に出入りしてる。そこの娘といい仲とか? ふむ……)
そして、全く同時刻の小千葉。
「怪しい奴を見ただと?」
重太郎は訝しんだ。太い眉を上げながら、今耳から入った情報を検分しているようだ。
「しかし、四郎ちゃんよ」
最初から信じてもらえるとは思っちゃいない。
「いきなり襲われたってか? お前は自分で思ってるより可愛いんだ。佐那子がいなけりゃ、小千葉のアイドルはお前だったって、龍さんも認めてるよ」
こういう人なんだ。もっとも、四郎は重太郎のこの口の軽さが嫌いではない。
「茶化さないでください」
一刻を争う。奴は自分の顔を覚えられて、焦ってるはずなのだ。
もし、あの子をつけるなどという気まぐれを起こさなかったら、何が起きていたか分からない。
「調べはついてます」
妹を……りんを守ってやれるのは自分しかいない。
「名前は土方歳三。石田村の豪農の出です。定職はなくて、家業の薬の行商をたまにしてる程度……いい年して、ブラブラしてる大人の辿り着く末路の一つってことですよ」
「で、どうするつもりなんだ」
「一人の時を狙って消す」
「……」
半眼になる重太郎から意識的に目を逸らし、四郎は策を練りだした。
(相当な女好きだっていうな。気は進まないけど、使えるものは使うべきだ)
見廻りが無駄だとまでは言えないが、無意味だとは言えそうだ。
男は新しく手に入れた、「恋人」の頬に頬を寄せた。こんなに可愛がっているのに、何一つ応えてくれない。それがもどかしくもあり、愛おしくもある。確かに彼女は何かを感じているはずなのだ。魂は肉体が朽ちても不変のものだと、男は信じている。
格子窓の外、濃紺の夜闇に篝火がチラチラと見える。見廻りどもの火だろう。
何をそうムキになるのか分からない。今、自分が「恋人」と戯れていることが、人形の首をもいで遊ぶ子供とどう違うものか。人間の体は死ねばただの物体に過ぎない。人形と同じだ。ただ、人形の腹から出るのが綿で、死体からは血と内臓だという、その小さな違いがあるに過ぎない。
そうだ。そんなに大騒ぎするようなことではない。
(次は男の子がいい。今日、来た試衛館のチビ……)
可愛い子だった。あんまり可愛かったから、酒を少しまけてやった。礼儀正しく、礼を言っていた。また、来るだろう。あんなに優しくしてあげたんだから。
この格好が使えるのも、今年限りだろう。いや、今年限りでありますように。
四郎は祈りながら、鏡の中、唇に紅をさす美少女を見ていた。
(よし、完璧)
あの土方歳三がどれだけ遊び倒してようが、この娘に引っかからないようなら、女好きの称号は取り上げるべきだ。
朱色の縦縞の着物、佐那子から借りたものである。ついでにここも佐那子の部屋だ。潔癖で龍馬以外の男には冷淡な彼女だが、何故か四郎には気を許して、普通に部屋に上げてくれる。本家へ泊まりがけで出かけた今朝ですら、あっさり着物を貸してくれ、化粧道具まで用意してくれた。もしかして、この辺が彼女が四郎を受け入れてくれる理由なのかもしれない。
四郎は道場の外に出た。昼日中、人通りは普段と同じ程度に賑やかである。すれ違う男、女、老人、子供の視線を意識しながら、薬売りの姿を探した。
「すいません」
袖を引っ張られ、呼び止められた。男ではない。男には違いないが、子供だった。
「あの、これ」
子供がおずおずと差し出してきたのは文のようだった。付け文か。
四郎は子供に駄賃を握らせ、文を開いた。綿々とした繊細な文字で、
《 満天屋にて、お待ちしています。情けをいただけるなら 》
土方歳三の名前が最後に記されている。十分だ。
満天屋と赤い看板が掲げられている甘味処で、歳三は待っていた。通りすがりの(それでも、なるべく賢そうな)子供に、千葉道場の佐那子お嬢さん宛てに付け文を届けさせた。男むさい道場の中で、美少女の誉れ高い佐那子は目立つことだろう。人を間違える危険はない。
(一度、お目にはかかってみたかったんだよな)
試衛館のような弱小道場では、大流儀の千葉道場と練習試合など、夢にすら見ようがないが、そこの剣術小町の名は歳三も知っている。ただ、実物は見る機会はなかった。
(抱けるなら抱いてもいい。だが、本気になられても困る……小島の若様を呼び出す囮だからな)
女の扱いには自負がある。歳三に口説かれて落ちなかったのは、女色趣味のお志摩くらいのものだった。女装してくれるなら、逢ってもいいと返事をもらった時は、流石の歳三も泣くしかなかった。
(ま、昔は昔さ……)
気を取り直す意味もあって、食べかけの団子を口に入れる。口の中を工夫のない甘みが浸食していく。とてもではないが、逢い引きの用事でもなければ、来るような場所ではない。
ほぅ……と、綿毛のような溜め息が洩れた。どこからともなく。
空気に釣られて、そちらを見やった歳三は、その姿勢のまま硬直した。暖簾を潜って、一人の若い娘が入ってくる。目が合うと、ふわりと目を細めた。
「あなたが土方様ですの?」
美しかった。例える必要もない程に。
この前会った、兄の友人の三味線問屋の娘もなかなかの上物だとは思ったが、それでも、彼女は人間の娘だった。
「佐那子でございます」
とろけるような微笑みを浮かべ、握り拳一個分の距離を置いて、自分の隣に腰を降ろした娘は、本当に血と肉で出来た女なのだろうか。
脱がせてみたい。いや、確かめてみたい。結局は同じ意味か。
「いつぞや、道場へ薬を売りにいらした方ですわよね?」
彼女が自分を覚えていることを、歳三はそれ程不思議だとは思わなかった。この江戸で彼女と並んで釣り合うのは自分くらいのものだ。
「弟子達が次から次へと打ち負かされるのを見た時は、目を疑いましたわ」
歳三は鼻の頭がむず痒くなった。打算や欲情抜きにして素直に持ち上げられたのは、随分久しぶりのような気がする。
「俺なりの修行なんですよ。型通りの剣術競技を極めるより、流儀それぞれの強いところを身につけた方が実戦で強いんじゃねぇなって」
薬と引き替えに一手の教えを請う。道場破りと違うのはそこであり、そこしかない。今のところ、歳三と互角に立ち会えるのは、試衛館の跡取りの勇か、心形刀流の後継で伊庭の小天狗の異名を持つ八郎くらいのものだ。宗次郎とはまだまともに立ち会うつもりはないので、数には入れない。入らないはずだ。
「頼もしいですこと」
佐那子は気分を害したふうもなく、歳三の手を取ってきた。
「一応、『型通りの剣術競技』の師範代である私と立ち会えば、どちらが強いでしょうか」
「試してみましょうか」
「ええ。もし、土方様が勝ったら、一つだけ言うことを聞いて差し上げます」
挑発するように見上げてくる瞳は、黒に近い紺だ。くっきりした目元に、ミルクのような肌はよく見ると白粉の色ではない。異国の血が混じっていると言われれば、疑問もなく納得するだろう。
ごくりと喉が鳴った。
(いい……こいつは、いいぞ)
女は跳ねっ返りの武家娘に限る。じゃじゃ馬馴らしは得意とするところだ。
二人は店を出る頃には、傍目には絵物語の一対のような完璧な「カップル」になっていた。そして、その嫌でも目につく組み合わせを「少年」が目に留めたのは偶然とは言い切れない。
(……歳さん)
おつかいの帰りだった。聞き覚えのある笑い声に振り向き、それが聞き違いでないことに軽くはない落胆を覚え、宗次郎は奥歯を噛んだ。
(綺麗な人。新しい恋人かな)
兄と慕う男と並んで歩く美少女の後ろ姿から目を逸らせず、宗次郎は嘆息した。
だから、これは不幸な事故だった。
背後から伸びる手に気づけなかった。幼いながら、竹刀を取らせれば、歳三すら三本に一本は取られる宗次郎が。
どがっ!!
木刀の柄が顎にめり込み、歳三は蹲った。たった今、彼女の刀から叩き落とした木刀である。得物を手放した瞬間に、負けは決まる。一対一、剣対剣の常識だ。だが、この千葉佐那子、なかなか喧嘩のやり方を心得ている。
名前のない寺の裏、たまに浮浪者が寝床にしているこの広場は、もう少し手入れが為されていれば逢い引きの場所にも悪くはない。
「ってぇ……」
視界がぼやけた。涙目になってるらしい。
「もう降参ですの?」
佐那子はクスリと笑った。歳三に叩き落とされた木刀を蹴り上げた足が、惜しみなく裾から出ている。細い足だ。太ももをくっつけても、膝の間に隙間が出来るような。白い足、そして、白い下帯……!?
何かの間違いかと思ったが、それはよく見慣れたものだった。
今の顎への一撃とは比べものにならないショックに、歳三は目の前が真っ暗になる。
「おい」
「はい?」
事態に気づいていない佐那子、いや、佐那子の名を騙る「野郎」を白い目で睨み、歳三は無言で、はみ出た下帯を指さした。
「許されるシャレと、許されねぇシャレがあるって知ってるか?」
力がみなぎっていくのが分かる。拳ってこんなに固かったかなぁと思いつつ、歳三は目の前の美少女に扮した見知らぬ少年に突進した。だが、少年は軽い体さばきで避けると、歳三の手首を掴んだ。攻撃を封じ、バランスを崩す。
「色々ともう知らねぇからな!」
だが、歳三は倒れない。そのまま、力ずくで少年を引き回し、地面に叩きつけた。
「くっ!?」
少年は受け身を取った。意識こそ手放さなかったが、歳三に組み伏せられてしまう。力、体重ともに敵わない。打てる手はなかった。
「……負けたら言うこと、聞くっつったよな」
「一つだけな」
「答えろ。どういうつもりだ。てめぇ、こないだ宗次郎を尾けてた奴だな」
少年‥‥‥四郎は押し黙る。宗次郎、沖田宗次郎は妹の名だ。事情があって、男としてして育てられてはいる。でも、あんなに、あんなに可愛い子はいない!
(名前が割れてる。相当前から狙ってたのか)
疑心暗鬼に陥った人間は例外なく視野が狭まる。
(だんまりか。相当後ろ暗いこと企んでやがったな)
歳三が四郎の衿を掴みあげ、空いた方の手で拳を作ったその時である。
「トシ!」
門の方から、慌てた様子の男が走ってきた。岩石を削りだしたような武張った顔立ちだが、目元が柔らかいせいか、見る角度によっては幼く見える。
「勝ちゃん?」
歳三が男の名を呼んだ。注意が逸れた一瞬の隙に、四郎は歳三の手から抜け出し、駆け出した。
(仲間か! くそっ、あの強面がどれだけ弱くても、この喧嘩屋に加勢されたら、勝ち目なんかない)
素早く判断し、四郎は駆け出した。
「あ、待ちやがれ!」
歳三がすぐさま追ってくる。もはや、強面男は視界の外だ。
「待て、トシ! 大変なんだべぶっ!!」
(宗次郎が帰ってこない!)
牛若丸よろしく、ひらりと飛びあがった四郎の草履の底に顔面を踏まれ、強面男はあえなく地面に沈んだ。
「悪ぃ、勝ちゃん! 今これより大変で重要なことぁねぇんだ」
倒れて痙攣している男の脇を走り抜け、歳三は、行き先を走る四郎に向けて眼差しを強めた。
殴ってしまったのは失敗だった。折角の愛らしい顔に傷がついた。程なくして直る程度のものだが、それまで待てるかと問われれば、ぼんやりと否だ。
名前のない寺の裏、たまに浮浪者が寝床にしているこの広場は、もう少し手入れが為されていれば逢い引きの場所にも悪くはない。
「坊やが悪いんだよ。大声出そうとするから」
ぐったりと動かない童の頬の痣を擦り込むように撫で、洩れたのは愉悦の溜め息。
これからゆっくり服を脱がせ、じっくりと楽しんだ後、バラバラに切り刻む。切り刻んだ体の欠片を埋めれば、綺麗な花が咲く。誰かがそう囁いたのだ。美しい世界の造り方を。
「……う……」
童の頭が動いた。剣道で鍛えた体は、いつまでも眠ってはいられない。それは間違いなく幸運のはずだった。意識さえ戻れば、少なくとも自分の意志で動くことができる。
「おや?」
はっと開いた目が、まともに自分を殴り飛ばした男のそれとぶつかった。
「待ってたんだよ。君が目を覚まして、僕を見てくれるのを」
「…………」
声が出ない、助けも呼べない。逃げようにも、腰が立たない。ただ、首がゆるゆると横に振れた。
(嫌だ。助けて、誰か……)
縛られているわけではない。立ち上がって、全力で走れば、逃げられる。猿ぐつわを噛まされてるわけでもない。声を出して、助けを呼べば、誰かが来てくれる。
しかし、本能的な部分で、それがかなわないことが分かっていた。気絶している自分を縛らなかったのは、そうする必要がないと、男が判断したからに他ならない。逃げても、必ず追いつかれる。叫ぼうとすれば、また殴られるだろう……
(助けて、助けて‥‥‥若先生、お光姉さん)
思い浮かぶ。泣いている時、困っている時、魔法のように救いの手を述べてくれた大好きな人達の顔。
「そこの人!」
声変わり前の少年の声に聞こえた。
「その子を連れて、逃げてください!」
唐突に、無茶苦茶な唐突さで、墓石を蹴倒して現れたのは、宗次郎の予想に反して、一人の少女だった。見覚えがある。さっき、歳三さんと歩いてた娘だ。目の覚めるような美少女ぶりだが、髪も裾も乱れ放題である。
「へ?」
困惑してるのは男も同じだった。少女は宗次郎を抱き上げ、男の腕に押しつけた。
「変質者が来るんです、早く!」
「えっと……あの……」
「見つけたぞ!」
墓地の方から、また一人、若い男が現れた。それは宗次郎がよく見知った顔だった。
声を上げる間もなかった。
少女が蹴倒した墓石が飛んでくる。男が投げ飛ばしたのだ。小さめの墓石とは言え、重量はあるだろうし、それに込められた祈りはそれ以上に重いだろう。単純な力学から、人としてそれどーよ的なところまで、信じがたい光景であることは間違いない。が、宗次郎は知っている。彼はそういう人だ。
「りん!」
四郎は宗次郎を抱きすくめ、地面に伏せた。その上を墓石が通り過ぎ、男の顔面に突き刺さる。無音の悲鳴があがり、男は為す術もなく倒れた。どんなに軽く見ても、鼻は折れているだろう。
「おい」
歳三が一歩前に出るのと、四郎が宗次郎を抱いたまま起きあがるのは同時だった。
「歳さん!」
そして、二人の目が点になったのも同時だった。
四郎の腕をすり抜け、歳三に飛びつく宗次郎。歳三の目には、四郎は宗次郎を庇ったように見えた。いや、そうでない要素はあるか?
「あ」
二対の点目が、墓石を顔面にめりこませて倒れている男に注がれた。
「妙なもんじゃのぅ」
下手人捕縛の報せは瞬く間に江戸中に伝わった。尾ひれも背びれも胸びれも付いて、である。噂に疎い龍馬ですら知っている。四郎は自分からはとても言う気にはなれなかったのだが。
我が者顔と言うより、四郎の部屋のオプションのような感じで、龍馬はすっかり溶け込んでいる。特な持ち味とも言える。
「おまんが男と逢い引きしてて、その痴話喧嘩にたまたま巻き込まれたんが、その下手人か。江戸も狭くなったもんぜや」
「やっぱり四郎って男の人の方が好きだったのね。うん。でも、いーんじゃない? わたし、そういうことには結構寛容だし、あ、でも龍馬に手は出さないでね。出したら殺すからね」
佐那子はお手玉をしながら、向かいで手を叩いている少女に笑いかけた。
「ね、おてるちゃん。あなたの恋敵は男ですって」
「てるに変なこと吹き込むなよ」
四郎は子猫でも摘むように、てるを佐那子から引き離した。冗談じゃない。てるは寂しがりで人懐こい。佐那子にだって懐くだろう。恐ろしい。
「四郎様」
大丈夫。この子は何にも分かってない。ただ、普段人気のないこの部屋に、龍馬と佐那子、賑やかな客が来たのが嬉しいのか、ずっとご機嫌だった。
「歳三様のバカ!!」
女にグーで殴られたのは、ガキの頃に、姉、のぶの着替えを覗いて以来だ。
「違うんだ、お琴! あの話は八割方は事実だが、残りの一割は全くのデタラメで」
「あなたが小島の若様と恋仲で、女装させてまでの昼日中に逢い引きして、縁結びのお寺の裏でコトに及ぼうとして抵抗されて、そのもみ合いのすったもんだで下手人を巻き込んでお縄にしたんでしょ!? 近藤さんから全部聞いたんだから!」
「あぁぁぁぁ……」
歳三は頭を抱えて、呻いた。勝ちゃんがあの現場を見たなら、確かにそうと見えないこともないだろう。「トシ、あの女は?」「あらぁ男だ」「まぁ、あのくらいの美形なら、悪くないかもな」「喧嘩だよ、ただの喧嘩だ」「珍しいな。お前もついに本気の恋をしたか」……昨日のやり取りを思い出し、歳三は憂鬱になった。誰に何をどう言えば、信じてもらえるのだろう。
窓から見上げた空はどこまでも蒼く、高く、妙に目に染みた。