喧嘩上等
母さん、と呼びたかった。それまで一度も、そんな風に呼んだことがなかったけれど。この人が、本当に俺の母親なんだと、心底感じていた。
けれど、今の俺は父を演じていて、その頃の思いも記憶も消えることなく心を揺らす。思い人として、妻として、これ以上に可愛い女なんか、いるわけがないとも感じる。
泣きたくなるくらい、この人が愛しく大切だと思った。どうしたらいいのか、わからなくなるほどに。
だから俺は、言うべき言葉が見つからず、母と見つめ合っていた。膝の上で抱き締めて、至近距離で瞳を覗きこんで。言葉もなく、濃密に心を交わして。
だが、ふと、背筋がぞくりとして、首の後ろがじりじりと焦げつき始めた。なぜか腹の底がスカスカして、いてもたってもいられなくなる。
凄まじい危機感がいっぺんに襲ってきて、俺は母を押し倒し、とにかく地面に平伏した。
その頭上を、風が唸りをあげて通り過ぎる。次の瞬間には、ぱかぁんと滑稽な音をたてて、母がさっきまで着いていたテーブルセットが二つに割れた。
風の攻撃魔法だ。俺はそろりと首をひねって、攻撃元を見上げた。
ルシアンとジョシュア・コルネードが空に浮いている。というか、臨戦態勢なルシアンの肩に手をやって、ジョシュアが慌てて止めている。
ルシアンは、五月蝿げにジョシュアの手を払って、宣戦布告の怒声をあげた。
「そろそろ正気に戻ってもらおうか、兄さん!!」
同時に第二波がやってくる。今度は直撃コースだ。あまりに近くから放たれた強力なそれを、単体の魔法で防ぎきる自信がもてず、俺は咄嗟に、さっき触れた防御魔法陣をイメージして展開した。
攻撃魔法がぶつかった瞬間、ぱあっと光が生じ、防御力へと変換される。それを見定めて魔法を停止させたが、いっぺんにごっそりと魔力を消費して、体内が空っぽになったように感じる。
だいたい、ジョシュアを閉じ込めるのにもかなり力を使ってきたのだ。その後も、わざと苦手な風の魔法を使ってここまできた。
一応、①『英雄ブラッド』が蘇ったと錯覚させる、②ジョシュアに正気ではない様子で喧嘩を売る、③ジョシュアがアナローズ姫を助けてハッピーエンド、の、つもりだったから、③で俺がやられやすいように、意識的に魔力を減らしておいたのだ。
その上これでは、さすがにきつい。
ルシアンじゃなくて、ジョシュアにやってもらわないと、小芝居が成立しないんだけど、そのへんわかってくれて……いるのか、いないのか、どっちなんだって、どうみても、わかっていないよな、あれ。
ルシアンの目つきは、完璧イッちゃってた前世の時とそっくりで、悪い予想しか出てこない。
「すみません、離れてください」
まずい。まずい。まずい。このままでは、母も巻き添えにする。
俺はルシアンから目を離さないようにして身を起こし、彼女を遠ざけようとしたが、彼女は俺の胴に腕をまわして、よけいにしがみついた。
びっくりして彼女を見れば、あろうことか足まで俺に絡みつけている。ドレスの裾がまくれあがって、膝の上、腿の辺りまで見えているのに、俺は息も止まるほどぎょっとした。
「ちょ、ちょっと」
俺はあたふたと裾を下げようとするが、隠れたのは数センチのみ。
「危ないですから、離れて」
「イヤです。絶対に離れません!」
ああっ。さっき言っていたあれか。連れて行けとか、しがみついて離れないとかっ。
俺は確信した。前世でこれをやられていたら、きっと瞬殺されていた。死ぬ覚悟で引き分けだったのだ。少しでも逃げが入れば、敵うはずもない。
「いーい度胸だなー?」
暗い黒い重い声が降ってくる。チラリと見上げれば、ルシアンが笑ってる。見たこともない恐ろしい顔で笑ってるーっ。
「ジョシュア、止めろ!!」
俺は、ルシアンの隣で右往左往しているジョシュアを怒鳴りつけた。
「ど、どうやって!?」
「殺す気でいけ!!!」
どうせジョシュアではルシアンに勝てない。それくらいのつもりで、ちょうどいいはずだ。
「えええ!?」
まだジョシュアは躊躇っている。あああ、そういう奴だった、こいつは!! 無類のお人好しで、人を傷つけられないのだ。
役に、立たねぇっっっ。
そうしている間にも、ルシアンの周囲で景色が歪む。魔力を凝らせているのだ。いったいどんなのぶちかます気だ。屋敷ごと消滅させる気か。ここには俺たちだけじゃない。他にも使用人がいるんだぞ。
「言ったね、ブラッド。俺を殺せって」
くらーい、くらーい、でも、妙に平坦な声で、ルシアンが言う。
「バカっ。言葉の綾だっ」
「野外で女押し倒して、しかもそれが母親って、わかってんの?」
「おまえが押し倒させたんだろうがっ」
「そんなに、その女がいいんだ?」
「だからっ」
そんなんじゃねーだろうがっっっ。
おまえ、後で行くって、言ったじゃねーか、さっき!! 手伝ってくれるつもりだったんじゃねーのかよ、邪魔するって、どういう了見だ、このクソ弟め!!
俺は植物を呼んで、母に巻きつかせ、問答無用で動きを封じて遠ざけた。
本気でやるのに、女は邪魔だ。
そっちがその気なら、こっちも手加減はできねえ。
「我に従え、我に従え、我に従え、我に従え、我に従え……」
ぶつぶつと呟き、集中力を高める。周囲に偏在する五大要素すべてにはたらきかける。自分のまわりの空間に存在するものすべてが、呼びかけに反応して揺らぎ、その輪郭を崩すのを感じる。
世界の真理。究極の姿。原初と終焉の混沌。その一歩手前の擬似空間を現出させる。
俺の残りの魔力では、真っ当な方法ではルシアンの攻撃を防ぎきれない。それに規格外の強力な魔法を不用意に弾き返せば、周囲に甚大な被害を及ぼす。
防御魔法が使えれば一番いいが、あいにくそんな魔力は残っていない。俺にはこれ以外、他に方法が思いつかなかった。
ルシアンがゆっくりと上に手を上げる。人差し指を立て、それを振り下ろしながら、俺へと突きつける。炎と疾風が指先に渦を巻いて凝縮され、指向をもって放たれて、怒涛のように迫りくる。
俺は、それを全部、擬似空間に引き入れた。
風が刃となって肌を切り裂き、炎は肌を舐めあげる。
痛えな、くそったれ!!
取り込むほどに中は修羅場と化すが、途中で退くわけにはいかない。
表情が歪み、がくんと膝が落ちるのを止められなかった。それでもルシアンを睨みつけ、魔法だけは維持し続ける。
地面に這いつくばった俺を見て、ルシアンがわずかに表情を変えた。手が、力なく下ろされてゆく。攻撃が止む。
終わりか? 終わりだな? いずれにしても、これ以上は無理だ。魔力がもたない。
俺は擬似空間の上に穴をあけ、中の力を上空へと解き放った。ごおおおっと、耳をつんざく轟音とともに、火柱があがる。
俺はもう、まわりを認識できるだけの体力はなかった。泥のようにしか感じない体の中で、魔力の流れだけにしぼって意識を集中する。
火柱の放出にあわせて、擬似空間の範囲を小さくしていく。絶対に、誰にも、何にも、被害を出させたりするものか。
ルシアンの手だけは穢させない。
果てしなく時間が引き延ばされたように苦行の時が続く。が、果てのない魔力も魔法もない。やがて放出は終わり、ほっと息をついた。
そうして最後に、俺の周囲にだけ、空間が残る。
閉じないと。
そう思うが、空間の揺らぎに押されて、己の意識さえ拡散していくのを止められない。
この感覚は覚えがある。還元だ。
必死の思いで意識をつなぎとめようとするが、もう、自分の意思ではどうにもならなかった。現象に流されるまま、薄れていってしまう。
この擬似空間は閉じられていない。人一人分の還元は、いったいどれほどのエネルギーになるのだろう。
外に放出されればさっきの火柱どころではない、広範囲で現実空間の崩壊が起こるに違いない。
「ルシアン!!」
叫んだ、つもりだった。が、俺の耳は自分の声を拾わなかった。声があげられなかったのか、耳がおかしくなっているのか、もう体がないのか。
ルシアン、ルシアン、ルシアンッ。
なにもかもが、拡散=収縮する中で、唯一人、俺と同じ力を持つ弟に全身全霊で訴えかける。
頼むからっ。この空間を閉じてくれ!
俺は意識の保てる最後の瞬間まで、魂の半身の名を呼び続けた。




