アナローズ
俺は、貴族の屋敷が集まる界隈でも最も広い敷地を持つ豪勢な屋敷の庭へと降り立った。相変わらずどこからどう見ても美しく、様々なことに造形が深く趣味のいいアナローズ姫の美意識が行き届いている。
何とか様式の何とかだと、夕暮れ時に庭を散策しながら説明してくれたことがあったっけと思い出す。そんな興味のない様式名より、彼女の姿に見惚れていたから、詳細は全然覚えていない。そのへんがもう駄目だったよな、と、我が事ながら苦笑いがもれた。
この屋敷は、俺との結婚祝いに、国王が彼女へ贈ったものの一つだ。彼女には一生遊んで暮らせるだけの財産も持参金としてつけられていて、それら全部が彼女ごと俺に下賜されたというわけだ。
また、それとは別に、姓も下された。アウレリエ。百年位前に絶えた家名なのだとか。王国の建国期に王家を守った家柄だそうで、その家名の復活は大変めでたいと言われたが、俺は正直、そんな不吉なものはいらないと思ったのだった。別に家名のせいにする気はないが、事実、すぐに死ぬことになったしな。
ちなみに、王族ではあっても庶民の血の混ざった俺とルシアンに王位継承権はなく、俺たちはアウレリエを名乗っている。ブラッド・アウレリエ。それが俺の名だ。
王位なんぞに興味はないし、継承問題に巻き込まれでもしたらいい迷惑だから、多少不吉でも、直系の名乗るネニャフルよりはましだろう。
さて。思いたったままに来てみたが、彼女はここにいるのだろうか。いないようなら、執事を呼び出して居場所を吐かせなければならない。そうするといろいろ面倒事が雪だま式に増えるが、その時はその時か、と深く危惧することもなく、彼女のお気に入りのテラスへと向かった。
はたして彼女はそこにいた。午後の穏やかな一時を、庭にしつらえた席で、一人ですごしていた。
亜麻色の豊かな髪は無造作に下ろしたままにされ、彼女の華奢な肩を覆っていた。化粧もほとんどしていないのだろう、唇は妖艶な赤ではなく、優しい色合いをしていた。瞳の色に合わせたモスグリーンのドレスとあいまって、彼女はまるで花の妖精のようだと思った。
憂い顔で庭にぼんやりと目をやっていた彼女は、木の陰から出た俺を見て目を見開いた。純粋に驚いている顔だ。なんだかそれが可愛らしくて、俺は思わず微笑んだ。
「姫、お迎えに参りました」
声もなく一心に俺を見ている彼女に近付き、その傍らで膝をついて、花束をさしだす。
「これは、長くお待たせしたお詫びです。受け取っていただけますか?」
「なぜ、これを?」
彼女は呆然といった態で条件反射的に受け取り、それでも花へと目を落とす。特に濃いピンクの花弁を選んで触れた指は震えていた。
「あなたと同じ名の花だと聞いて」
あの時、俺はそうとしか言えなかった。言っている途中で、だからなんだと思ってしまったのだ。花は彼女のように、とても美しかった。彼女と同じ名だと聞いたら、衝動的に手にしたくなった。けれどだからといって、同じ名の花を贈るのは、貴族の女性への贈り物としてどうなのだろうと、わからなくなってしまったのだ。もしかしたら、ものすごくまぬけなことをしているんじゃないかと。
彼女は花から目を離し、俺を見た。
信じられないと、彼女の顔に書いてある。でも、信じたいと、どこかすがるような色もあった。何度か唇が言葉を紡ごうと動くが、声が出てこないようだった。
俺はゆっくりと待った。あの時彼女は、ありがとうございますと、満面の笑みで答えてくれた。棘は落としてあっても、何も整えてもいなければ、美しくラッピングもしていない、ただ蔓薔薇を切って束ねただけの、花束を。
やがて、かすれた小さな呼び声が聞こえた。
「ブラッド、さま?」
「はい。姫」
そう答えると、彼女の瞳に見る間に涙がもりあがり、手を伸ばして、椅子から落ちるようにして、俺に抱きついてきた。
俺はその柔らかい体をしっかりと抱き留めた。花は彼女の膝の上からばらばらになって落ち、あたりに散って甘い匂いを放った。
華奢な背が震えている。泣いているのだろう。彼女の顔が伏せられた部分がじんわりと温かくなり、嗚咽が漏れ聞こえてきた。
俺は自然とこみあげてきた愛しさに、彼女の頭に頬を寄せたのだった。
彼女の嗚咽が治まった頃をみはからって、俺は静かに話しかけた。
「ドレスが汚れます。どうぞ椅子に」
全部を言い終わる前に、彼女が駄々っ子のように、俺の胸に顔を埋めたまま、いやいやをする。
「顔を見られたくないのです。このままいさせてください」
涙に少し嗄れた声で彼女は言った。その仕草も、言うことも可愛いくて、俺はクスリと笑った。彼女の背を撫ぜる。
「仰せのままに」
ただ、お互いにあまりに不安定な体勢だったので、俺は改めて座りなおし、彼女の腰を抱き寄せて、膝の間に抱きこむようにした。
本当は俺も彼女を離したくなかった。腕の中の温もりはただただ愛おしく、心地よく、もっと味わっていたかった。彼女も同じように思っているのが感じられて、言葉が無くても、少しも気づまりではなかった。
そう。この人とは触れ合っている時こそ、心が通じるような気がしたのだ。無理に何か話そうとしている時よりも。
それだけでよかったのかもしれない、と今頃気がつく。たったこれだけのことで、こんなに幸せだったのに。俺はいったい、何をあんなに焦っていたのだろう。
「……どうして」
やがて、彼女が囁くように尋ねてくる。それを少し淋しく思いながらも、答えた。
「あなたがあまり幸せでないと、イソレットに聞きました」
彼女が体を強張らせた。俺はそれに気付かないふりで話を続けた。
「再婚相手とうまくいっていないと。……俺の願いを引き継いでくれているせいで、様々な悪い噂にさらされていると」
「違う。違うのです。ごめんなさい。……ごめんなさい。ごめんなさい……」
再び涙声になって、彼女は繰り返し謝り始めた。
「何を謝ることがあるのです。謝らなければならないのは俺です。俺はあなたを幸せにはできなかった」
「いいえ! わたくしは幸せでした。あなたの傍にいられたのですもの。でも、でも、そのせいで、あなたは」
「俺が死んだのは、俺の力が足りなかっただけのことです。あなたのせいではない」
「違うんです! 本当は、守護魔法使いは、あなただけがなる予定ではなかったのです。一人が背負うにはあまりに負担が大きいと、先の守護魔法使いのリュスノー様は提言されておられたのです。けれど、そうすれば、その内の一人だけにわたくしが降嫁することはできません。そこで当然のように、わたくしには隣国の王太子との縁談話がもちあがったのです。でも、わたくしはあなたがよかった。どうしても、他の人では嫌だった」
彼女の言葉遣いが乱れ、抱きつく腕に、ぎゅっと力がこもる。
「だから、わたくしは守護魔法使いは一人にするようにと兄をそそのかしました。わたくしがけっして裏切らせず、命懸けでこの国を守らせるからと」
「それも、あなたのせいではありません。俺が望んで守護魔法使いの地位についたのです」
「イソレットのために、でしょう? あなたが城下に屋敷を用意していたのは知っていたのです。あなたのことが知りたくて、人を使って調べさせました。あなたが故郷の方たちの中で、母親と妹以外、たった一人、女性ではイソレットとだけ手紙を交わしているのも知っていました。それでわたくし、彼女に会いに行って、むりやり諦めさせたのです。わたくしが、あなたたちの仲を、邪魔したのです」
どんな顔で、彼女はこんなことを言っているのだろう。所々震える声に、深い罪悪感が滲んでいる。
俺の胸にも言葉で言い尽くせないほどの罪悪感が広がった。
俺は、前世も現世も、どれほど彼女を苦しめてきたのだろう。あんなに傍にいたのに。今もずっと近くにいたのに。何一つ察してやることができなかった。
「あの屋敷は、今、あなたがしてくださっているとおり、村の若者を呼んで勉強をさせようと、その下宿先として用意していたものです。イソレットは、俺にとって妹みたいな存在でした。大切ではあったけれど、それ以上ではなかった」
彼女から、マキシミンと結婚します、もう手紙は書きませんと、最後の手紙がきた時も、むしろ安堵したくらいだった。あいつとなら、きっと幸せになれると。それくらいしか思わなかった。
息をこっそりと整え、前世ですら口にしなかった思いを、決死の覚悟で告げる。
「俺が愛して、欲しいと思ったのは、後にも先にも、あなただけです」
うおおおお、よく言った俺! 愛してるなんて、こっぱずかしいこと、よく言った!!
いや、でも、最後だし! これ逃したら、絶対伝えられないし! あああ、でも、恥ずかしいな、こんちくしょう!!
俺は胸の内で叫んだ。そうでもしないと、平静な顔を保っていられなかったのだ。
「本当に?」
彼女が我を忘れたように顔を上げ、俺の目を覗きこんできた。泣き腫らした目は赤くなっていたが、それでも無心に尋ねる彼女は美しかった。
「本当に」
彼女はぽろりぽろりと朝日にきらめく夜露のような涙を零しながら、微笑んだ。
「嬉しい」
思いが心からあふれて零れ落ちてしまったように、彼女はぽつりと呟いた。
腕の中の彼女はとても可憐で、心を揺さぶる。
本当は、口付けたいと願うほどに。
彼女の手が上がって、俺の頬を撫ぜる。愛しげに、その目が細められる。
「ブラッド様」
「はい」
「名を呼んでくれませんか」
「……アナローズ」
俺は顔をずらして、頬に触れていた手に口付けた。そして彼女を見ると、彼女はまた泣きそうな顔をしていた。俺も彼女と同じに、胸が痛んでしかたなかった。だけど、何も感じてないふりをして問う。
「どうしました?」
「そっくり、なのです」
「なにがですか?」
「あなたたちは、見紛うほどにそっくり。でも」
彼女の指が鼻に触れる。それから頬を辿って、顎へ。そして、上へといって、髪の間に頭を撫でるようにして滑り込む。
「でも、少しずつ違うのです。きっと、違うところは、わたくしに似ているのですね」
何度も、何度も、彼女は俺の髪を梳く。そうしながら、涙をこぼす。
「今のわたくしは、それが愛しいのです。愛するあなたとわたくしの子供が。だから、だから、ごめんなさい。この子を、返してください」
そう、なのだ。
そう。どんなに愛しく思っても、もうこの人は、恋人でも妻でもない。
こんなに愛しいのに、俺も、そういうふうには愛せない。
口付けるなら、唇にではなく、頬に。親愛の情を込めて。そうとしか、できない。
「そのかわり、わたくしをお連れください。あの時、わたくしは自分の立場を考えて、あなたに行かないでほしいと、どうしても言えなかった。それが無理でも、せめて、無事にお戻りくださいと、言えばよかったと後悔してきました。けれど、どう伝えたとしても、所詮わたくしは、あなたを死地に追いやる役目を負った者でしかなかった。だから、ずっと考えてきたのです。どう言えば、よかったのか。どうすれば、あなたを死なせないですんだのか」
どうやったところで、結果は変わらなかっただろう。
劫火の魔人は希代の魔法の使い手で、本気で王都を灰燼に帰すつもりだった。自分の命も顧みず、俺に復讐しにやってきたのだ。俺の命を差し出さなければ、何万という人間が死んでいたに違いない。もちろん、彼女も。
「連れていってと言えばよかったと、連れていってくれなくても、勝手についていけばよかったと、考えついたのは、ずいぶんたってからでした。そうすれば、きっとあなたは私を守るために頑張ってくれた。あなたにわたくしがしがみついていれば、あなたは死ぬことはできなかったはずです。だから、お願いします。今度はどうかわたくしを連れていってください。どこであろうと、あなたについていきたいのです、ブラッド様」
そう言った彼女の瞳は真剣で、嘘偽りは欠片もなかった。
心の底から、そう願っている。それが、嬉しくて、悲しくて、辛かった。
俺も、自分の顔が泣き笑いに歪むのを、どうしても止められなかったのだった。




