焼けぼっくいに火が付く
一歩よろめいた俺の背に柔らかなものが当たった。それがゆっくりと俺を押し返す。なじみが深い感覚だ。普段は主に前からぶつかることが多い。ルシアンの風の魔法だった。
ルシアンは俺の横に立ち、彼らを見ていて、俺へと振り向きもしない。それでも、俺の状態を的確に把握しているようだ。
俺は一人じゃない。そう感じて、すっと気が楽になった。ルシアンがいてくれる。
村の修復をする時もそうだった。一人なら、精神的に立ち直る前に、魔力を消費しすぎて体をおかしくしていただろう。
ルシアンは特に何も言わなかったけれど、俺が暴走させ気味だった魔力を抑えて、的確に修復作業を導いてくれたのだ。
そうだった。今の俺はカナポリ村出身の魔法使いではなく、その息子。関係ないと言い切るには少々、いや、かなり良心の呵責があるが、父親の結婚に関する不始末を負う責任はない。そういう立場だ。むしろ、そうでなければならない。
よし。何が何でもシラをきりとおす。
俺は呼吸にして二回分ほどの間で落ち着きを取り戻し、何食わぬ顔で元の位置に立ちなおした。
すると、目の前のイソレットは、さっきまでの勢いはどこへいったのやら、なぜかうってかわって沈んだ表情で口を開いた。
「本当は知っていたのでございます。わたくしがブラッド様にとって、妹とそう変わらないものでしかないというのは」
俺は目を瞬いた。話題の突然の変化についていけなかったのだ。
前世も今も俺の考えは駄々漏れで、女二人に筒抜けだって話じゃなかったのか。
混乱する俺を他所に、イソレットがしみじみと語りだす。
「お父上が都へ行く前日、わたくしは腕輪を作ってお渡ししました。祭りの時に女性から思い人に贈るのと同じものでございます。そうして、わたくしのことを忘れないで欲しいと伝えると、ブラッド様は忘れるわけがないと、快活に笑われました。思いがよく伝わっていない気がしたわたくしは、立派な魔法使いになって、絶対に迎えにきてねと、重ねて申し上げたのです。すると、ああ、約束する、必ず立派な魔法使いになって、迎えにくるから待ってろ、と仰いました。……先程、婚約者であったと申し上げはしましたが、実のところ、お父上とわたくしの約束はそれだけでございます。もしも、十年ほどの間に数え切れないほど交わした手紙の中に、一言でも恋文めいたものがあったなら、わたくしも諦めずに、勝つまでアナローズ様と喧嘩したかもしれません。……いえ、それも詮無い言い訳でございますね。わたくしはブラッド様を信じきることができませんでした。愚かになりきれなかったのです。けれど、アナローズ様は一途に思いを貫かれた。わたくしの完敗でございました」
……ええと? 女の勘が鋭いってのは、つまり、俺がイソレットにそれほど入れ込んでいなかったことを見抜いていた、ってことだろうか。
「それが答えでございます」
イソレットが複雑そうに微笑んだ。
答え? 何のだ? 女の会話はどうしてこうもあちこち飛ぶのだろう。またもや唐突なそれに戸惑っていると、彼女はやはり心得たように教えてくれる。
「アナローズ様が、なぜお父上の遺志を継いでおられるかです。本当に深く愛していらっしゃるからですよ。昔も、今も変わらず」
そうして何かを期待するように彼女は俺を見ていたが、俺は困惑しか感じられなかった。
どんなに愛されていると言われても、俺にとっては、彼女とのことは終わった話でしかない。彼女の夫だった俺は死に、現世では彼女の息子として生きてきたのだ。
それも8歳から共に暮らしてはいないし、長じるほどに母の態度はアレだしで、まったくもってしょうがない人だというのが、嘘偽りのない彼女に対する心情だ。
ただ、しょうがない人だけれど、あの人を母親として認めている。それは俺だけでなく、実はルシアンさえそうだ。でなければ、あの正直者のルシアンが、母上などと呼ぶわけがないのだから。
俺たちは幼い頃、二人きりの世界をつくり、他の人間を排除してきた。特に、どうやってまわりと接していけばいいのか暗中模索状態だった頃は、自分たちの秘密を守るのに必死で、母親であるはずの彼女とも、だからこそ余計に距離をとった。
そんな、息子としては褒められたものではない俺たちを、彼女は疎んだり見捨てることなく、ずっと変わらず愛情を注いで、気遣い続けてくれている。
だから、実は彼女が再婚して離れて暮らし、時々会うだけになって、やっとあんな形でもコミュニケーションがとれるようになったのだ。
再婚相手のジョシュア・コルネードは貴族出身で、姫と幼馴染でもあり、昔から彼女に思いを寄せていた。それに、彼といる時の彼女は、妖艶というより歳相応なお姫様という顔をで寛いで、心を許している様子だった。
俺が守護魔法使いの地位を望まなければ、彼が順当に地位も姫も手に入れていたのだろう。きっと、その方が彼女にとって幸せだった。俺が自分の望みを押し通したために、二人の幸せを奪ってしまったのかもしれない。ずっと、その思いが頭から離れなかった。
だから、彼女の再婚には、とても安堵していたのだ。やっとあるべき姿に戻ったのだと。遠回りさせてしまったけれど、これで彼女も本当に幸せになれると。
そのうち二人の間に子供でもできれば、きっと、『ブラッド』への執着も減るだろうし、俺たちにかまけてばかりもいられなくなる。ただ、結婚して7年もたつことを考えると、ちょっとどうなのかと考えずにはいられないのだったが。そればかりは、子供は授かりものだからしかたがない。
とにかく、今の俺に、彼女にしてやれることはない。
女を幸せにするのは、こんな冷たい息子じゃない。夫のはずだと思うから。
「話はよくわかった。我らも母を疎んじているわけではない。先日も会ったばかりだ。ただ、母も他に家庭のある身。我らにもおいそれと捨てられない立場というものがある。それだけのことだ」
「恐れながら、そのことで、王子方にお願いしたいことがございます」
「イソレット」
いずまいを正し、深く頭を下げ、そう申し出たイソレットを、マキシミンが今度は鋭くさえぎった。だが、俺は彼女の言うことが聞きたかった。
「よい。言ってみよ」
「ありがとうございます。実は、アナローズ様に離婚を勧めていただきたいのです」
彼女の口から出てきた想像もしてみなかった言葉に、俺はただ怪訝にするしかなかった。
ジョシュア・コルネードは少々気弱で頼りないが、善い男であるのは間違いない。貧乏百姓からのしあがった俺にも、身分をひけらかすことなく対等につきあってくれた。
それどころか、彼が長く思いを寄せていたはずの姫を横から掻っ攫ったというのに、俺たちの結婚を祝福してくれたぐらいだ。
今も彼の悪い噂は聞いたことがない。彼なら穏やかに彼女と愛を育み、幸せにしてくれているに違いないのだ。
その彼と、なぜ離婚させなければならないのか。
「公の場では仲睦まじくふるまっておられますが、実は結婚当初から、家庭内別居をされているのです。あのお二人に夫婦としての実態はございません」
「なぜ、そんなことがわかる」
俺は少々きつく尋ねた。降嫁したとはいえ、仮にも一国の王女に対して、不敬もはなはだしい。王族としても、息子としても、見逃すわけにはいかなかった。
だいたい、辺境の村の主婦が、どうして赤の他人の夫婦生活まで知れるのだ。それこそ気のせいではないのか。
俺は、イソレットがまた『女の勘』とか言い出ださないようにと心底願った。あれを出されても俺には理屈がわからない上に、女は妙に頑固になって言をひるがえさなくなる。
「アナローズ様とは親友でございますので。ローズ、レッティと呼び合う仲にございます」
俺は開いた口がふさがらなかった。というか、あまりの心理的衝撃に内側から内臓が溶けて、どろどろと流れ出てきてしまいそうだった。
初恋の相手と妻の結託。なんだその最凶タッグは。絶対に相手にしたくない。早くに死んでよかった。俺は妙な安心にとりつかれた。
「最愛の夫を失った傷を癒してくれる相手もおらず、アナローズ様は過去にとらわれたままでいらっしゃいます。再婚も、王子方を守護魔法使いにさせたくないというお心からでいらっしゃいました。あの頃、王は、王子方が幼いにもかかわらず、守護魔法使いになさろうとしていたのです。そこで、現守護魔法使い様の立場を強くされるために、アナローズ様は嫁がれたのです。……もう、王子方も立派になられ、お母上に守ってもらわなくても大丈夫なように見受けられます。どうか、お願いでございます。アナローズ様を自由にしてさしあげてくださいませ」
まったく、なにしてやがる、ジョシュア。
俺はイソレットから目をそらし、やるせない溜息をついた。
情けないにもほどがある。前世の俺もそうだったから、あまり強くは言えないのだが。姫の方がよっぽど男前じゃないか。
女ってのは、一見ひ弱そうで、事実非力で、健気で、守ってやるべき存在なのに。どうしてこうも、男にはないしたたかさで、どうやっても勝てない相手だと思わせるのだろう。
だから男はいつも、まるで女神の前で跪くかのように、女の前に膝を折るしかなくなるんだ。
俺はもう一度、腹の底からわきあがるままに、大きく深い溜息をつく。
その見事な心意気に応えないような男は、男を張る資格がないよなあ!
「わかった。知らせてくれてありがとう、イソレット」
イソレットに視線を戻し、俺がそう告げると、彼女は目を見開いた。俺の中に何かを探すように、瞳が揺れる。それに俺は笑ってみせた。兄弟のように近しかったあの頃のように。
イソレットが己の口元を押さえる。マキシミンも驚きの色を顔に浮かべた。
なんだ、こいつら、わかってて人を煽っていたんじゃないのか。
俺はおかしくなって、声を出してくすくすと笑ってしまった。
「じゃあ、ちょっと行ってくるよ。またな」
簡単に挨拶して踵を返すと、無表情に俺を見るルシアンと目が合った。
「邪魔したらぶちのめすぞ」
再び還元することになっても。
「しないよ」
その答えを、俺はさして意外に感じなかった。ルシアンの瞳の中に、俺を責めるものがなかったからかもしれない。それとも、何かの決意を感じるからか。
「先に行ってて、兄さん。俺も後から行くから」
「わかった」
そうとだけ答えて、俺はアナローズ姫の許に向かった。
ルシアンが何をするつもりなのかはわからない。
それでもあいつには無条件に背中をあずけられる。それだけは、わかっていた。
アナローズ姫に会いに行く前に、まずはジョシュア・コルネードに会わなければならない。俺は王城内にある、魔法師団の本部である『真理の塔』へ足を向けた。
普通に受付でジョシュアの居場所を聞きだす。『劫火の死神』だの『滅殺の英雄』だの、陳腐な二つ名をいくつも持つ俺は、大抵どこでも顔パスで、さあさあ早く通り過ぎてくださいませ、と、それは丁寧な対応を受ける。
受付係は青い顔で、外の実験場だと教えてくれたので、そちらへ行った。
それにしても、城内を動き回ると地味に苛々がたまる。なんだよ。いきなり殺したり、どかんと城を吹っ飛ばしたりしねーよ。そんな目で見られていると、したい気分にはなるけどな。
実験場は直系1kmほどのだだっ広い場所で、周囲に保護障壁の魔法陣が仕込まれている。そのおかげで、中でどんな魔法が暴走しようと、外にはめったなことでは被害が及ばないようになっているのだ。
奴は数人の魔法使いと共に、地面に魔法陣を描いた金属板を用意していた。そこへ、ひょっこりと入っていった。
奴は気付くと同時にすぐに姿勢を正して、優雅に礼をしてきた。
そう何歳も変わらないはずなのに、その姿はマキシミンよりもかなり若く見える。若い頃、人が善さそうで気弱に感じた容貌は、上品さと穏やかさへと転じ、年齢を重ねただけ貫禄も加わったような、申し分のない歳のとり方をしている。
年齢不詳な美貌の姫の隣にあっても、けっして見劣りしない男だ。
それが、少しだけ羨ましく感じられた。
前世、奴と姫の心を手にしようと争った時のことが思い出される。
よし。同じでいくか。
俺は歩いて近付きながら、左腕を胸の前に差し伸べた。そして、詠唱を始める。
「汝、沈黙のうちに恵をもたらしめるものよ。我は汝の眷属。同じ理に縛られし者なり。我が声を聞け。我が願いを聞きいれよ! 我が敵を鉄の檻に閉じ込めよ!!」
詠唱の終わりに、手をふっと顔のあたりまで上げる。それと同時に、ジョシュアの周囲に金属の棒が地面から突き出した。腕を止めて五本の指先を一つにまとめると、棒の上部が湾曲し、鳥篭のような形になった。
つい面倒で、奴以外の魔法使いも一緒に閉じ込めてしまったけれど、まあいいだろう。殺すつもりはないし。
「王子!? 何をなさいます」
驚愕の面持ちで、奴だけでなく他の魔法使いたちも檻にすがりついた。
俺は立ち止まり、にやりと笑った。
「久しぶりだな、ジョシュア」
ジョシュアの顔色が変わる。
「王子? まさか」
「俺の女がおまえに世話になったって聞いてな」
奴だけでない。居合わせた全員が息を呑む。俺はせいぜい凶悪に見えるように笑いかけてやった。
「返してもらうぜ。礼はたっぷりはずんでやるからな」
「ブラッド!? ブラッドなのか!?」
奴は愕然とした表情で俺を見た。
俺は返事の代わりに再び詠唱を始めた。
「汝、生きとし生けるものを育みしものよ。我は汝の眷属。同じ理に縛られし者なり。我が声を聞け。我が願いを聞きいれよ! 我が敵を氷の覆いに閉じ込めよ!」
右手を円を描くようにして振り上げ、そのまま左側へと落とす。その動作と共に、右側から厚い氷の塊が地面から湧き出し、半球を描きながら、反対側の地面まで到達する。
うむ。我ながらいいできだ。金属の檻を包み、無色透明、ゆがみのない氷のドームができあがった。奴が何か叫んでいるが、氷が厚いから、まったく声は聞こえない。
詠唱とは特別な発声法により、声に魔力をのせて言葉を紡ぐ技術だ。それによって魔法陣と同じ効力を持たせる。
このとき使われる言葉は、魔法使いによって違う。世界の理に働きかけるには、それを深く理解していなければできないが、その理解度やイメージは人それぞれだからだ。
つまり、詠唱の文句は魔法使い一人一人に固有のもので、己の証となるもの。誇りであって、他人と同じにするなど滅多にない。
これで、俺が『英雄ブラッド』だと印象付けられただろう。
この詠唱で正体がバレるのが嫌で、今まで使ってこなかったが、腹の底から声を出すから、妙に気分が盛り上がるんだよな。まあ、ちょっと発動に時間がかかるのが難点なんだが。
さあて。次も楽しく詠唱付きでいくかあっ。
アナローズ姫を賭けた勝負で俺が使った魔法はあと二つ。出し惜しみしないで食らわせてやる。
「汝、沈黙のうちに恵をもたらしめるものよ。我は汝の眷属。同じ理に縛られし者なり。我が声を聞け。我が願いを聞きいれよ! 我が敵を土の覆いに閉じ込めよ!」
土塊が盛りあがって、氷を覆い隠して実験場に小山が一つできあがった。
よし。飾り付けだ。
「汝、命に形作られしものよ。我は汝の眷属。同じ理に縛られし者なり。我が声を聞け。我が願いを聞きいれよ! 我が敵をその体で覆い、花を咲かせよ! アナローズ!」
姫と同じ名を告げる。すると、小山のいたる所から芽が吹きだし、蔓薔薇がはびこった。しばらく待つうちに、白から淡いピンクの大輪の華やかな薔薇が花開いた。
アナローズ。薔薇の中の薔薇。花の女王。
俺はその花をいくつか摘んだ。彼女の手を傷つけないように、花に頼む気持ちで詠唱して、棘を落としてもらう。あの時も、こうやって花束を作って彼女に持っていったっけ。
当時の、どきどきして、不安で、切なくて、わくわくして、独占欲に満ちた、高揚した気持ちがよみがえる。
ああ、そうだった。彼女だけじゃない。
俺も確かに、彼女に恋していた。
俺は幸せな気分に、ほうっと満ち足りた息をついた。




