第3話 母とお茶会
「それは午後のお茶の時間のことでしたの。ブラッド様はお忙しい方で、朝はお早く出ていかれ、夜も遅くまでさまざまなことに追われていらっしゃったから、落ち着いてお会いできるのは、このお茶の時間ぐらいのものでした。それも、なかなかお時間をとってもらえなかったのですが」
我が親愛なる母上殿は、言葉を切ると、真珠のごとき白い顔に憂いを浮かべて、妖艶な仕草でカップをとりあげ、口をつけた。
母の名はアナローズ。ネニャフル王国国王の妹であり、近隣諸国随一の美姫の名をほしいままにしている、年齢不詳の美貌の人だ。
母は流れるような動作でカップを戻すと、話を続けた。
「曇り空で寒い日でしたから、わたくし、暖炉のほうへお茶を用意させて、二人掛けのソファに一緒に座ったのです。寒いですね、と申しあげると、ブラッド様は肩を抱いてくださって、触れあった場所がとても暖かかったのを、今もまざまざと思い出せます」
そう言って、自分の右腕をそっとさすった。視線は右の腰から太もも。ほんのり上気した頬と細められた目からは、魔力じみた色気が駄々漏れになっている。
「ブラッド様は、背の高い方で、あの方に抱き締められると、わたくし、すっぽりとその腕の中におさまってしまって、自分が小さな小鳥になってしまった気がしたものですわ」
あの方のためだけに、囀る小鳥。ぽそりと聞こえるか聞こえないかで呟かれたそれは、なぜかものすごく淫らな響きを宿していた。
「お優しくて逞しい方でしたのね」
ほうっと息をついて、隣国のリチェル姫が相槌をうった。
「ええ。守護魔法使いとして、騎士団の者たちと体も鍛えておられましたから。そして、お顔はとても精悍で、黒髪が頬にかかる様も、普段は鋭い目がわたくしを見て優しく変わられるのも、ああ、今思い出しても、胸がどきどきするのです」
何か詰め物をしているのではないかと疑いたくなるくらい、形良く大きく盛り上がった二つの胸の真ん中に両手を重ねて置き、切なげに溜息をつく。そのまま、息子である俺に、流し目をくれてきた。
俺は体も顔も強張らせたまま、冷や汗が滲んでくるのを感じた。
母が腰を上げ、すうっと手を伸ばしてくる。それを、嫌がっているのがバレないように、じりじりとよけてみるが、そんなこと、この貴婦人が許すわけもない。俺は抵抗らしい抵抗もできず、すぐに細い指に取っ捕まってしまったのだった。
さわり。繊細に俺の頬を撫で下げてから、顎を持ちあげる。扇情的な感覚に、体の中がざわめく。
だからっ、この人は!!
俺は拳をきつく握り締めて、顔に貼りつけた穏やかな表情を崩さないように、気合をいれた。
どうして、息子にさえ、色目を使うんだろうなあっっ。迷惑なっっっ。
母は蕩けそうに微笑んで、口を開いた。
「ああ、あなたは本当に、お父様そっくり」
そしていつまでも、よ、欲情した目で、俺を見つめるなあっっ。
俺は心の中で悲鳴をあげた。最早、脂汗が滲んでくる。
だから嫌だったんだよ、この人とのお茶はぁ!!
と。横から手が伸び、ぱしっと軽やかに母の手が叩きのけられた。
「当代一の美貌の母上と、カッコイイ父上は、当時はきっと、それはそれはお似合いだったのでしょうね。今の僕と兄さんみたいに」
母と瓜二つながら、そこに男性的な美も加わった、近隣諸国随一の美男子ルシアンが、所々妙な具合に主張して、無邪気に微笑んだ。
「まあ。おほほほほ」
母は再び腰を落ち着けながら、あくまでも優雅に笑った。
「あなたもリチェル姫と、とってもお似合いよ。初々しいカップルだこと」
俺を間にはさんで、何かが渦を巻く。おどろおどろしいそれに、俺は硬直した。心拍数が急激にあがりきって、いっそ心臓を口から吐き出し、すっきりとしてしまいたいくらいだった。
『貴婦人』。それは、妖艶な肢体に華やかな衣裳をまとい、洗練された仕草と話術で武装した、恋の狩人。
それを地でいっているのが、この母なのだった。
一見、華奢で儚げですらあるこの女性が、恐ろしくしたたかで、証拠も残さない権謀術数をあやつる。
そうして狩られたのが、俺とルシアンの父。すなわち、前世の俺なのだった。
前世の俺は、この国の守護魔法使いで、王都を襲った劫火の魔人と相打ちして死んだ。結婚後、一年もたたないうちだった。
まだ若くして未亡人になった母は、俺の死後しばらくして、次の守護魔法使いと結婚した。それが王族としての務めだったかららしい。
しかし、彼女は今も前夫に未練たらたらで、前夫そっくりな息子である俺に会うたびに、こうして色仕掛けまがいの態度をとるのだ。
……というか、俺たちの正体、バレているんじゃなかろうか。
俺は、時々そんな考えに取り付かれ、怖い答えに辿り着く前に、そんなわけないと、己の心に言い聞かせるのだった。
「それで、どうなったのですか?」
リチェル姫が、無神経に先をうながした。
彼女は弟に一目惚れして以来、他国であるこの王宮に一年以上にわたって居座り、ふられても邪険に扱われてもいっさい気にせず、毎日ルシアンを口説いているのだった。
俺も、いつもならその根性に感嘆して、むしろ弟を口説き落としてくれと応援しているのだが、今はその空気の読まなさかげんが、非常に迷惑なのだった。
なにしろ、ここから話はさらにヒートアップしていくのだから。
「わたくしはブラッド様の胸にしなだれかかり、ブラッド様がわたくしのうなじに手をさし入れて、その優しい瞳に見つめられて、思わず目を閉じてしまいましたの。そうして、彼の熱い吐息がわたくしの唇にかかった時でしたわ。窓の外が、急に明るくなったのです」
俺は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。はっきり言えば、そんなことをしていたかどうか、あまり記憶には残っていない。ただ、茶を飲むよりも、いつもどおりに誘惑されていたのは確かだ。
俺は前世で、彼女と深く何かを語り合った記憶がなかった。なぜなら、室内で二人きりになると、まあなんというのか、つまり、夫婦の営みになだれこんでしまいがちだったのだ。
元々根が貧乏百姓のせがれだった俺には、夫婦とはいえ、なんとも破廉恥きわまりない関係に思えたものだった。
だが、彼女の手練手管はすさまじく、すっかり彼女の掌の上で転がされていたのだった。
まったくもって、痛い記憶である。
「まあっ。それでどうなったのですか?」
「ブラッド様はすぐに立ち上がられて、窓の外の様子を見にいかれましたの。外を見つめる真剣な表情はすばらしく、ええ、不謹慎だとは思ったのですが、男性の色気にあふれていらして、わたくし、うっとりと見惚れてしまったのですわ」
とろりとした目で俺を見る。
……もう、そのまなざしの意味は考えたくなかった。
「ブラッド様はふり返られて、わたくしを見つめられました。そして、切なく微笑まれたのです。ああ、もう、その瞳といったら! わたくしに対する愛情がよくわかりましたの。愛していると言葉にされるよりも、雄弁に目で語ってくださったのです」
やめて。やめてくれ。本当に、俺はそんなことをしていたのか。かなり記憶が変質していないか。メデアイヲカタルとか、どこの優男だ。
しかし、会話上手の母の話は、臨場感に満ちている。おかげで、前世の俺と母の婚姻の顛末は、悲劇のラブロマンスとして非常に人気を博し、今では世界中の庶民にまで知れ渡っているのだった。
だから、母に会う者たちは、こんな風に、直に話を聞きたがるのだが。
……お願いだから、その場に俺を呼ばないで欲しい。
俺は、必死に維持している薄笑いの仮面に、とうとうヒビがはいるのを感じた。
「ブラッド様はおっしゃいました。姫、私はすぐに行かねばなりません。かねてからの約束通り、私になにかあった時は、どうぞ私のことはお忘れください。……私はいつでも貴女の幸いを祈っています、と。そして、一つ優雅に礼をなさると、窓を押し開き、窓枠に足をかけて、外に飛び出していってしまわれたのです。わたくしは我に返って、ブラッド様、と呼びかけましたが、きっとその声は届いていなかったのだと思います。わたくしも窓に駆け寄って外を見ましたが、その時にはもう、光は消え、彼の姿はどこにもなかったのです。それきり」
母は声を途切れさせ、涙ぐんだ。レースがふんだんにあしらわれたハンカチで、楚々と目元をぬぐう。
「ブラッド様は、帰ってこられませんでした。わたくしのいるこの王都を、命懸けで守ってくださったのです。わたくしへの愛で、あの方は身を滅ぼしてしまわれたのですわ」
「ああ、アナローズ様、おいたわしい」
リチェル姫も涙をぬぐう。
「でも、ブラッド様は、きっとお幸せでしたわ。たとえ短い間でも、アナローズ様みたいな真の貴婦人を愛し、そして愛されたのですもの」
「ええ。ありがとう、リチェル様。なんて優しい方なのかしら。ブラッド様を失った痛みはけっして癒えませんけれど、ほんの少し、慰められました」
なんの茶番だ。それとも本気なのか? なんでもいい。もう吐きそうだ。痛む胃を押さえ、俺はどろりと目を据わらせた。
しばらくたって、ハンカチからやっと目を上げた母は、ふっと、まともな気配をまとった。俺ではなく、ルシアンとリチェル姫を見て、口を開く。
「こんなことは言いたくありませんが、王族は一国の中枢を担う責があります。いつどんなことがあるかわかりません。あなたたちも、思いを交わせるうちに、寸暇を惜しんでなされた方がよいですよ」
俺は、はっとした。あの愛欲にまみれた生活には、そんな意味があったのかと。
思わず、真剣に母を見てしまう。彼女も俺を見て、一瞬、俺たちの間に、なんとも言いがたい空気が流れ。
「まああっ、アナローズ様! すばらしいアドバイスをありがとうございます。ぜひそうしますわ!!」
リチェル姫があげた、今夜は夜這い確実な雄たけびに、微妙な空気は霧散した。
その時、こんこん、と外から扉が叩かれ、ルシアンが俺の腕を掴んで立ちあがった。
「時間です。では、母上、俺たちはこれで失礼します」
いっそ慇懃無礼とも言えるほどに丁寧に礼をして、俺を引きずるようにして扉へと向かう。
俺も、慌てて一つ頭を下げ、引っ張られるままに部屋の外へと出た。
部屋の外には、護衛が立っているだけだった。誰も呼びに来た者などいない。どうやらあのノックは、ルシアンの仕業だったかと、俺は遅まきながら気がついた。
ルシアンはずんずん歩いていく。どんどん人気へのないほうへと行き、使われていない部屋へと入り込んだ。
それと同時に俺は荒っぽく壁に押しつけられた。ルシアンは、のしかかるようにして、壁に両手をついてくる。そして、母そっくりの壮絶に色気と嫉妬に満ちた目つきで、瞳を覗きこんできた。
「ブラッド。あれが俺たちの母親だって、わかってるよね」
「わかってるよ」
俺は目をそらして、弟の脇の下から逃げ出そうと体を泳がせた。が、ぐっと肩を掴まれ、さらに近い位置で囁かれる。
「あんな女、愛してないよね」
「ああ、うん」
いや、もちろん、親子の情はあるが、そんなのを指しているわけじゃないだろう。こくこくと頷きながら、俺は再び冷や汗が滲んでくるのを感じた。
ルシアンは、俺に執着している。劫火の魔人として王都を襲ったのも、幼い頃に彼を苛めた俺に、復讐するためだったのだ。
で、そんな前世の記憶を保持したままの弟は、今生は兄弟愛に目覚め、その愛を大きく育て、大きく大きく育てすぎ、そろそろ何かの境界を突破しそうな勢いなのだった。
いや、まだ、越えてない! 越えてないよな!!
そう思いながらも、目を合わせられない。合わせたら最後な気がした。
「あんな女より、俺の方が、かわいいよね」
それはまあ、化け物めいた色気の持ち主に比べたら、ルシアンなどかわいいものだった。
「うん、そうだな」
「俺の方が、ブラッドの役に立ってるよね」
「うん、そのとおりだ」
今回もルシアンの機転で外に逃げだせたわけだし。
「俺だって、きれいだよね?」
ねだるような響きに、つい、チラリとルシアンへと目を向けてしまう。どこも貶すところがないどころか、神の手による彫刻だと言っても信じられそうなその顔に、文句などつけようがない。
「ああ。きれいだ」
「ブラッド大好き」
ルシアンが無邪気に笑う。俺は、その破壊力満点な笑顔にやられて、思考を止めた。母の容姿は前世の俺にとって好みど真ん中だった。その記憶を持つ俺にとっても、母と弟の顔は、絶対に言わないが、心揺さぶるものなのだ。
ルシアンは、その最終兵器な笑顔のまま、俺に迫ってきた。
「ブラッドも、俺のこと愛してるよね」
「う」
うん。操り人形のように頷く寸前で、俺は固まった。そのまま見つめ合う。脂汗を流しながら、自分の首が頷かないように、むしろのけぞった。必死の思いで頭の中に言葉をかき集め、口を開く。
「も、もちろん、おまえは俺のかわいい弟だ」
チッ。ルシアンは器用にも、笑顔のまま舌を鳴らした。
あ、あぶなかった。愛してるとか鸚鵡返しに答えていたら、どうなっていたことか。
「それより」
俺は弟の肩をぐいーっと押し退けながら、とにかく話題をそらすべく、言葉を吐いた。が、そこから先が続かない。
話題ぃー、話題ぃーっと。
思考をぐるぐるめぐらせ、ぽかりと浮かんだものに飛びつく。
「それより、今夜の準備はいいのか?」
「準備?」
「うん、そう。ほら、リチェル姫が」
夜這いに。って、俺、なんて話題を。
「ああ、あれ。そうだね、もうちょっと魔法陣増やしとこうかな」
「待て。違うだろう。彼女は賓客だぞ」
国王の甥たちの部屋に仕掛けられた対侵入者用の魔法陣は、相手を一瞬で消し炭に変えるものだ。
「賓客? 何言ってんの、ブラッド。あの女、ねずみ一匹入り込めないはずの俺の部屋の枕元に立つんだよ。ねずみ以下な生き物に決まってんじゃん。クモとかアリとかナメクジとか。もっと緻密なもの仕込んでおかないと、ゆっくり寝られないじゃん」
こともなげに、何かが間違っている対応策を、淡々と話す。それが途中で、例の笑顔に変わって、俺に顔を寄せてくる。
「それとも、今日、兄さんのベッドで寝てもいい?」
「いや。うん。おまえの言うとおりでいいんじゃないか。俺も一緒に魔法陣増やすの手伝ってやるよ」
「そう? ありがとう、兄さん。じゃ、俺の部屋に行こっか」
手を握られ(恋人つなぎ)、引かれて、再び廊下に出る。
俺は、ぎっちり握られた手をなんとか穏便にひき剥がそうとしながら、後でまた、リチェル姫に防御魔法陣をこっそり渡しておかなければと思ったのだった。




