第6話 アンゴニナ
ルシアンたちが最初に泊まるアンゴニナは、商業都市で防壁に囲まれている。日暮れに壁門は厳重に閉じられ、夜明けまで開かない。
俺は町から少し離れた場所で高度を上げて、そのまま町の上空に入った。この前の渇水期に国中をまわったので、王家御用達の宿の場所は知っている。
真っ黒いマントで全身を覆って、頭にもしっかりフードを被り、徐々に降りていった。
王都に近く、警備団もしっかりしているこんな大都市で、しかも警護しやすいようにそれ専用に造られた老舗の旅籠で、他国の間者が暗殺を目論見る可能性は低い。
少なくとも、腕利きの魔法使いが標的と知っていて、俺ならやらない。そのくらいの頭もない連中なら、ジジイやルシアンの相手にもならないだろう。
とはわかっていたが、とりあえずそれでも心配でいてもたってもいられなかったのは、もう、なんていうのか、自分でもどうかと思う。もしかしたら、ルシアンが兄離れできないんじゃなくて、俺が弟離れできてないだけなんじゃないかって気すらする。
……いや、それだってしかたないだろう。あんなかわいい弟持ってみろ。笑顔一つで心臓鷲掴みだぞ? それがこれ以上ないってくらいに懐いてんだからな。誰だって絶対にこうなる。間違いない。文句や嘲笑があるなら、ルシアンを弟にしてみてからにしろ。
俺は、哨戒中の兵の目を盗んで一番高い屋根の上に降り立ち、すぐに体を伏せた。
まあ、ここにいれば、騒ぎが起きればわかるだろう。
マントに吊るした魔法陣の中から、一定の空間を作り、新鮮な空気は入れつつも中の温度を保つ、つまり寝袋の用を足すものを選んで、少量の魔力を注いで起動させた。その中でごろりとしてくつろぎ、夜空を見上げる。
ルシアンたちに合流する気はない。
王から一行に知らせがいっていて、うっかり顔を出したら、捕まって強制送還なんてのもありえるし、なによりこの旅は、ルシアンとリチェル姫がお互いを知るいい機会だ。そこに俺がいたら、邪魔以外の何者でもないだろう。
気分はすっかり仲人だ。後はお若いお二人で、なんていう決まり文句、前世で言われた時には、妙に意識して緊張するだろ、よけいなこと言うんじゃねえ、と思ったものだったが、言う方になってみれば、これほど愉快な言葉もない。
初めてアナローズ姫の私室に案内してくれた女官の、あの生温い微笑みの意味が、今ならよくわかる。俺、どんだけテンパッてたんだろな、まったく。思い出すだに恥ずかしい。
俺はしばらく姫との思い出を反芻していた。夜会で、こんな夜空を見上げて抱き締めたこともあったな、なんて。
彼女との思い出は、どれも優しく心をあたためてくれて、そうしているうちにいつの間にか、俺は居心地のいい眠りに落ちていた。
朝日が昇る前に目が覚めた。農家の朝は早い。てのは前世の話で、なにより、朝の空気はすがすがしい。これを吸わないと起きた気がしない。そしてその後、起きなきゃなあと思いながら、ぬくぬくした布団の中でぐずぐずしているのが至福なのだ。むしろそのために、俺は朝早く起きるのが好きなのだった。
が、今日はそんなことしている時間はない。暗いうちに、俺はさっさと上空へ急上昇して、今度は市場の隅に降り立った。
もう、店の準備にたくさんの人が働いている。みんな自分の仕事に手一杯なので、上を見上げるような者もいない。案外安全に降りられる場所の一つだ。
それから、もう一つの目的は、そんな朝早い者たちのために出る屋台だ。これが安くて量が多くて旨い。王宮で出るパン数個にも満たない値段で腹がいっぱいになる。庶民の味万歳だ。
恐らくルシアンたちは、リチェル姫の起床に合わせて行動を開始する。貴族の姫の朝は遅い。旅行中の特別日程になっていても、まだ当分起きもしないだろう。
起きたら起きたで入念な身支度をして、朝から何種類もの料理を、小鳥が突付くみたいにちょこちょこと食べる。これにも恐ろしいほど時間がかかる。
そんなこととも知らず、うっかり速攻でぺろりと平らげてしまった後の、人の食事中に席を立つことのできない居た堪れなさは、自分の不調法ぶりが際立って、言語を絶する。
それで朝飯は姫と別になるように、酒場で知り合った騎士たちの早朝訓練に混ぜてもらうようになったんだよなあ。
なんて、ぼんやりと思い出しながら、並べられていく品物を見て歩いて時間をつぶす。
ロズニスには、土産は旨い物なんてリクエストされたが、さすがに今から買っていくと腐る。帰り道にするにしても、当たりをつけておくのもいいだろう。
でもとりあえず、干した香草は買った。これならもつし、なんかあいつ、匂いのきついのが好きなようだから、粉にして小瓶にでも入れて、いつでもかけられるように食事時に出してやれば喜ぶだろう。
ついでに小瓶も買う。かわいいのがあったから。これで帰って薬瓶に入れなくてすむ。
それから、あいつの髪に映えそうな髪留めも見つけて、それも購入した。いつも同じのしてるから、もう一つくらいあっても、邪魔にはならないだろう。
なんてことをしているうちに、なぜか腕いっぱいの品物に辟易して、背負い鞄も買うことになった。
わざわざ荷物のない旅装を工夫してきたのに、一日目にして何やってんだろうな、俺。
まあ、いい。たぶん、どれかでは喜んでくれるだろう。
『ブラッドさまー。嬉しいですー』
なんて言って、にへらっと笑うロズニスを想像して、俺は楽しい気分になったのだった。