ないしょの地図
俺はジジイの研究室で、自分でも魔法陣を刻みつつ、時々ロズニスの手元を見守っていた。
彼女は俺の横で、丸い小さな金属板の上に特殊なインクを使って魔法陣を描いている。今は一番端の文字列をちまちまと書き込んでおり、これが非常に間違えやすい場所だった。
文字が一つでも間違っていると、起動しないか、稀にとんでもない誤作動が起こる。この女がやらかす場合、間違いなく、その稀にを引き起こすに違いない。
ジジイにこの女の監督を頼まれている以上、この女の起こす騒動は俺の責任だ。俺はいったん手を止め、彼女の横に置いてある見本と違っていないか確認することにした。
見本を覚えてから魔法陣に目を移すと、ロズニスの手が止まっていた。視線を上げれば、こっくりと彼女が舟を漕いでいる。俺は慌てて、今にも魔法陣の上をすべり始めそうなペンを止めるために、ロズニスの手を掴んだ。
「このっ、ばかっ」
それからもう一方の手で、額をペチンと軽く叩いてやる。
「んあ?」
頭がぐらんと動き、目が眠たげに開かれた。
「居眠りするなっ。せっかく描いたのがだいなしになるぞ」
「あー。はいー」
ロズニスが体をちゃんと起こすのを確認してから手を離す。彼女はペンをテーブルに置いて、まだ全部は開かない目をこすった。すると、指についたインクのせいで、右目の周りが見事に黒くなった。
俺は溜息をこぼした。
「顔洗ってこい。茶を淹れておいてやるから。少し休憩しよう」
苦渋の選択の提案に、しかしロズニスは不満げに口をとがらせた。
「また顔洗ってくるんですかー? もう、今日、五度目ですよー。お茶だけでいーですー」
このお気楽能天気娘め、自分の立場がぜんぜんわかってねえっ。
俺はロズニスの片耳を問答無用で引っ張り寄せた。
あいたたたっ、暴力反対とか言ってるが、こんなのが暴力の内に入るかっ。むしろこの女の傍若無人ぶりのほうが、暴力だっ。
俺は強制的に、ロズニスの耳の穴に低い声を吹き込んでやった。
「鏡で自分の顔を確認して、まだ言えるものなら言ってみろ。それから、冷たい水で顔を洗って、はっきりした頭で、どうして王子の俺が、世話係のおまえに茶なんぞ淹れてやらにゃあならんのか、よーく考えてもらおうか?」
「ブラッド様、凄んじゃヤですよー。怖いですー」
耳を離してやるとすぐに立ち上がって、奥の水場へと逃げていく。言ってる内容のわりに、ちっとも怖がってなさそうだし、それ以上に、悪びれたとこが少しもない。やはり、この女の辞書に、反省の項目はないようだった。つまり、何を言っても無駄。
俺はこれ以上小言を言う気力も出せず、改めてさっきより深い溜息をつき、茶の用意をするべく、ソファへと向かったのだった。
塔での生活は今日で五日目。完全に自分の部屋とジジイの研究室の往復になっている。
本来なら十四歳を越しているから、学院に入学するべきところだが、俺には基礎だの基本だのは無用のものだ。そこで、その次の段階、上級魔法使いの弟子になったのだった。
弟子の身分は、師に一人立ちが認められるまで続く。途中で師が死ねば、次の師につく。そうして九割以上の魔法使いが、そのまま一生を過ごす。
実はそれほどに、魔法というのは役にたつレベルのものを扱うのが難しい。火種を作れる程度なら火打石で充分だし、微風なら団扇で足りる。コップ一杯の水を一時間かかって出現させるなら、さっさと井戸で汲んできてくれとなる。ほとんどの魔法使いは、国で保護してもらわなければとても食っていけないくらいの力しか持っていないのが実情だ。
そんなものを、なぜ大金をかけてまで積極的に囲い込むのか。それは、魔法使いは腐っても魔法使いだからだ。
一人ではたいしたことができないとしても、多人数で行う詠唱や魔法陣に力を添えることはできる。つまり、語弊を承知で例えれば、戦争で魔法使いを使う場合、単に数の多いほうが勝つのだ。魔法使いは、多くいてこそ、初めて使い物になり意味を持つものなのだ。
そして、そうして集められた魔法使いたちは、さらなる魔法技術の発展のために、日々研究を重ねている。魔法とは、「理」を「ここ」に現出させる技。知らない「理」は描き出すことができないからだ。
だが俺は、魔法使いたちが半ば世捨て人のように研究に邁進するのは、それのせいだけではないと思っている。
これはきっと、魔法使いにしかわからない。とても言葉で表せるものではない。
魔法を使う瞬間の、世界の理に触れる快楽を。深く世界と通じ合い、思い描くものを世界の中から引きずり出す、この悦楽を。一度知ってしまえば、もっともっとと求めずにはいられなくなる。
だから今日も、いや、昨日も一昨日も何百年も前も、それと同じに明日も明後日も何百年も後も、たとえ真理の塔がなくなっても、最後の一人になってしまっても、魔法使いたちは魔法使いであるが故に、きっと世界の究極の真理を求め続けるだろう。
『魔法使い』とは、そういう因果を背負った人間たちのことでもあるのだった。
なにはともあれ、夕飯の時間になった。今日の苦行はあともう少しで終わりだ。
ジジイがロズニスに命じたお仕置きは、魔法陣の作成だった。お仕置きというか、当然の課題なのだが、ロズニスにとっては確かに非常に辛いもののようだった。
とにかくこの女、地道にこつこつと繰り返しやることが苦手なのだ。でも、それは魔法の基本だ。同じ事を何千回繰り返しても同じ効力を得られるようにする。どんな些細な効力しか得られなくても、確実であることが一番大事だ。二回に一回暴発するようなものでは、恐ろしくて使えないからだ。
なのにこの女、それができない。探究心は旺盛で、しかも想像力もたくましく、次から次に様々なことを思いついてはやらかすが、ではそれを実用段階にというと、何度も似た実験を繰り返すとか、魔法陣を組み直して書き直すとか、とたんに根気が続かず、居眠りする始末なのだ。
最高責任者の仕事が忙しいのもあるが、そろそろ年齢を鑑みて引退を考え、弟子をとっていなかったジジイがこの女を弟子にしたのは、恐らく他の人間ではロズニスの暴走を止められないからなのだろう。それほどに才能豊かであるのは間違いない。頭の痛いことに、失敗の規模の大きさから言っても。
それにしても、ジジイが出かけてまだ一日もたっていないというのに、心底疲れた。一瞬たりとも目が離せないって、這い這いを始めた赤ん坊じゃあるまいし、いったい何なんだ。
「ブラッド様、お食事の準備ー、できましたー」
相変わらず食事は冷めているようだ。なんだか今日は、セッティングに凝ったらしい。研究室の小汚いテーブルの上に、皿を置く範囲だけ綺麗な布が敷いてあった。それに花まで飾ってある。
「これは?」
「お友達がくれましたー。これで少しでもブラッド様の気持ちが和らぐといいねー、って」
「ふうん。礼を言っておいてくれ」
別に和らぎはしないが、気持ちだけは受け取っておく。
「はいー。気を遣う必要なんて、ないって言ったんですけどー、私のせいで、絶対苛々がたまってるからってー言うんですよー? そんなことないですよねー、ブラッド様? だって、しょっちゅう怒っているのに、たまりようがないじゃないですかー。ねえ?」
俺は黙って目をつぶって苛々をやりすごした。この女には、デリカシーもない。俺も前世では妹にさんざんそう言われてきたが、この女ほどじゃないと断言できる。
「みんな、私がいつブラッド様に消滅させられるかって、ハラハラしてるんですよー? 口うるさいけど、お茶は淹れるのがうまいって、ちゃんと私、言ってるんですけどーねー? それ話したら、慌ててこんなもの用意してくれたんですー」
変ですよねー? と首を傾げている。変なのはおまえだ。
「もういい。席につけ」
「はいー」
二日目から、朝昼晩と、この女と食事を共にしている。俺に王子という肩書きが付いているせいで少し面倒なことになっているが、本来ならロズニスとは兄弟弟子だ。身分の上下はない。
俺は立ったままで、ロズニスの皿の上に手をかざした。皿ごとに食事を適温に温めてやる。
「ねー、ブラッド様」
「なんだ」
「今頃リュスノー様も美味しいもの食べてますかねー?」
「さあな」
「絶対食べてるに決まってますー。だって、ルシアン様とリチェル姫についていったんですよー? いい宿に泊まってるに決まってますもん」
「ルシアン?」
俺は初耳なそれに、ロズニスを注視した。
「あれー? 知らなかったんですかー? ご婚約の挨拶に行くんですってー、アルニムまで」
俺は嫌な予感に、頭のてっぺんから足の爪先まで、ざっと冷気に包まれた気がした。
話的には、おかしくはない。俺の望みどおりに事は進んでいるのだろう。だが、なぜ、俺に一言の挨拶もなく、ルシアンは行った? ジジイもだ。行く先も期間も言わなかった。『ちょっと出かけてくる』なんて言うから、一日二日、たいしたこともない用事で出掛けたと思ったのだ。
「あのう、ブラッド様、お顔が怖いですー。怒ってます?」
「いや。そうじゃない」
ロズニスが興味津々に下から顔を覗き込んできた。鬱陶しくて、俺は顔を隠すように踵を返して、自分の席へ向かった。
「そーですかー? ブラッド様が怒ったら、リュスノー様が、これを見せなさいって言ってたんですけどー、怒ってないならいーです」
「ちょっと待て。なんだ、何を持っている。見せろ」
俺はロズニスの許まで戻って、手を出した。えー? 怒った時のお守りだったのにー、失敗したー、と言いながらも、渋々さし出してくる。
それは地図だった。……王都からアルニム王国までの旅程を書き込んだ。
俺はそれに奥歯を噛み締めた。なんだってこんな道を選んだ!?
わざとかっ。わざとなんだなっ!?
「エ~ンッ。エ~ンディミオ~~~~ンッ、なーに企んでやがる~~~~っっ!?」
俺は無意識に、人の形をした災厄である、敬愛なるクソ国王陛下を呪う叫び声を上げていた。