姉弟子
突然のノックの音に顔をあげたとたん、グキリと首筋が鳴って、声につまった。
痛って。ああ、うっかりしてた。なんか色々考えるのが嫌で、夕飯までの時間を潰すのに本を手にとっていたら、つい夢中になってしまった。首も肩も腕も背中も、ついでに足腰もガチガチになってしまっている。
「何用だ」
俺は本をてきとうに本棚に上げ、首と肩を回しながら、扉へ向かった。
「お食事をー、お持ちしましたー」
妙に間のびした高い声が聞こえた。どうやら扉の向こうにいるのは女性らしい。俺はなんとなく、腕自慢な屈強な男が怯えを隠して虚勢を張りながらやってくるような気がしていたので、意外に思った。
そして、はっと思いつく。
さっきジジイに施設案内をしてもらったが、会う奴会う奴、俺が誰か気付くと、一様にポカンと見つめて、それから我に返って顔を強張らせて、慌てて壁際にびったりくっついては、顔が見えないほどに深く頭を下げていた。
たった一人の十五歳のガキが通るだけで、だ。どんだけイカレたネームバリューかって話だ。
そんな相手が、扉を開けてすぐにいたら、ものすごく驚くにちがいない。女にびくびくされたり、悲鳴をあげられたりするのは、趣味じゃない。
俺は踵を返して部屋を見回した。とりあえず、扉から一番遠い出窓に腰掛けることにした。
「入れ」
「失礼いたしますー」
腰まで届く麦穂みたいな髪の女がワゴンを押して入ってきた。しっかり扉を閉めると、顔を上げもせず、そのままぺこりと頭を下げる。
「リュスノー様に師事しております、ロズニスと申しますー。ブラッド様のお世話を仰せつかりましたー。どーぞよろしくお願いいたしますー」
俺は、つい、その独特な口調に、彼女が語尾を伸ばすたびに無意識に拍子をとってしまって、そのリズムの合わなさかげんに、イラッときた。なんか、あるもんだろ、自分に合うリズムって。ほら、阿吽の呼吸とか言うあれだ。それが徹底的に合わない。
それでも、俺は彼女の態度が気になって、声をかけた。
「顔を上げよ」
彼女の体がゆっくりと起こされる。彼女は少々タレ目気味の、地味だけど愛嬌のある顔をしていた。その口調と同じに、全体的におっとりした感じだ。俺より少し年上だろうか。二十歳は越えていないように見える。
そして、さきほどから感じていたとおり、しっかりと俺を見返す瞳に、怯えの色はなかった。その一点だけで、貴重な人材と言える。ジジイがどうしてこの女を選んだか、わかった気がした。
「よろしく頼む」
俺は、なんだかほっとしながら、そう伝えた。彼女は嬉しそうににっこりと笑った。そうすると、さらにほわんとした感じになる。すべてを暖色に変えるランプの光のせいだろうか、彼女の小麦色に見える髪も、赤っぽいワンピースも、暖かさに満ちていた。
「食事の用意を頼む」
彼女はもう一度ぺこりと頭を下げ、食事の用意を始めたのだった。
彼女は部屋をのんびりと観察し、研究机へとワゴンを進めていった。理由はわかる。めったに使わなかった食事用のテーブルセットの上は、椅子の上も含めて、本と器具とがらくたで埋めつくされているからだ。
研究机の横に到着すると、今度は机の上を片付け始めた。その動作がのろくさい。一つ手に取っては、机の他の物と見比べて、置く場所を吟味している。
いや、何をしているのかはわかるんだ。おそらく、カテゴリー別に分けてくれているんだろう。でも、それ、今するべきことか?
それでも俺は黙って見守った。女の仕事に口を挟むと、わかりもしないくせに勝手なことを言うなと、説教をくらうものだからだ。
だけどなあ、と考えずにはいられない。俺だったら、まず、どこにするか聞く。そうでなければ応接セットだ。テーブルが低くて食べにくいが、あそこだけはあいているのだから。少なくとも、待たせないですむ。
ようやく皿を置ける場所が確保され、彼女は料理を並べ始めた。けど、湯気の一つも上がっておらず、冷め切ってしまっているのが見て取れる。
文句は言うまい。彼女は侍女でも女官でもない。ジジイに師事しているなら、姉弟子になるんだし、客人や先輩の世話は、義務というより修行の一環だ。些細なことで咎めるのは、こちらの度量を疑われる。
ワゴンの上の物を全部移し終わって、さあそろそろ声がかかるかと俺は身構えたが、彼女は顎に指をあて、料理を見ながらなにやら思案する。そしておもむろにスプーンを取り上げ、スープの中に突っ込んだ。
まさか味見するのか!? いや、毒見か? 何だ、何を始めるんだ!?
俺は腰を浮かして、彼女を制止しようかと迷った。が、彼女の詠唱がぶつぶつと聞こえてきて、声を飲み込んだ。
「地に偏在せしもの。我が血にも流れしもの。我が愛しき鋼。我が呼び声に答えておくれ。……あったまれー」
どうやら彼女の属性は土らしい。と思った瞬間、バシャッと派手な音がして、スープがまわりに飛び散った。
「熱いっ」
彼女がスプーンから手を離し、とびのく。
「大丈夫かっ」
俺は驚いて駆け寄った。机の上を一瞥して、ほぼスープがなくなっているのと、スプーンが真っ赤になって先が溶けて皿の底にはりつき、残ったスープが今もブクブクパチパチシューシューと蒸気を吐きながら刻々と減っているのを確認した。
力加減を間違えたのだろう。あんなスプーンを握ってたら、手のほうも酷い火傷をしているかもしれない。
「手を見せろ」
胸元に抱え込んでいる手をつかみ、掌をさらさせる。親指、人差し指、中指の先が赤くなって水ぶくれになっている。
俺はそこを手で包んで、氷を作り出し当てた。それから目をつぶって意識を集中して、水ぶくれの中の水を抜いていく。幸い肉は焼けていないようだ。この程度なら、組織を取り替える必要はないだろう。
目を開けると、彼女が目を丸くして俺を見ていた。苦笑して手を離す。
「三日四日は痛みそうだな。ここはもういい。医務室へ行ってこい」
それでも彼女は、俺が手を離したままの姿で動かなかった。ぱちり、ぱちりと時折瞬きするが、じいいいいっと俺を凝視している。
「おい?」
何か他にもやらかしていたのか? 詠唱で我が血がどうのと言っていたが、まさか体内のどこかもやっちゃったとか? 時々そういう事故はある。効力の範囲を間違えて、自分まで燃やしてしまったりとかだ。
俺は心配になって、手を伸ばして彼女の頭に触れた。彼女の体を精査しようとしたのだ。
すると彼女の唇がわなないた。あうあうと言葉にならない声をもらす。意志の片鱗がちゃんと瞳の中に見え、とりあえず、頭がイカレたわけではないらしいと知れた。
俺は心底安堵して、意識して優しく尋ねた。
「どうした。どこが痛い」
「これ……」
「これ?」
小さな呟きに聞き返せば、彼女は突然激しく頷いて、怪我をした手をさらに俺へと突き出した。
「これ!!」
「お? おう」
その勢いにびっくりしながらも、俺も小さく頷く。
「どーやったんですかっ。詠唱ではなかったですよね!? 魔法陣発動の痕跡もありませんでした。いったいどーやって制御しているんですかっ」
指の形の氷が溶けて水がしたたる指を、さかんに俺の鼻先につきつけ、振っている。
そうは言われても、世界の真理が魂に焼きついているからとか言えねーし。
「あー。特異体質?」
「知ってます!! その詳細を聞きたいんです!!」
さっきまでののろさはどこにいったのか、素早い動きで俺にせまり、怪我していないほうの手で俺の襟首を掴みあげた。
「その制御方法を、教えてください!! でないと、でないと私」
彼女の唇がへの字に曲がり、瞳が潤んだ。
「またリュスノー様に、お仕置きされるー」
ああ、うん。その気持ちはよくわかるよ。
俺は思わず、同病相憐れんでしまったのだった。