リチェル姫
王はブラッド王子の部屋を出て声の届かないところまでくると、やつぎばやに侍従たちに用事を言いつけた。全員が次々と消えてゆき、廊下を行くのは王とルシアン王子だけになった。
「手、気持ち悪いんですが」
王子が低い声で、ぼそりと呟く。
「うん? おまえは本当につまらんのう」
王はルシアン王子の腕をぐいっとひっぱり、その肩に腕をまわすと、しっかりと首を挟んで押さえておいて、髪の間に指をつっこんだ。ぐしゃぐしゃに掻きまわす。
王子は黙ってされるがままだったが、突然、王の体がはじかれた。王子から手が離れ、たたらを踏んで、巻き起こった風と共に後ろにさがる。王子は体を起こしながら冷ややかな視線を王に向け、手櫛で自分の髪を整えた。
その姿は美貌とあいまって、気位の高さと冷淡さがきわだち、さながら日にきらめく氷の化身のように見える。兄の前とは別人の気配をまとった彼に、王は呆れを示す息をついて、肩をすくめた。
「おまえはそんなだから、友達ができんのだ」
思春期の子供の心をえぐる指摘のはずだったが、王子は馬鹿馬鹿しいと言いたげに鼻を鳴らして、横を向いてうつむいただけだった。
くっくと王は喉の奥で笑った。
「そんなものに興味はないか。ならば、これはどうだ。なぜブラッドが一人にこだわるのか、おまえは考えてみたか? あれが名誉など欲しがるものか。むしろいらんと逃げだすような性格ぞ。それに、おまえがいなければ、あれの力は半減するのだろう? それでも己一人のほうがマシだと判断したのは、おまえがそれだけ足手まといだからだろう。つまり、おまえはあれに、共に並び立つに足りぬと思われているということぞ」
王のことなど無視したようにうつむいていた王子は、そのままの姿勢で、にわかに婉然と微笑んだ。そうして優雅な仕草で少し顔をめぐらせ、男でもふるいつきたくなるような妖しい流し目を王にくれた。心も体も瞬時に凍らせる、絶対零度のまなざしで。
ただし、陽気な王にはどこ吹く風としか感じていないようだった。
「さてさて、くだらぬ戯言はここまでとして、一つ提案ぞ。余はブラッドにああ言ったが、おまえに無理強いするつもりはない。だが、おまえがそのままであるかぎり、手を変え品を変え、あれは同じ選択を繰り返すに違いない。幸い、リチェル姫は妻とするには最高の女ぞ。姫と婚約することによって、アルニム国との関係は安定するであろう。それに、姫の血、持参金となる領地、すべてがおまえに力をもたらす。それをよく考えるのだ」
「俺の力? あなたの利益の間違いでは?」
ルシアン王子は鼻で笑った。
「余の利益は国の利益ぞ。それは、次の守護魔法使いの身を守る盾ともなろう。いっそ、婿養子になるのを許してやってもよいぞ。おまえが大国アルニムを手に入れると約束するのならな? それぞ最高にして最強の盾となろう」
二人は艶やかなのに寒々しい笑みで見つめ合った。言葉にしない応酬を視線だけで交わす。
やがて、王の新しい護衛たちが廊下の向こうから現れ、急ぎ足で近づいてきた。王はそれへ、ちらりと目をやり、口を開いた。
「リチェル姫を呼び出しておいた。案内させよう。二人でよく話し合うがいい」
そうして王子を置いて、護衛たちへと歩み寄っていく。彼らに囲まれると、顎を一振りして指示を出して、護衛の一人を王子へと割く。
そのまま王は、二度と王子へ視線を向けることもなく歩み去っていった。
ルシアン王子もまた、その背をけっして見送ったりはしなかったのだった。
ルシアン王子が案内された部屋に行くと、リチェル姫は窓際に立っていた。
「待たせた」
ルシアン王子は横柄に一言詫びた。彼女は華やかに笑んで、歩み寄ってきた。
「私もさきほど参ったばかりです。……陛下の使者から簡単なお話はうかがいましたわ」
彼女は王子の前に立って、右手を淑やかにあげた。王子はその手をすくい取り、流れるような動作でソファへと導いた。
「お茶はいかがですか?」
テーブルをはさんで向かい合わせに腰を落ち着けてから、テーブルの隅に用意してある保温カバーのかかったティーポットを指し示して、姫が尋ねる。
「いらない」
「では、私は遠慮なくいただきますわ」
そう言って、一人分だけ注ぎ入れる。それに一口口をつけると、ほう、と息をついた。
ルシアン王子はそれを待っていたように、話しかけた。
「あんたは、いったいどれくらい本気なんだ」
「なんのお話ですの?」
「俺を好きだという。結婚してくれとつけまわす。でも、あんたは俺に、好きになってくれとは言わない。あんたは単に、ネニャフルの王子、いや、『英雄ブラッド』の残した魔力持ちの王子と婚姻を結びたいだけなのか。それとも、好きな男と結婚したいのか。どちらなんだ」
姫は王子を真顔で見つめて、コトリと首を傾げた。
「どちらも、でしてよ」
「俺はあんたを愛せない」
「知ってますわ。あなたが夢中なのは、ブラッド様ですもの。悔しいですけれど、それは仕方のないことですわ」
王子は目をそらし、気に入らないと言いたげに息を吐き出した。
「ずいぶんと簡単に言う。その程度のもので、俺に関わるな」
そうして話は終わったとばかりに席を立った。リチェル姫は、そんな王子の背に、嘲りの笑みを含んだ言葉を投げつけた。
「ルシアン様こそ、その程度、ではないですか。ばっかみたいですわ。ちょっとブラッド様に『おまえなんかいらない』って言われたからって、簡単に引き下がって、苛々として」
王子はゆらりと体を揺らして、冷ややかな瞳で振り返った。
「私が、いつ、ルシアン様に邪険にされたからって、引き下がりましたか? 私、一歩だって引いたりしていませんわよ。へタレなルシアン様に、その程度などと言われるなんて、ちゃんちゃらおかしくって、臍で茶が沸かせてしまいますわ」
ほほほほほ。姫は鈴を転がすような笑い声をたてた。しかし一転、唐突に笑いやむと、鋭く王子を見据える。
「好きになってくれと言わないですって? 言ってどうなるのです。ルシアン様は、ブラッド様に乞うたことがおありなのですか? ご自分だって、それがどのくらい虚しいことか、わかっておいででしょうに。愛は、乞えるものではありませんわ。それはそれぞれの心に自然に生まれ出で、湧きあがるもの。だからこそ、価値のあるものなのでしょう?」
王子は顔だけ向けていたのを、彼女へと体ごと向き直った。何も言わずに、冷たく無表情にリチェル姫を見つめる。
「私は、諦めませんわ。本当は、諦めようと思ったこともありますのよ? だって、ルシアン様は徹底して私に冷たいんですもの。少しだって、甘い夢を見させてくださいません。でも、それは優しさですわよね? よけいな期待を抱かせない、誠意ある態度ですわ。それに気付いてから、私、どうしてもあなたを諦められなくなりましたの」
「それは単に、あんたのことなんかどうでもいいだけだ。勝手に曲解して盛りあがるな」
「私を思っての行動ではないことは、よくわかっていましてよ? でも、あなたには私の痛みがわかるから、どこか少しずつ手加減してくださっているのですよ。きっと、無意識でしょうけど。今も、本当に興味がないなら、無視して立ち去ってしまっているはずでしょう? それになにより、今回のことも、どうでもいいはずの私に気持ちを聞いてくださった。取り付く島もなく冷たいのに、最後の最後で優しいんですもの。これを、どうやって諦めろと仰るの?」
それを聞いたとたん、ルシアン王子はくるりと背を向けて、さっさと扉へと向かいだした。リチェル姫は、「人の一世一代の告白を聞いておいて返事もなしですか。酷いですわ!」と叫んで、立ちあがって、王子を追いかけた。勢いよく、その背中に抱きつく。王子は自然と歩みを止めた。
「諦めようとして、思いましたの。自分から諦めて、あなたから離れておいて、それでもいつか、あなたが他の誰かと結婚したと聞いたら、きっと私、嫉妬で狂って、世界中を呪います。それくらいなら、一生かけて、あなたを振り向かせようと足掻いたほうが、ずっとマシです」
「俺は」
「いいのです。あなたのそういう、不器用なところを愛しているのですから」
「しつこい女は嫌いだ。胸のデカすぎる女も」
「まあああっ。なんて、つれない人なのかしら!!」
姫は、もっとぎゅっと、王子の胴にまわした腕に力を込めた。
「私、家柄、財力、容姿と揃って、その上、頭も悪くありません。もちろん健康で、性格も素晴らしく良く、なによりあなたを深く愛しています。私、あなたの言いなりですわ。存分に利用してくださいませ!!」
「いったい何の押し売りだ」
王子は脱力した溜息をついた。姫は拒絶されなかったのに気をよくして、頬と額を彼の背中にすりすりとすりよせた。
「かゆい。やめろ」
「あなたがどんなにつれなくったって、私は諦めません。だから、ルシアン様も、諦めないでくださいませね?」
王子は意表をつかれて、ふっと引っ張られるように、背中にはりつく姫を見ようとした。姫も顔を上げ、王子に笑いかける。
「引かれたからって、こちらも引いたら、接点はなくなってしまいますわ。落としたいなら、押しの一点張り、これしかございません!!」
ルシアン王子は眉を寄せてしばらく考え込み、最後に渋面になって呟いた。
「迷惑な女だな」
「恋に遠慮は禁物ですわ」
王子はうんざりとして、天井を見上げた。それでも、彼女の手を振りほどこうとはしなかった。




