過去の残滓
王と初めて会ったのは、王都での身元引受人でもあるジジイから、アナローズ姫との婚約を許されたと、内密に知らされた日だった。
姫を手にできる。夢のような話に、俺は浮かれた。文字通り、天にも昇る心地だった。
結果的に、魂を飛ばして、ぼんやりとジジイを見て突っ立っていた俺は、ベシンと頭を叩かれ、我に返った。
「話はまだ終わっていない。妄想は夜、自分のベッドの中でしろ」
「痛ーな」
いつもならくってかかるところだが、俺の中は喜びに満ちあふれており、不快は怒りにまで成長しなかった。
「それで、なんだってんだよ」
横柄に聞き返すと、また手が出てきて、ベシンとやられる。
「口の利き方がなっとらん。婚約を取り消されたくなかったら、まともな言葉遣いをしろ。おまえが恥をかくのは自業自得だが、姫に恥をかかせるな」
俺はぐっと詰まった。相手は一国の姫だ。確かにジジイの言うとおりだった。
「……わかり、ました」
「よろしい。これから陛下が、直接おまえに婚約の許可を伝えにいらっしゃる」
「いらっしゃるって、ここに?」
こぎれいにはしているが、ここは研究資料が山積みになっている研究室だ。王を迎え入れるような場所ではない。
「そうだ。ここに。今すぐ」
「今すぐ?」
信じられない展開に、繰り返して確認をとったが、ジジイの返事は変わらなかった。
「そうだ。さあ、背筋を伸ばせ。言っていいのはただ一言。ありがたき幸せにございます、陛下、だ。言ってみろ」
「あ、ありがたき幸せにごじゃいましゅ、って、口がまわらねえっ!」
「落ち着け。ありがたき幸せにございます、陛下、だ」
ジジイは俺の失敗を笑うことなく、落ち着いた声で繰り返してくれた。おかげで俺は気持ちを落ち着けて真似することができた。
「ありがたき幸せにございます、陛下」
「それでよし。次は、礼をしながらだ。見本を見せる。一度で覚えろ」
そう言ってやってみせてくれたジジイの礼は優雅で毅然とした気品があり、さすが年の功というものだった。
俺はといえば、頭だけ下げるな、折るのは腰から、もっと深く、タイミングが悪いと、一から十まで直された。
途中で、だったらいらねーっ、と叫びたくなるほどだったが、さすがに俺もそこまで馬鹿じゃない。ただし、礼がなんとかできるようになる頃には、王に頭を下げるという行為が、酷く屈辱的に感じるようになっていた。
「どうやら間に合ったようだ」
ジジイは廊下のざわめきに気付いて、扉へと目を向けた。
「さあ、背筋を伸ばせ」
そう注意して、俺の斜め前へと立った。
「おお、我が弟よ!!」
バターンッと扉が開け放たれたと思ったら、なんとも豪奢で派手な男が両腕を広げて歩みよってきた。服装は華美にして華麗。それが下品でなく、むしろ上品でさえあるのは、男の精悍な美貌のせいだった。
いつも遠くに見ていた国王陛下が、満面の笑顔で俺を抱き締めて、機嫌よく背中を何度も叩いた。
「おまえのような見目良い者が、我が守護魔法使いとなるとは、嬉しいことよの!!」
かと思うと体を離し、肩を掴まれ、顔を覗き込まれる。
「その黒髪と揃いで黒がよいかの。それとも白も捨て難いかの。うむ。衣裳係!」
いつのまにか壁際に控えていた男数人が、さささ、とメジャーと紙束を抱えて現れ、よってたかって俺を計りはじめた。
「我が守護魔法使いをひきたてる衣裳を用意せよ。色は黒と白、両方だ!! 最高級の布地も金糸銀糸も使い放題を許す。金に糸目はつけぬ。女という女が目を奪われ、他国の王どもが羨望のまなざしで余を見て悔しがるようないでたちに仕上げよ。よいな!!」
国王が言い終わる頃には計測は終わり、行けとばかりに手を振られたのを合図に男たちは後退りして、部屋の外へと消えていった。
「今からおまえの披露が楽しみぞ。おまえによって、我が名声はさらに高まろうぞ。うむ。期待しているぞ!!」
ぼすぼす。両肩を二回叩き、王は唐突に俺に背を向けると、俺が何を言う暇もなく、部屋から出て行った。
「ジ、ジジイ、なんだあの阿呆は?」
俺は半ば呆然と呟いた。
「声を落とせ、言葉を慎め。国王陛下であらせられるぞ。それに、誰がジジイだ。心の声が駄々漏れになっておる。おまえはどうも、いつまでたっても歯に衣着せられないようだな。その歳でそれでは、正直者というより、ただの礼儀知らずというものだ。しかたないから、とにかく人前では口を噤んでいろ」
本日三度目、ベシン、と頭を叩かれ、師匠、もしくはリュスノー様に諭された。
「本気であれが国王なのか!? まさかアレを崇めろと? できるかよ!!」
あの男、俺の魔法の腕前より、容姿を重要視していたぞ!!
「ならば、おまえが王になるか? それならそれでお膳立てしてやるが」
「はぁ?」
何言ってやがるんだ、このジジイは。耄碌するには少々早いだろう。
俺は苛立ちと不信を込めて、ジジイを見た。しかし、ジジイは思いのほか、真剣な顔をしていた。
「王のお子はまだ小さい。王の次に王位に近いのは、アナローズ様の夫となるおまえだ」
「冗談だろう」
俺は笑った。
「俺は百姓の息子だぞ。そんなの話にもならないだろうが」
真理の塔でも、宮廷でも、上辺は高位の魔法使いとして尊重されても、貴族でもない、大商人の出でもない、しかも辺境の百姓の出の俺は、一部の者たちをのぞいて、けっして受け入れられることはなかった。
「それがそうでもないのだ。他は皆、傍流だからな。何十人もいるその中から王を選ぼうとすれば、争いが起きる。嫡流の姫の夫の方が、まだ無駄な争いを抑えられる」
「だとしても、俺ごときができるわけがないだろう。自分がそんな器でないのは、誰よりも俺が一番わかっている。師匠だってわかってるだろう」
「わかっておるとも。王など、誰でもよいのだよ。前王はそのように人材を揃えられた。ぼんくらでも残忍でなければよし。たとえ百姓の息子だろうと、王位の正当性が主張できるのならば、我らは担ぐに否やはないのだ」
「……どいつもこいつも、馬鹿にしやがって」
王は俺の容姿に、ジジイとその仲間は、俺の立場に興味があるだけだってのか。
「馬鹿にされないほどの何をおまえが持っている。ちょっとした魔法の腕だけではないか。自分だとて、それだけの器だと先程言っていただろう。いいか、自分でやる気がないのなら、黙って従え。実効性のない権威は国の乱れる元だ。たとえどんな阿呆だろうと、王を王として崇めるのは当たり前のことだ。それが、国王というものだからな。それに、あれはあれでなかなか王に向いていらっしゃる。なにしろ、自己顕示欲は人並み外れているから、己を貶める者に敏感で容赦ない。しかも常に人々の賞賛を得ようとしているから、それほど苛政を布くこともない」
ジジイは現守護魔法使いとしての威圧感たっぷりに俺を見据えた。
「自分で起つか、でなければ従うのだ。どちらも選ばず道を乱すならば、おまえであっても私は排除する。いいな。覚悟を決めろ」
覚悟。
その本当の意味を、当時の俺はわかっていなかった。ただ、王の犬になり下がることだと理解した程度だった。
本当の意味を知ったのは、生まれ変わった後だった。赤ん坊だったルシアンが、俺に笑いかけながら抱きついてきた時。一緒に倒れながら、その温かく柔らかい体を感じた時だった。
突然、思いがけないほど、深く思い知った。
俺は、友達を殺したんだ。大切な、仲間を。
俺は泣きだした。赤ん坊の体は堪え性がない。心理的肉体的を問わず、不快に対して敏感に泣きわめく。まわりの人間は、床に頭をしたたかにぶつけたせいだろうと、いつまでも泣きやまない俺に慌てたが、そんな理由ではなかった。
俺は恐ろしかったのだ。自分の罪に怯えていた。二度と覆らない、取り消せない罪に。
覚悟とは、王になることでも、それに従うことでもなかった。
それは、人を殺すことを命じる人間か、それを実行する人間になるかを、選べということだった。そういう義務を持つ地位に就くということ。
師匠は、それを言っていたのだった。