幕間 家族の団欒、あるいは鼻水の魔法
ルシアンが食事の様子を見にいくと部屋を出ていった。
しばらくしてメシの載ったワゴンを押して入ってきたのは、なぜか母だった。
母はベッドの上で座っている俺を見て泣きそうに微笑むと、ワゴンを置き去りにして駆けよってきた。ベッドの縁から身をのりだして、俺の手をとる。
「ああ、ブラッド、よかった。わたくしのことが、わかる?」
「うん。わかるよ、母さん」
俺は自分が口にした呼び名に驚いた。あれ? 今、初めて母さんって言ったよ、俺。
母もびっくりした表情で俺を見ている。俺は照れて笑った。母の長い下睫にささえられて、涙がもりあがる。それがきらきらと光る。
「ブラッド」
母はそう呼んで涙をこぼすと、俺の手を握った上に顔を伏せて、そのまま泣きだした。
俺は姿勢を変えてもう一方の手を伸ばし、彼女の肩に触れた。そして、彼女が泣き止むまで、その肩を撫で続けたのだった。
……というのは嘘だ。そうだったらカッコよかったのに、という話だ。
俺は、三撫で目には、母の肩を揺すった。
「ごめん、母さん、メシください」
母は、まあ、と言って顔をあげると、空腹のあまり情けない顔をしている俺を見て、くすくすと笑った。そうだったわね、すぐに準備するわ、と、涙を拭きながらベッドを離れる。
そうしてやっと目の前に粥の入った皿が用意された。空腹のせいでぶるぶると震える手を伸ばす。ああ、うまそうな匂いだ。むしゃぶりついて器ごと飲みくだしたい。
しかし、手が届こうとする瞬間、皿が遠くへと引っ込められた。
「か、かあさん?」
頼む。頼むから、メシください。
「だめですよ、ブラッド。おなかがびっくりしてしまいますからね。ゆっくりいただかないと」
いや、もう、限界なんです。目の焦点も合わないような気がするんです。そんな悠長なことしてられないんです!!
「どーでもいいから」
さっさとよこせ。メシよこせ!! とは上品な母に向かって言えず、俺は出したままの手を、届かないのがわかっていながらも、もっと伸ばした。
「はい、はい。いい子ね~」
母は一口すくった粥に、ふうと息を吹きかけて冷ましてから、口元に持ってくる。
「はい、あーん。ブラッド?」
俺は恥も外聞も忘れて、それに食いついた。絶妙のタイミングでスプーンが引き抜かれ、味わいもせずに飲みくだす。
「おいしい? はい、あーん」
そうしてまたすぐさま繰りだされるスプーン。それを俺は無我夢中でしゃぶった。眼前に現れる食い物に、とにかく食らいつかずにはいられなかったのだ。
しばらくして少々腹がふくれてきたところで、やっとハタと我に返る。すると一瞬で理性が常識の蓋を開け、その中から羞恥心がすごい勢いで噴き出してきた。
あーんとかって、幼児かバカップルのイタイ所業そのものじゃないか!!
「えーと。後は自分で食べられるから、かしてください」
俺は恥ずかしさを振り払おうと、勢いよく両手をつきだした。
「あん。ダメですよ。わたくしが、やりたいの。やらせて? ね、ブラッド?」
母があくまでも賢母の微笑で、しかし、反則的なほど可愛らしくおねだりしてくる。
胸の奥が、きゅうっときた。傾げた首の角度が、自然にくねった腰が、上目遣いの瞳がぁっ。なんですか、その破壊力は。うおお。可愛い、愛しい、綺麗だ、駄目だ、逆らえない。
「……しかたないなあ」
俺は内心の動揺は押し隠して、ふっと軽く溜息をついてみせた。うん。俺、今、病みあがりだし、俺たち病人と看病人だしな。恥ずかしいことないよな?
「今日だけだよ」
「ふふふ。じゃあ、今日は、いっぱい甘えてちょうだいな」
楽しげな母の様子に、俺の心も明るくなる。
「うん。ありがとう、母さん」
すんごく照れくさいが、化け物じみた色気たっぷりでねっとりと攻められるよりも、一億倍ほど健康的だ。
俺はベッドの上で口を開いて、次の一口を待ち受けた。
……待ち受けていたのだが。
「いいかげん失せろ、クソババア」
玲瓏たる朗らかな声の罵詈雑言が耳に飛び込んできて、俺は動きを止めた。扉からつかつかとルシアンが急ぎ足でやってきて、母からスプーンをとりあげようとする。奴はその間ずっと、キラキラしく爽やかな笑顔を崩さなかった。
対する母は、ついっとその手をよけ、ルシアンそっくりに笑みを深める。
「あら。いけない子ですね、ルシアンは。そんな言葉遣いをしてはいけませんよ。ああ、もしかして、これが反抗期というものかしら。まあ、困ったわ。ルシアンは思春期という暗い帳の中にいるのね。でも、大丈夫よ、ルシアン。明けない夜はないのですからね」
うふふふ。母はまくしたてるだけまくしたてると、やはり賢母の微笑を浮かべた。見当違いな言葉の数々は、完全にあてこすりに聞こえるのだが、こちらも発言内容と表情が一致していない。
二人の間に熱い何かが渦を巻く。
「頭のゆるい妄想するな、クソババア。医務室行って、脳みそ縮んでないか見てもらってこい」
「まあ、ありがとう、ルシアン。わたくしの健康の心配をしてくれるなんて。グレてもいい子ね」
どうも、母の方が一枚上手なようだ。ルシアンから急激に殺気が漏れだしてきている気がする。それにしても、ずいぶんお互いに遠慮がない。
俺は疑問に思ったことを口にした。
「いつの間に、そんなに仲良くなったんだ?」
すると間髪入れず、二人はクルリとこちらへ顔を向けた。良く似た顔が、同時に喋りだす。
「何言ってんの、こんなババアと仲良くなった覚えはないよ!!」
「おほほ。もちろんブラッドも愛していますよ」
俺は思わずふきだした。
一見違うことを言ってるようだが、内容は同じだろう。しかも、表情までそっくりって。
「あはははは」
俺は堪らなくなって、ベッドを叩きながら笑い転げたのだった。
俺は母から器を受けとって、残りの粥は自分で口にかきこんだ。
ルシアンはむくれて窓の外を見ているけれど、俺の枕元でベッドに腰かけている。母はニコニコとして、看病者用の椅子に座ったままだった。
二人を交互に見ながら、これって家族の団欒だよな、と思う。たぶん、今生で初めてと言っていい。そんな記念すべきひとときに、いいかげんルシアンにも機嫌をなおしてもらいたくて、声をかける。
「それで、おまえは何を怒ってるんだよ」
「別に」
むっつりとした答えが返ってきた。
「それはね、わたくしが、あーんをやったからですよ」
てことは、こいつもやりたかったってことか!? 母親とか姉妹ならまだしも、兄弟であんなことやる気にならねーよ!!
勘弁してくれよ、ルシアン。俺は口走りそうになった言葉をすんでのところで押し止めた。ルシアンがグルリと首をめぐらせ、ギロリと母を睨んだからだ。
「約束が違うだろう。数分前の約束も覚えていられないのか、ボケババア。確かめたらすぐに出てくるはずだっただろうが」
「臨機応変ですよ。ブラッドがお腹がすいてたまらないって言うものですから。舌を火傷したり、急にかきこんで吐いたりしないように、面倒をみただけです。それに、ちゃんと確認もできましたもの。あなたもおかしいところはないと思ったから、私に面会を許したのでしょう?」
ルシアンはまたもや、プイッと顔ごとそらした。
「おかしいって、俺のこと?」
「ええ。ルシアンがもたもたしていたものだから、あなた、還元されてしまったんですって。それって、大変なことなのだそうね」
ルシアンは言い訳どころか、動きもしない。こいつ、へんなところでプライド高いからな。
「あー。それは誤解だよ、母さん」
俺は傍にあるルシアンの背中を軽く数度叩いた。
「あれは下手に扱えば、あの屋敷ぐらい跡形もなく消えるような状態だったんだよ。それを最後まで残って、なんとかしてくれようとしただけでもありがたいよ。あれは完全に俺の失敗。何事もなく後始末つけてくれて、俺まで助かったんだから、ルシアンには感謝しかない。……おまえも、言えよ、そういうことは」
それでも知らんぷりしている。ただ、ルシアンの背中にさっきまでの硬質さはなくなっていた。
「あなたがあれをやったの?」
母がどこかあどけない様子で聞いてくる。
「あれって、失敗したやつ?」
「ええ、そう」
「うん、俺だよ」
「そう。いったいどこから正気に返っていたの?」
うっわ、鋭くきわどい質問だな。そういえば、そういう人だった、この人は。この、わたくし何にも知らないし、わからないの、教えてください、というあどけない顔をしている時は、たいてい答えるのに困るようなことを聞くのだ。
わたくしのこと、気にかけてくださっていたの? とか、誘っていらっしゃる? とか、愛してくださってるの? とか。
男には口にできない台詞があるのに、全部言わせようとするんだもんな。その度に冷や汗かきながら、水を濁したものだったけど。
「よく覚えてないよ」
俺は今回もやっぱり曖昧に答えた。
「じゃあ、あなたにとりついていた人のことは?」
「さあ」
俺は小さく横に首を振って目を伏せた。母の声音に、こちらまで切なくなるようなものが混ざっていたから。
「そうなの」
しんみりとした静寂がよぎる。俺はいたたまれなさに、あのさ、と声をはりあげた。だが、その後が続かず、今までかわした会話を思い出してみる。なにか引っかかっていたはずだ。
「あ。そうだ。それで、二人で俺の何を確認したって?」
「あなたが、ちゃんと、あなたかどうかを」
ああ。そういうことか。俺は納得した。ルシアンは俺を探した、と言っていた。つまり、還元した混沌の中から、俺を再構築したってわけだ。
そう何気なく推論していき、事の深刻さを理解した瞬間、鼓動が止まるほどの衝撃をうけた。
それは、人間を創造したってことだぞ!?
俺は慌てて自分の両手を見た。袖をまくって、腕を確かめる。
傷がない。火傷もない。あれほどの魔法をくらったのに、痕が一つも残っていない。十日で消えるようなものじゃなかったはずだ。
てことは、この体は、まったく新しいものだってことなのか!?
「ル、ル、ル、ルシアン」
俺はルシアンの背中にすがった。ルシアンは振り向いて、おちついてというように穏やかに微笑んで、俺の腕をさすった。
「うん。大丈夫だよ、ブラッド。言動に変なところはない、記憶も繋がっている。ブラッドが寝ている間に魔力の補充もしてみたけど、できた。ブラッドがブラッドじゃないとは言えない」
それって、ないとは言えないだけで、そうだとは断言できないじゃないか!!
「そうよ、ルシアンの言うとおりよ。あなたはブラッドだわ。だって、鼻水の魔法が利いたもの」
「鼻水?」
の魔法? 聞き慣れないそれに、俺は混乱した。
「ええ。昔、リュスノー様にかけていただいたのです。わたくし、あなたたちのお父様に会うと、いつも胸がいっぱいになって、すぐに目が潤んでしまって。そうすると、鼻水も出てきてしまうでしょう? でも、好きな人の前で鼻なんてかめないでしょう。いつも話もそこそこに切りあげて、陰で鼻を拭っていたの。それで、たまりかねて、リュスノー様に相談して、お父様がお傍にいらっしゃる時は、鼻水が出てこないようにしていただいたの」
ジジイ、なんてくだらない魔法を。つーか、どういう構築をしたのだろう。ある意味、すごく難易度の高い魔法だ。
「リュスノー様が仰るには、同じ波動の魔力を持つ者はいないのだそうね。そして、魔力の波動は魂の色でもあるのですって」
そう。そのとおりだった。体がそうであるように、魂も唯一無二のものだ。
親子で顔や体が似るように、限りなく似た魂が生まれてくるとしても、完全に同じものは生成されないという説が大勢だ。魂もまた、死によって体と同じに分解されて『世界』に還る。つまり、同じ波動を持つということは、同一人物だということ。
だがそれを、俺は母の前で認められるわけがなかった。
もしもジジイが、俺の魔力を発動の条件にしていたとしたら。いや、たぶん、あのクソジジイはそうしたのだ。だから、母は今、こんな話をしているのだ。
「わたくしね、お父様が亡くなって、人間ってこんなに泣けるものなのねと思うくらい、たくさん泣いたの。でも、その間、一度も鼻をかまなかったの」
それは、俺が、いや、俺とルシアンが、腹の中にいたから。
「あなたたちが生まれてからは、もう泣かないと決めたのだけれど、それでも涙ぐむくらいは誰にでもあるものでしょう? そんな時も、あなたたちと一緒だと、やっぱり鼻水が出なかったのよ」
話がどんどん核心に迫っていく。俺はルシアンの服を握る手に力を込めた。
「ブラッド一人といる時も、ルシアン一人といる時も、効果は同じだったわ。わたくし、とても嬉しかった。あなたたちは、その血だけではなく、ブラッド様の魂も継いでいるって。まるで、あの人が、わたくしの傍にいてくれるみたいで」
母は目を潤ませて声に詰まった。いったん話をやめて、優雅な仕草で目元を拭う。
どうやらジジイはうまくごまかしてくれていたみたいだ。母は俺を、夫本人だとは思ってもいないようだ。それに一安心した。彼女は知らないままでいてくれたほうがいい。
母が再び目を上げた。するとそこには強い意志が見えていた。
「わたくし、ブラッドが目覚めないうちは、絶対に泣きたくなかったのです。だって、それでは不吉でしょう。だから、泣くのはあなたが目覚めたら、嬉し涙にしようって決めていたのです」
「そうなんだよ。さっさと泣いて確かめてくれれば、リュスノー閣下も納得したのに。俺の言うことだけじゃ、信用してくれなくてさ。魔力の融通ができるなんて、俺たちくらいのものなのに。もしも体だけが蘇って、中が虚ろだったら、とんでもない化け物が目覚めるかもしれないって」
それであの厳戒態勢か。
俺はルシアンから手を離し、背中にあてがわれた枕に身を沈めた。大きく息をつく。
俺は一度死んで蘇ったってことなのだろう。それで、あんな化け物を見るような目で見られていたわけだ。いつもより怯えの色が濃いなとは感じていたんだが、実験場であんなことをしたせいだと思っていた。
またおかしな二つ名をつけられるだろうなと、溜息が深くなる。後々知るのだが、実際この時点で、『不死の魔法使い殺し』と魔法使いたちの間では囁かれ始めていたらしい。
まあ、いいんだけどな、今さら一つ二つ増えたって。状況が大きく変わるわけじゃない。
ただ、この頃、坂道を転げ落ちるようにして人間離れしていってる気がするんだけど、俺、本当にまだ、人間だよな?
「ブラッド、疲れたの?」
母が立ち上がって、掛け布団を引っ張りあげてくれる。ルシアンは器を俺から取り上げて枕を整えてくれた。俺はそれに合わせて体をずりおろし、完全に横になった。
急にどうしようもないほどの体の重さを感じていた。頭から足先まで、みっちり鉛が入っているみたいだ。
「ごめん、もう少し寝る」
「いいのよ。ゆっくりお休みなさい」
「俺はずっと傍にいるから」
「うん」
二人の気遣いに幾許かの安堵と慰めを得て、目を閉じる。
そうして俺は、束の間の安寧にすべりこんでいったのだった。