五、常世《とこよ》
現世にオチル。現世に生きる。
「兄さん、まずは咲耶さんの部屋を決めなくてはなりません。一階の和室を使いたいと思うのですが、どうでしょうか?」
「わらわは信弥と一緒なら、どこでもよいぞ?」
「そういうわけにはいきません。兄さんは和室の片付けをお願いします。私は夕食の用意がありますので」
はやっているらしい『ゆるキャラ』の大きなワッペンが付いたエプロンを身にまとって、いそいそとキッチンへと向かう。
炊事・洗濯・掃除と、家事も万能の妹の意見はこの家においては絶対なのである。初
めから信弥がどうこう言える問題ではないのだ。
「よし咲耶、美弥様からの勅命だ。和室を平定しにいくぞ!」
「おー!」
信弥は左足にへばりついてる魔王を引きずって、普段使われていない和室にやっとの思いで到着した。
扉を開けると、たたみの落ちついた青い匂いが広がる。
すりガラスを障子に似せた窓がひとつあり、日当たりは悪くない。
床の間にはなんだかよくわからない水墨画らしき掛け軸が飾ってある。
特に汚れているわけではないし、部屋として使う分には十分なはずだ。
唯一問題があるとするならば、ダンボールに詰められた荷物が五重・六重の塔を建立していることだった。
「じゃーまずは、この塔の解体作業からだな」
ガムテープで封がされてない物だけ中身を確認して、目録を箱に書いていく。
咲耶は不思議な物がたくさん出てくる箱に興味深々だった。
昔懐かしいアルバムなんかも出てくる。
これを開いてしまうと晩飯が遅くなってしまう気がする。
信弥はそっと箱の奥へと戻した。
昔の教科書や小さくなった古着はこの際だから捨ててしまう。
美弥の服は咲耶が着られるかもしれないので除外した。
そんな感じで、黙々と楼閣を崩していく。
最初こそあれやこれやと騒いでいた咲耶だったが、単純作業に飽きてきたらしい。
手を動かす信弥まわわりでバタバタやり始めた。
挙句の果てに、その背中に飛び乗ったりとやりたい放題だった。
そんな肩口から顔をだす彼女の長い銀色の髪が、頬や首筋を撫でていく感触はちょっと気持ちいい。
と、思ってしまう信弥だった。
「し~ん~やぁ~~ぅ~~」
咲耶はだらしない語尾をかわいくのばしながら、畳の上をピンボールのボールよろしくぶつかっては別の方向へ、ごろごろと転がっている。
そんなことをしているうちに、
〈ズゴッ!〉
頭部という打楽器を打ち鳴らして、低音で鈍い音を響かせた。
その捨て身の演奏は、家の耐震が心配になるほどの振動を放って扉をガタガタ共鳴させた。
その姿を幼い頃の自分に重ねた信弥は微笑ましく感じる同時に、あまりの痛々しい光景に思わずぶつけてもいない自分の頭を押さえてしまう。
「――ぐぅのおぉぉ、ぉぉ……」
咲耶は「く」の字になって後頭部を押さえながら、バネみたいに伸び縮みしていた。
「咲耶、大丈夫かい?」
しばらくもんどりうっていた彼女。
目に涙を浮かべて信弥に擦り寄る。
「しんやぁ~痛かったのだぁ~~。撫でてほしいぞお~」
言い終わるより先に、勢いよく飛びついた咲耶。
受け止めた信弥は予想外の衝撃に一緒に倒れこんでしまった。
彼はしっかりと咲耶の体を抱き、空いている手で彼女の頭をさすってやる。
咲耶は頭を彼の胸に横たえ、体を預ける。
心地よい重さと温かな体温が信弥には伝わっていた。
彼女は哀愁を漂わせて話し始めた。
「……温かい。東にはよくこうして頭を撫でられたものじゃ。あやつはすぐわらわを子供のように扱いたがる。わらわはそんなことで喜ぶような童では無いと言うとるに。じゃが常世へと還れたのは、あやつのおかげじゃ。感謝してもし足りぬ。あのあと、東はどのような生涯を送ったのじゃろうか。それだけが唯一の心残りじゃったか、もはや過ぎ去りし事。信弥とこうして逢えた事が、あやつが生きた証であろう」
信弥は彼女の過去を少しだけ垣間見た気がした。
少し悲しそうにしている姿は儚げで、物思いにふけるように胸の中で動かなくなってしまった。
朱と白の巫女装束に彩られた輝く銀の髪と整った顔立は、どこか神秘的な感じさえする。
そんな咲耶の頭を撫でてあやしながら、しばらく抱いていた。
それにしても、咲耶はずいぶんと東さんがお気に入りのようだ。
目の前にいる俺のことも見てほしい。
そこで彼は気づいてしまう。
そんな事を思う俺は、自分のご先祖様にちょっとばかし嫉妬しているのかもしれないな、と。
たっぷりと撫でてもらえた咲耶は満足したのか、よじよじと立ちあがった。
そして、そもそもの頭をぶつける原因となった退屈について不満を漏らす。
「信弥、いつまで箱を開けて閉めてをくり返せばよいのだ? わらわはもううんざりなのじゃ。もっと他にやることはないのか」
本当にうんざりしているらしく、彼女にしては珍しい投げやりな態度であった。
「ダンボールは仕分け終わったから、必要の無いやつは物置へ運ぼう。咲耶も手伝ってくれるかな?」
「うむ。大船に乗ったつもりで我にまかせるがよいぞ」
「こっち側にあるやつを二階の奥の部屋に持っていくから、この小さい方を持ってもらえるかな」
信弥は衣類が入った軽いダンボールを選んだつもりだったが、咲耶はぷりぷりと怒っている。
「わらわ自らが肉体労働に精を出そうというからに、こーんなちんまりとした物など運べるか。そちらの、どっしりとして重そうなのを、わらわが引き受けようでわないか」
張り切る気持ちも判らなくもないが、その中には親父殿が使っていた分厚い本が隙間なく詰められている。
小柄な彼女では持ち上げることすらできないだろう。
「ふんっ、んぬ~~。――っはあ! はぁはぁ……」
「それは咲耶には難しいよ。ほら、びくともしてないじゃないか」
一㍉たりとて浮いてはいなかった。
咲耶は上下に動かせないとみるや、あろうことか今度は横からダンボールを押しはじめた。
「っぬぅ~~~~」
それでも頑なに動こうとしないダンボール。
履いている足袋が畳の目に沿ってつるつると滑っているのだ。
魔王は見た目通り、ずいぶんと華奢な足腰であった。
使い古されたコントのような様子を、親父殿にも負けないニヤニヤした顔で見ていた信弥。
咲耶はそんな彼と視線を合わせようとはせず、ばつの悪そうに言う。
「久方ぶりの現世ゆえに、このようなことも稀に起こりえるやもしれんな……。しかし! わらわも一度言うたからにはこの務め、見事果たしてみせようぞ」
言い訳がましくのたまう。
今度はその場に仁王立ちになった。
純粋な瞳が、目の前の虚空を映す。
りょう手をゆっくりと、むねのまえで、ひろげて。
いきおいを、ツケテ。――テヲ、ウチナラス。
〈パンッ!〉
その刹那、咲耶とそのまわりの空気が冷たく停まる。
その気配は存在を濃くして信弥に迫る。
残酷な世界が彼に纏わり憑いて離れない。
つま先から始まったソレは、足にへばり付いて舐めるように這いずり上がる。
大事なモノを優しく包み込みように、されど固くほどけぬように、全身を束縛する。
首を絞め上げる勢いで絡みつく粘着質のソレは顔を覆い尽くし、幾重にも彼を呑み込む。
なにもすることができず、肌の上で蟲が蠢きあっているような嫌悪感を耐えるしかなかった。
天地の感覚が無くなっていく。
落ちていく。墜ちていく。
だが上も下もない所に堕ちることはできない。
ここに居る彼の存在がどこか別の場所にオチテいく。
信弥ではない、ココではない、常世に。
急にあたりが明るくなったような気がする。
咲耶の柏手が終わっていた。
帰ってきたのだ。現世に。
信弥はおちていた。
いや、もしかしたら昇っていたのかもしれない。
咲耶の拍手が響いている間、その数瞬。
その音に連れ去られてしまった。
そこで、信弥は気づいてしまった。
魔王が彼を叡覧していた。
微かに歪められた口もとが艶然とした笑みを浮かべ、妖艶で魅惑的なその顔は何よりも美しい。
吸い込まれそうになる。
その顔に。
なにもかもを認め、――許し、――従い、――受け入れ、――差し出し、――。
「東の者よ、この程度で侵食まれるでないぞ」
魔王から紡ぎ出されたような気がしたその声は、頭の中を廻り廻って、やっぱり咲耶から聞こえた気がした。
そう思った信弥は、改めて咲耶を見る。
いつの間にか彼女の顔からは挑発的な微笑は跡形も無くなっていた。
そのかわりに、向日葵のような満点の笑顔を咲かせて信弥を見ている。
今のは何だったのだろう。
そんな彼の疑問をよそに、咲耶は得意げにダンボールを掴んだ。
「よいか? よ~~く、見ておるのじゃぞ」
そう言うと、さっきまで一㍉も動かせなかったダンボールを、片手で摘むように持ち上げたのである。
「ほれ、どうじゃ~~。そ~~れ、それ!」
まるで綿でできたクッションを弄ぶかのように投げたり、突いたり、回したりしている。
先ほどの臨死体験など頭の隅に吹き飛んでしまうほどに信弥は驚愕してしまった。
この時の彼は口をぽかんと開けて、ひどく滑稽な姿を晒していた。
してやったり顔の咲耶だった。
悪いことを思いついたように、にんまりとした顔で信弥を見る。ダンボールを肩に担ぐと、あろうことか振りかぶって信弥に投げつけた。
「わああぁぁ!」
危険を察知した彼の体が己の意思とは関係なく飛び退く。
無様な格好で振り返った信弥の目には、重いはずのダンボールが木の葉のようにふんわりと舞い、壁にちょこんとぶつかると、そのままずるずると下に落ちていく光景が映っていた。
「きゃははははははっ」
信弥は腹を抱えて笑っている咲耶を無視して、そのダンボールに触れてみる。
持ち上げようとするが、手がすっぽ抜けるように跳ねた。
それによってダンボールが宙を舞う。
一瞬だけヒヤリとした信弥は、紙風船を扱うかのように頭上でそれを転がした。
たしかに分厚い本が何冊も入ったままの、先ほど彼女がまったく動かせなかったダンボールだった。
どういう事かと思案していると、ひとしきり笑って顔の緩みが戻っていない咲耶が信弥の肩をちょんちょんと指先でつつく。
「わらわのような者にとって物の重さなど些細なこと。わらわの意志ひとつで、羽のようにも岩のようにもなるのじゃ。この部屋にある箱はすべて軽くしておいたぞ。さぁこれをどこへ持っていくのじゃ」
さすが魔王といったところである。彼はちょっとだけ彼女を尊敬してしまった。
信弥と咲耶は中身の詰まったダンボールを高く積み重ねる。
そのまま無造作に持ちあげ、悠々と二階へ運んでいった。
美弥はその様子を最初こそ驚いた表情で見ていたが、二往復目には「咲耶さんはお手伝いして偉いです」などと褒める程に順応していた。
その言葉に、咲耶は背よりも高く積んだダンボールを押さえていた顔をてれ笑いさせて答えていた。