二十一、宇迦之御魂
人探しを手伝ってもらおうと思ったら、まさかこんな所に
しとりしとりと雨が降る。
裏山の原生林は大喜びだろう。
雨は叩くように葉を打ち鳴らした後、水面を跳ねて柔らかい音を奏でる。
屋根に落ちた水滴はより高い音を響かせて、音色に彩りを添えた。
したたる雫の重さでシダが踊り、風にざわつく木々がそれらをはやし立てる。
それぞれが異なった演奏をしていても、自然というテーマの中で統一感ができあがっていた。
そんな贅沢なオーケストラの演奏をバックに放課後、ボランティア部は活動が無い日でもなんとなく集まっている。
粗末な所ではあるが、自分たちの部屋というのは居心地がいいものであった。
だが稀に虫が出たりする。
こればっかりは立地的にどうしようもない。
這いずる黒い甲虫の存在を初めに気づいた詩織は、椅子の上から飛び跳ねながら「キャッ」と短い悲鳴をあげた。
恐れをどこかに置き忘れた我らが魔王はそれを素手で鷲づかみにしようとするので、あわや信弥が止めようとするが、時既に遅し。
むんずと掴んで、窓から外にペッと放り投げてしまった。
さすが魔王とでも言うべきか。
虫くらいおちゃのこさいさいだった。
その日、詩織が咲耶を襲うことはなかった。
今日の信弥はピコピコと携帯ゲームに興じており、咲耶は彼の腕に横からしがみついて、画面を食い入るようにのぞきこんでいた。
詩織と美弥は勉強をしている。
上級生の詩織は美弥に勉強を教えてあげることもあった。
遥香は黙して難しそうな本を読んでいた。
〈コンコン〉
そこに、部室の扉がノックされた。
信弥はビクリとその扉を見た。
わざわざこんな所まで来る人がいるなんて思ってもみなかった。
しかも、今は雨まで降っている。
よほどの用事があるのだろうが。
ボランティア部の面々はそれぞれ顔を見合わせる。
どうやら誰も心当たりがない様子だ。
扉にはめこまれたすりガラスの向こうには大きな赤いシルエットが見えている。
渡り廊下のトタン屋根は無情にもこのプレハブ小屋まで続いてはいないので、おそらく傘を持っているのだろ。
〈コンコン〉
まごついているうちに、もう一度、慎ましやかに扉が叩かれた。
扉に一番近かった信弥に視線が集まる。
仕方がないので、彼は言う。
「はいはい、ちょっと待ってくださいね」
信弥は持っていたゲーム機を机の上において、咲耶を伴って扉を開ける。
濡れている扉はいつもとは違う音を鳴らした。
むわっと湿っぽい空気の中にたたずんでいるのは、本日も峰麗しい秦宮真理子先生だった。
先生はやっぱり赤い大きな傘を持っていたが、それがなんというか、鮮やかな朱一色の和紙が放射線状に広がる細い竹の骨組みに貼られている、時代劇に出てきそうな和傘であった。
紅い傘をさした先生は教職員らしい落ち着いた紺色のスーツを着て、愛想よくにっこりとしている。
咲耶は信弥の陰に隠れるようにしながら、そんな彼女をしきりに警戒していた。
「やあ、差し入れを持って来たんだ」
そう言う先生の手には深緑色で唐草模様の、いかにもな感じの風呂敷があった。
それを信弥に手渡して、和傘を手に持っていた方を下にした状態でていねいに外壁へと立てかけてから、部室の中に入ってきた。
「お姉ちゃん?」
「なんだい? 詩織」
「ううん、なんでもない……」
詩織は姉の突然の訪問に声をかけてみるものの、どこか流されたように感じた。
「先生、これ開けてみてもいいですか?」
「うん、そうしてくれ」
信弥がわずかに傾いた机で風呂敷を広げると、甘辛いタレと酢飯の匂いが広がる。
白いお皿の上にはいなり寿司がこんもりとしていた。
「それ、すっごくおいしいから、お裾分〈すそわ〉けしようと思って」
変だと思う。
信弥はそう感じた。
例えるなら、カロリーゼロのサイ〇ーを普通のサイ〇ーと偽って飲まされた感じだ。
詩織は〇イダーは飲まないが、変だとは感じているだろう。
姉と似ている端整な顔の眉間にはシワが刻まれていた。
「ありがとうございます、秦宮先生。すっごくおいしそうですね。……頂いてもよろしいですか?」
美弥が当たり障りのない感じで取り繕〈つくろ〉った。
「あぁもちろんだよ。そのために持ってきたんだ。かつおの風味がよく効いて、なかなか絶品なんだ。いなり寿司は冷めてからが美味しい――」
疑念が渦巻く空気の中、秦宮先生がいなり寿司について熱く語ろうとした矢先のことだった。
〈どばぁん〉
秦宮先生がつものようにドアを蹴り開けて入ってきた。
彼女は雨の日ならどこでも売ってそうな透明なビニール傘をさしていた。
狭い部室の中には七人いる。
信弥、咲耶、美弥、遥香、詩織。紅い傘といなり寿司を持ってきた先に来ていた秦宮先生と、ビニール傘をさして後から来た秦宮先生。
これは夢か現か幻か。
秦宮先生が二人いる!
信弥は驚きのあまり言葉を発することができず、部屋の奥へとあとずさる。
その陰にいた咲耶も引きずられるようにずるずると後退させられた。
詩織と美弥はまさしく狐につままれたような顔をしており、遥香も読んでいた本をパタンと閉じた。
先に来ていた秦宮先生はいなり寿司を解説するためにピンと立てた人差し指をそのままにして、蝋人形のように固まっている。
後から来た秦宮先生は動かずにいる不審な先客を確認するために、先に来ていた秦宮先生の隣まで歩み寄った。
そして、自分と同じ顔で、同じ背格好で、同じ服装をした自分自身を確認したのだった。
信号機の黄色くらいの時間が過ぎた頃、詩織が叫んだ。
「お、お姉ちゃん!?」
「だから、学校では先生と……。そんなことよりも」
後から来た秦宮先生の言う通り、呼び名など今はどうでもよかった
。大事なのは「なぜ秦宮先生が二人いるか」だ。
信弥は心の底から驚いたものの、後から来た秦宮先生のやけに落ち着いた態度を見て、できるだけ冷静にいるように心がけた。
「まったく、どこへ行かれたかと思えば……」
呆れているが強くも出れない。
後から来た秦宮先生は普段の彼女からは想像できない控えめな声で、先に来ていた秦宮先生を非難した。
先に来ていた秦宮先生は観念したかのようにペロっと舌先を出した。
そして、
「ドロン!」
古臭い効果音を自ら口にすると、どこからともなく透過性の悪い白っぽい煙がもっくもっくと湧いてくる。
うさんくさい掛け声ではあるが、目の前で不思議なことが起こっているのは確かだった。
先に来ていた秦宮先生の体が怪しげな煙に覆われていく。
ほどなくして全身がすっぽりと包みこまれてしまった。
それと同時に、手の平を返したように煙は綺麗さっぱり晴れていく。
そこに立っていたのは先に来ていた秦宮先生ではなく、黒袖留をまとった妙齢の女性だった。
黒い和服の生地には菖蒲〈あやめ〉を咲かせて、金色の帯が締められていた。
頭には明るい茶色の髪と同じ色をした三角形の耳がついており、ふわふわしてそうな尻尾が一本おしりから垂れ下がっていた。
まぶたを開き現れた瞳は澄みきったスカイブルーの色で、その中にある瞳孔は縦長だった。
そこまでは別にいい。
魔王と生活を共にしている信弥の許容範囲は広い。
彼女の耳や尻尾なんてかわいいもんだ。
むしろもふもふしてみたいくらいだった。
ドロンとなったときから、いいや。秦宮先生が二人になった時点で、大方の予想は付いていた。
きっとこれは魔物がらみなのだろうと。
今現在、信弥が心を乱している最大の理由は狐のような耳と尻尾ではなく、彼女の服装にあった。
和服に押させえつけられている零れんばかりの胸の谷間がいろいろきわどい感じで露出している。
ついでというにはあまりにも魅力的な細い鎖骨とそれにつながる丸みをおびた肩も見えてしまっていた。
ダメ押しに、右足を腰の横から下駄を履いた足まで健康的な流れるラインを惜しみなく見せ付けているのだった。
和服の下には下着をつけない主義なのだろうか。
あってしかるべき最終防衛ラインの布切れを確認することが出来ない。両手を腰に当てて堂々としているので、これが普段の彼女の姿なのだろう。
秦宮先生とは一味違った、可愛らしさが残る美人のあられもない姿を前に、信弥は目のやり場に困っていた。
「私は稲荷神宇迦之御魂。その昔、京にこの人ありとまで言われた大商人の宇迦〈うか〉といえば、私のことさね。あと、ついでに魔王なんてやってたりもするかな。あああぁ、でもそんなことは気にしないで、君たちも親しみをこめて、『宇迦』って呼んでほしいな」
宇迦はときおり耳をぴょこぴょこさせながら、人当たりのよさそうな営業スマイルを浮かべて言った。
四人はあっけに取られていた。
咲耶だけはこそこそと部室の奥にいる美弥の背後に回っていた。
「ちょっと目を放した隙に居なくなってしまうのですから。こういうことは今後できるだけ控えてくださいよ」
「実際に狐に化かされる貴重な体験を、彼らにさせてあげようと思って」
そうは言っても、ニカニカと笑ってごまかしている宇迦さんが演じる秦宮先生はちょっとどころではない違和感があった。
それは宇迦さんが普段の秦宮先生を知らないという事なんだろうか?
信弥は余計な疑問は呑み込むことにして、別の質問をする。
「見た目から察するに、宇迦さんは妖狐だとか九尾といった感じだったりしますか?」
「そうだねー。今までそんな風に云われてきたのは確かだね」
「お稲荷様といえば京の伏御大社が有名ですよね?」
「美弥ちゃんはよく知っているじゃないか。私も有名になったもんだね。今日は咲耶に会いに……、と言いたいところだけど、ちょっとワケありでね」
宇迦は隅っこでできるだけ目立たぬようにしているいたいけな魔王を気にしてから、身の上話を始めた。
昔より京を拠点にして商いを営んでいた宇迦は数十年前、その商社の経営を人間に任せて、常世へと還ることになった。
暇になった身をもてあました彼女がぶらり東の地へと寄った際に、世話になったのが秦宮姉妹の両親が営む神社だった。
その時幼い頃の秦宮先生と宇迦さんは会っているそうなので、これは二十年くらい前の話なのだろう。
いや、十五年位前にしておこう。
そしてひと月前。
宇迦は再び現世〈うつしよ〉にやって来た。
名前も役員も変わっていたが当時の商社は健在で、宇迦はあれよあれよという間にトップとして祭り上げられた。
数日を置いて商社は申し合わせたかのように倒産。
わけの分らぬまま、宇迦は全責任とたいそうな額の負債を押し付けられてしまった。
彼女が後に調べた結果、どうも倒産は計画的なものだったことが判明した。
要するに、宇迦は嵌〈は〉められたらしい。
そういうことがあって、強面〈こわもて〉の借金取りから着の身着のまま夜逃げ同然でここまで逃げて来たというわけだ。
そんな大事件を宇迦は笑い話でもするかのように面白おかしく、「神を欺くとは、まさに神をも恐れぬ所業」などと冗談を交えながら話していた。
人の業とは深いものであると、信弥は話を聞きながら思った。
だが宇迦はやはり神様であった。
逃亡生活をしながらも、少しずつお金を稼いでいるので、すぐにとはいかないが返済は時間の問題との事らしい。
自称大商人は伊達〈だて〉ではなかった。
「なんかつまらない話をしちゃったね。さあさあ、いなり寿司でも食べてよ」
ボランティア部の面々は少ししんみりとしてしまったが、陽気な宇迦に誘われて、各々《おのおの》いなり寿司をつまんで食べる。
「ところで、醤油なんてあったりしますか?」
駅前のファーストフードもマーガリンもカップラーメンも大好きな信弥が何気なく聞いた一言は、稲荷神の琴線に触れてしまった。
宇迦は静かな怒りをその細腕に込めて、覆いかぶさるように信弥に襲い掛かった。
「ちょっと! ああ、うわああぁ!」
信弥の頭をがっちりと小脇に抱えて締め上げる。
「ああぁぁ痛っ! やっぱり痛くないけどなんか柔らかいものが、いややっぱり痛い痛い痛い! 宇迦さんほんとに痛い!」
柔らかいものが押し付けられているのは事実だが、帯に入った固い物が当たっているのもまた事実であった。
「信弥とかいったね。あんた、この私の目の前で、いなり寿司に醤油を付けようとは、いい度胸じゃないか。寿司屋の大将が許しても、私は許さないよ!」
ここにいる全員が同意見だった。
なので、だれも彼を助けようとしない。
ぐいぐいと締め上げられる信弥はふゆんとした天国とゴリゴリという地獄を同時に味わせてもらっていた。
宇迦は嬉しそうに苦しんでいる信弥をこっそりとうかがう咲耶を見つけた。
「どうしても使いたいと言うなら、たまり醤油と鮫肌ですりおろした生わさびを使うのであれば、認めてやらんこともない!」
妙なこだわりで苦渋の決断をして、宇迦はようやく信弥を開放したのだった。
「そういえば、咲耶とはあの続きがまだだったね。突然いなくなるから、何があったのかと心配しちゃったよ」
瞳孔を絞って尻尾を盛んに動かした宇迦は隠れる咲耶に向かって言った。
「続きって、なんですか?」
信弥はズキズキする頬を押さえながら言った。
振りかえる宇迦の胸はプリンを揺らしたかのようだった。
彼はそのスイーツに包まれていた感触を思い出してしまって、顔が少し赤くなった。
右で手刀を構えて、左手で頭を抑えた宇迦は低い声で言う。
「じゃんけんで勝ったほうが叩いて、負けたほうがそれを防ぐゲーム」
「なぜそんなことを……」
今日一番の、心からの笑顔を浮かべた宇迦は、
「だってかわいいんだもん。ついついいじめたくなっちゃうっ」
咲耶が残念な性格になってしまった原因である人物がここに一人。