二十、プロローグ2
プロフィールはよくない
草木も眠る丑三つ刻だというのに、人の現世は眠らない。
煌々とした光が遥か地平その先まで続き、無数にそびえる光の柱が大地を睥睨する。
その地は固いアスファルトに覆われ、空すらも鋼鉄の怪鳥が重低音を轟かせて飛翔していた。
朧月夜の摩天楼の一角。
鉄とコンクリートで出来た楼閣の頂にたたずむ人影があった。
何をするわけでもなく、ただ足元に広がる下界を眺めていた。
縦に細めた瞳孔は、移り変わってゆくこの現世を、どのように映しているのだろうか。
彼女が着ている黒留袖は、足元から伸びるように袖まで届く華やかな菖蒲が散りばめられており、黒とよく合う金色をあしらった丸帯が、のし結びで締められていた。
留袖の下に着る襦袢は身に着けておらず、着物だけを大胆に着崩している。
その証拠に、淡く白い月光を反射する曇り一つ無い素肌を、両肩から豊満な谷間にかけて堂々と晒しており、また、右の腰から下駄を履いた足先まで、チャイナドレスのように片足を露出させていた。
黒に咲く菖蒲のように、闇に浮かぶその顔は、意匠の着物と引きを取らぬ程に美しい。
艶やかな姿にも関わらず、少しも損なわれない気品と狡猾さがにじみでていた。
明るい茶色の髪を簪でまとめあげた頭には、その髪と同じ色でふさふさしている三角形の耳がある。
おしりからも、それらと同じ色をしているが、先端は白くなっているふわふわとした複数の尻尾があった。
着物と帯の間には、えらく年季の入った枠に収められている天二珠・地五珠が九つの芯に連なっていた。
彼女にとって、命の次に大事な相棒である。
それを指先でそっとひと撫ですると、月にかかる霞のように、その姿を光と闇に溶け込ませる。
あいまいになっていく両者の境界線の跡には、青白い燐光が漂っていた。
今年の桜も短いその役目を終えて、春の風物詩を地面へと落としきった。
誰もが心奪われる花びらも、散ってしまえばただのゴミ。そ
こらかしこに大量の花びらが散らばるのである。
そして、学園の屋上の床にも例外ではない。
天高く舞い、あれほど綺麗だった桜花が黒ずんで隅にたまっていた。
普段立ち入り禁止なこの場所ではあるが、もちろん定期的に掃除がなされていた。
では誰が?
こんなメンドクサイことをするのは、彼らである。
「のぉ信弥、これが、ぼらんてぃあ、なのじゃな!」
活力をみなぎらせた目をして、長い銀の髪と短いスカートをふりふりさせながら竹箒をふりまわす魔王こと天白羽神玖珂院咲耶之姫。
通称、咲耶。
ぼらんてぃあで世界征服をめざす彼女は、この初めてのぼらんてぃあに、なみなみならぬ熱意を燃やしていた。
箒を床にこすりつけながら、屋上を縦横無尽に駆けまわっている。
彼女のおおざっぱな掃き方も、ことこのような荒事においてはその力を遺憾なく発揮している、かのように思える。
「ああ、そうだよ。これが、ぼらんてぃあ♪ さ……」
その魔王の封印を解いてしまった? 彼は東條信弥。
きびきびと動きまわる咲耶とは対照的に、肩をだらんと落として腕だけを動かし掃除している、というよりも遊んでいる。
実にやる気の無い態度で竹箒を使い、桜の花びらを引っかいている彼だが、それもそのはず。
今日は日曜日なのである。
いつもならばあったかいお布団の中に入っている頃なのだ。
この季節の二度寝は最高に気持ちがいいのに、それなのに、朝もはよから休日に登校して、掃除である。
低くどんよりとした灰色の空は、彼の心の内を現していた。
「もう兄さん、しっかりやってください」
だらしない信弥をそう嗜めるのは、彼の妹である美弥だ。
信弥と同じ環境で同じ物を食べて育ってきているはずだが、嫌な顔を一つせず、それどころか温和な微笑で片ヒザをつき、咲耶の集めた花びらを大きな金属製のちりとりで受けていた。
集めた花びらその他を大きなゴミ袋へ入れると、葉っぱ一枚すらも逃がさまいと奔走する咲耶のうしろを再びついてまわる。
「……」
そんな様子を横目で見ながら信弥と同じような感じに怠けているのは、これでも彼らをまとめるぼらんてぃあぶ♪ 部長である橘遥香だ。
本来ならばこまかく揺れなくてはいけないポニーテールだが、どちらかというと竹箒のほうが左右に動いてる彼女もまた、ため息を吐きながらだらだらと遠回りに掃除する。
きりりとしている眉は、心なしかわずかばかり下がっているように思えた。
「遥香も信弥君も、まじめにやりなさいよね。明日雨が振るんだから、今日のうちに掃除しとかないとべちゃべちゃになった屋上を掃除することになるのよ」
やる気の無い二人にそう息巻いているのは、信弥のクラスで委員長をやっている秦宮詩織だ。
ぷんすこと怒ってはいらっしゃるが、手はしっかりと動いているところが、速度違反の車を法定速度を守って捕まえてしまうような、彼女のすごいところなのかもしれない。
この屋上の掃除は、ぼらんてぃあぶ♪ 顧問であり、英語の教師であり、二年学年副主任でもあり、詩織の姉でもある、秦宮真理子先生がわざわざ進んで取ってきた仕事だった。
そのことを知った詩織はとたんにやる気になって、この張り切りようである。
ほとんどを詩織が集め、点々と散らばっているものを咲耶が引っかきまわし、それを美弥が綺麗に攫っていくことによって、この屋上は元の落ち着いた感じを取り戻していった。
「そろそろじゃないか? 綺麗になったんじゃないか?」
信弥がこんな台詞を言うのは五回目だ。
「まあ、そうね。これくらいやれば十分かしら」
呆れたように言う詩織だったが、決して根負けしたわけではない。
皆で大きなゴミ袋を四つ膨らませた結果に満足したからであった。
ようやく終了とのお達しが出たので、信弥はガランとした屋上に唯一ある木製のベンチに退散する。
そこには、既に持っていた箒をフェンスへと立てかけた遥香が座っていた。
お互いの顔を見合わせた二人は同時にため息をつく。
「さすがぼらんてぃあだぜ。こんなにも手ごわいなんて」
「同感……。あなたたちが入るまでは先生と二人でやっていたのだから、私を誉めてくれてもいいのよ」
「そいつはすごいな……。そんけーするよ」
信弥は口を開きっぱなしにしたまま頭上を仰ぎ見て、遥香は下を向いてうなだれた。
箒を肩に担ぎ、何かをやりきった感じですがすがしい咲耶が大股で歩いてくる。
担いだ箒からは花びらがまばらに落ちるており、美弥はそれをせっせと集めていた。
「しんやぁ、どうじゃ。この屋上は、わらわの偉大なる征服の贄となったのじゃ」
「あら、咲耶ちゃんそれはどういうことなの?」
ゴミ袋をまとめ終わった詩織が割って入った。
咲耶は彼女に心底うとましそうな目を向けた。
「そなたには関係の無いことなのじゃ。ぷいっ」
咲耶は二人が立てかけたものに並べるように自らの箒を横に置いた。
そっけない態度など気にもとめずに、詩織は咲耶に向かって果敢なアタックを続ける。
咲耶は動くことができずに困っている美弥を軸に、背後から迫る詩織から逃げるようにぐるぐると追いかけっこをしだした。
咲耶は短い足をせわしなく動かして逃げ回っているが、詩織はそれを楽しんでいるかのように追い立てる。
こうなってしまうと毎回ろくな結果にならないことを、咲耶は身をもって経験していた。
そして、詩織が急に逆回転すると、
「ぎゅっは!」
咲耶は詩織の懐にまんまと飛びこんだ。
「もうそのくらいにしてやれよ。咲耶も掃除がんばってったんだから」
「信弥君はぜんぜんやってなかったでしょ。ねー咲耶ちゃん」
痛いところをつかれた信弥はおとなしく引きさがった。
捕縛した咲耶を抱え込んだ詩織は信弥の隣に陣取る。
「やめよ、よさぬか。われを弄ぶでな――」
詩織はじたばたする咲耶の口を手でふさいだ。
同時に、その手に隠し持っていたものを彼女の口へねじ込む。
「んんむううぅ! な、なんじゃこれはっ」
「アメちゃんよ、どう? おいしいでしょ」
「――ほう、これは、なかなか……」
咲耶はあの手この手を使って丸めこむ詩織にいじくり倒されているのも忘れて、口の中をコロコロするのに夢中だ。
チャンスとばりに、詩織は自らの黒髪の毛先で咲耶のほっぺをつんつんしている。
そんな屋上に、全ての作業が終わったのを見計らったとしか思えないタイミングで、今朝になって緊急招集をかけた張本人である秦宮先生が現れた。
「やあみんな、ご苦労ご苦労」
先生はすっかり綺麗になった屋上にたいへんご満足した様子だった。
「ええ、本当に疲れましたよ……。だいたい前もって連絡くらいしてほしいですよ」
信弥が恨み言をぼやいた。
「そんなこと言っちゃってもいいのかなー。せっかくさしいれをもってきてやったというのに」
そう言って掲げた手には、缶ジュースが入った白いビニール袋。
「いえいえ、滅相もございませんよ」
先生はゴマすりする信弥の隣に缶をひとつずつベンチに並べていく。
信弥はもちろんアレを我先に掴みとった。
「咲耶ちゃんはなにがいい?」
「これはなんじゃ?」
詩織は自らはりんご味を、咲耶には無難な感じでオレンジジュースを選んであげた。
遥香は紅茶を持っていき、美弥は余ったカルピスを手に取った。
先生は袋の中に残っていた茶色の、見るだけでハツラツしそうなビンを取りだすと、喉を鳴らして呷った
。一番疲れているのはこの人かもしれない。
「いい? 咲耶ちゃん。これはね、こう、やるのよっ」
詩織は咲耶に見せるようにプルタブに爪をひっかけて、上に引っ張り、指をかけて、
〈プシュ〉
潤いを凝縮して、一気に弾けさせたような快感が、咲耶の好奇心をガンガン刺激した。
「ぉぉぉおおお!」
「はいこれ咲耶ちゃんの。そうそう、そこに指をかけてね」
咲耶はオレンジの缶に指をかけ、
〈プシュ〉
「おおおぉぉぉ!」
咲耶のアタマのネジも一緒に弾け飛んだ。
「どれ咲耶、俺の缶も開けてみるか?」
信弥はそんな咲耶が面白くて、自らの権利を好意でゆずった。
「よいのか! うむ、我に任せるのじゃ!」
咲耶は自分の缶を詩織に手渡して、信弥の缶をひったくるように奪い取った。
顔前でプルタブに指をかけたまま、縛り上げられた獲物を囲んで踊り狂う未開人のようなテンションでもって焦らす。
「ゆくぞ? ゆくぞ! よいのか? ゆくぞ?」
「いいからはやく開けろって」
未開人のうちの一人が前に進み出て、ウッホウッホ言いながら獲物に槍を突き立てるかのように、咲耶はその指にありったけの力を込めた。
〈プシャヤァァァァアア!〉
適度に振られた〇イダーの缶は、泡を勢いよく噴出させて咲耶に襲い掛かる。
「ぎゃあぁぁ、――んっ!」
咲耶は悲鳴と一緒にアメ玉まで飲み込んでしまう。
そんなことよりも、糖分を多く含んだ水が、驚きと悲しみで歪む顔に滴っている。
詩織はちゃっかり被害を免れていた。
「うえええぇぇん。みやぁぁ……」
べちゃべちゃな上にべとべとしてしまった咲耶は本能的に平穏を求めて美弥の元へ。
「可愛そうな咲耶さん。一緒にお顔を拭きに行きましょうか」
美弥は白く清潔そうなハンカチを咲耶に渡し、彼女の手を引いて下の階の水道へと向かった。
「信弥君ちょっとひどいんじゃない? 私の咲耶ちゃんをあんなにして。おまけに私まで危なかったわよ」
「決してわざとってワケじゃないぞ……」
信弥は非難の目を向ける詩織の視線を横を向いてやり過ごそうとしている。
「ところでだ、この屋上の掃除を無理にねじ込んだのは理由があってだな。さしあたっては、あんた達のためなんだよ」
「どういうことですか?」
栄養ドリンクを飲み終えた先生の急な話題振りに、信弥は渡りに船とばかりにのっかった。
「いつまでもあのプレハブ小屋にいるわけにはいくまい。だいたいあそこにはクーラーも無いんだよ」
言われてみればその通りである。
夏になってしまえば、あの付近一帯は魔界に引きずり込まれてしまうだろう。
少し大袈裟かもしれないが、先生が言いたいことはつまりそういうことだった。
「今日の屋上掃除だって、あたしが職員会議で大々的に宣伝してあげたのだから、感謝してほしいくらいさ。それに、立ち入り禁止の屋上に入れたのは、いい経験になったんじゃないか?」
「たしかに、ここから見た桜は新鮮だったし」
「あれ、東條は屋上に来るのは初めてじゃないのか?」
「ええ、そうですね。以前に詩織と来たことがありますけど……」
先生は隣に座っている、あの時なぜだか鍵を持っていた彼女をギョロリと見た。
「あんた、また屋上の鍵を勝手に持ちだしたのかい?」
「ご、ごめんなさいお姉ちゃん」
「学校では『先生』と言えといつも言っているだろう。どれ、ちょっとお仕置きが必要みたいだね」
「え……、あ、いやっ」
今度は詩織がベンチのまわりを逃げ、先生が追う。
「そ、そいういえば、信弥君もお姉ちゃんのこと、サキュバスなんて、言ってたよ!」
苦し紛れの詩織は怒りの矛先をすこしでも逸らそうと、笑いながら見物していた信弥を差し出した。
いたちごっこをやめた先生はちょうど信弥がいる正面にいたので、猛禽類のような目つきでもって彼を見下ろした。
ガァルルルウゥゥとでも聞こえてきそうなその眼力に、信弥はすっかり萎縮してしまった。
恨めしそうな目を詩織に向けると、彼女はざまぁみろとでも言うかのように口の端を吊り上げた。
ちょ、こいつ……。
信弥の背中には冷や汗が伝う。
「なにわけの分らないこと言ってるんだい。言い訳した分まで、後できっちりとしごいてあげるからね」
先生は信弥にとって実に公平な判決を下して、詩織を青い顔にさせた。
「しかし、咲耶様の、あの世界征服ってのはマジだったんだね。あたしゃーびっくりしたよ」
信弥は屋上の扉の裏で会話を盗み聞きしていたとしか思えない趣旨の発言に気づくが、その事は先程のナイスジャッジにより帳消しにすることにした。
「あんなことを言い出したのは先生のせいじゃないですか?」
「さぁ、どうだったかな……」
とぼける先生であった。
初めてのボランティアはこんな感じで終わった。