二、出会い
美弥が垣間見たものとはなんだったのだろう
午前中のイベントである春の式典が終わった。
生徒にとっては眠たくなる校長の話を聞くか、眠たくなる授業を受けるか。
どちらにしても、本日はこれで下校となる。
騒がしい昇降口には、着慣れない学ランやブレザーを身に付けちょっとぎこちなくしてる新入生たちが、早速出来た友人とたむろしている。
信弥はそんな彼等を上手に避けて、慣れた手つきで靴を履き替える。
一年前のこの光景は懐かしくもあると同時に、ずいぶん迷惑だった去年の自分に反省した。
だからという訳ではないのだが、皆が向かう正門ではなく、校舎の裏山側へと向かっている。
そこには太い幹を大地に根付かせた大桜がある。
競い合うように天へと伸びた枝が放物線を描き、無数の小枝の先から空を覆い尽くすように淡紅色の花弁が溢れだしている。
桜の大樹は風に枝葉を揺らし、あたり一面に花びらを散りばめていた。
花びらが舞い散る中、信弥は手近なベンチへと腰掛ける。
大きく広がった見事な枝が、桜の花をいくらでも咲かせていた。
咲き乱れる桜を鑑賞するような雅な趣味でも、見ず知らずの女の子から手紙で呼びだされる程もてる男でもない信弥。
だがそこへ女の子が一人、この場に向かって駆けてくる。
本日よりこの東武学園に入学した、信弥の妹である東條美弥だ。
忙しい親の変わりに家事を一手に引き受け、毎日おいしい料理を作っている。
信弥がなかなか起きてこない朝には、寝ている彼の耳元で「兄さん、起きてください」と甘く囁く。
おしとやかで、いつも優しい微笑を浮かべている。
その微笑には達観したような、全てを認める包容力があった。
落ち着いた彼女の性格もあってか、しばしば大和撫子などと揶揄されている。
どこまでいっても優しすぎる彼女には、結局優しさしかなかった。
そんな彼女ではあるが、怒らせてしまうとかなり怖い。
とくに食事が露骨に変化するので、ある種の『妹ご機嫌メーター』となっていた。
近頃の兄を毛嫌いする妹とはまるで別種の生物なのだ。
華奢な体ではあるがとてもよく発育した胸をもち、触れれば溶けてしまいそうなほど綺麗な顔を持つ彼女だったので、言い寄る男が後をたたない。
そんな男どもを美弥はいつのも柔らかい笑みのまま、一刀両断にしてきた。
だとしても、信弥は学校が離ればなれになったこの一年、気が気ではなかった。
頭良し、顔良し、性格良し、妹度良しの、『よく出来た妹』なのだ。
信弥はそんな妹をベンチから立ち上がって出迎えた。
兄に待たせてはならないと急いでやって来た美弥。
膝に手をついて、長く艶やかな二つ縛りの髪を上下に動かしながら息を整えている。
「に、兄さん……、遅れて……、ごめんなさいっ」
白い肌を肩に舞散る桜と同じうすいピンク色に頬を上気させながら、申し訳なさそうに言う。
「そんなに急がなくてもよかったのに」
信弥が肩についた花びらを指先で払ってやると、美弥は片手を赤くなった頬に当てて照れくさそうにしている。
「だ、だって、せっかく兄さんが学校を案内してくれるのです。でも、ここに来るときに少し迷ってしまって……」
「やっぱり昇降口あたりで待ち合わせたほうが良かったんじゃないか」
「いいんです。こういうのもデートの待ち合わせみたいで新鮮でしたよ。……それで、これが桜の大樹ですね。すっごく素敵です」
信弥は彼女につられて視線を移す。
咲き乱れる桜花と青空のコントラストが眩しい。
風に舞い踊る花びらが、ここではない違う世界へと誘っているかのようだった。
「くしゅん」
美弥が控えめでかわいらしいくしゃみをした。
初春の冷たい空気が、美弥の汗と一緒に体温も風に乗せていったのだろう。
「美弥、大丈夫?」
「大丈夫ですよ兄さん。でも久しぶりに撫でてほしいです。いい、ですよね……?」
よく出来た妹は、時々こうして兄に甘えるのだ。
こんな風におねだりされて断ることが出来る兄はいないだろう。
もし居るならば、そいつには兄の兄たる資格など無い。
シスコン気味の信弥は、もちろん兄の資格を持っている。
周囲に人気は無いが、いつもは人で溢れている場所で妹の頭を撫でるというのは少し気恥ずかしい信弥であった。
だがこれも兄としての勤めなのである。
はにかみながら妹の頭に手を伸ばした。
「よしよし、なでなで」
美弥は頭を撫でられると、気持ちよさそうに目を細めて「ふにゃ~」と猫みたいな声を出してされるがままだ。
ご満悦の美弥だったが、薄紅色だった顔が心なしか青く変わっていく。
妹らしからぬ驚いた顔で怯えているようだ。
「どうした? なにがあったんだ」
「――ぁぁ……」
かすかな声を残して卒倒した美弥。
信弥はその体をあわてて抱きかかえた。
「美弥、美弥!」
「に、兄さん……」
ふらついている腕を信弥の背後の桜に向けて、力なくうなだれてしまった。
その示す先に何があるというのか。
信弥はおそるおそる慎重に、美弥が示していた背後を振り向く。
吹き抜ける桜に舞う銀の軌跡――長い銀髪を風になびかせていた少女が、そこには居た。
派手すぎない装飾を施した白衣と、胸元に見える朱い掛襟。
同じ朱色の足元まである緋袴。
そこからちょこんと飛び出た白い足袋。
いわゆる巫女服だ。
しかもただの巫女服ではない。
素人目から見ても、コスプレや神社で見るバイトの巫女さんの着ている物よりずいぶんと高級品であろう。
だがせっかくの衣装もあちこちすすけたり、ほつれている。
なによりその銀髪少女は頭を抱えて丸くなりながら、小柄な体をまるで生まれたての子鹿の様にプルプルとさせている。
すごく残念な感じの姿ではあるが、どことなく愛らしと思えてしまう。
そう思わせてしまう不思議な何かが、その少女にはあるのかもしれない。
信弥は突如現れた挙動不審な少女に話しかけてみる。
「あの……」
ピクリと、少女は肩だけ動かして反応した。
片方の瞳だけを使い、おっかなびっくり上目遣いに様子を伺う。
かわいい……。すっごく守ってあげたくなる。と、思う信弥の心の中では革命が起こっていた。
「わが辞書に不可能の文字は無い」とページ抜けの落丁辞書を堂々と自慢している彼がアルプス山脈を越え、オーストリア軍を奇襲して、負けてしまう。
そこは負けちゃダメだろ!
と、突っ込みたくなるほど彼の歩んできた歴史という価値観を根底から覆す大事件だったのだ。
「萌えとは、保護欲と支配欲との葛藤からくるものだ」と、昔の偉い人は言っている。
今、信弥が感じているその感覚が、萌えというやつなのだろう。
信弥はそんな少女と一瞬チラリと目が合う。
「ヒッ」
少女は短い悲鳴をあげて、先程よりますます怯えたように顔を伏せてしまった。
頭から背中にかけて、何にも染まらない輝く銀の髪が桜の花びらを浮かべて流れている。
そこに添えられる幼い手。
美少女という言葉はよくあるが、美幼女というのはなかなか聞かない。
おそらく幼女はもれなく可愛いからだろう。
そして、少女の小さくてやわらかい丸みを帯びた顔。
それは美幼女とも言うべき類まれなる人類の宝だと形容しても、万人が認めさるを得ないほどに完成された美幼女だった。
再びゆっくりと、腕の隙間から顔をだした幼女。
不意に信弥を見つめ返した。
大きくて純真無垢な瞳。
それは幼い子とは思えない、全てを見通してきた、色即是空を顕す眼であった。
「…………そ、そなたらは、その……、東の者であろう」
搾り出すようにして出された声。
風にかき消されそうな程小さいものだったが、流れる清流よりも澄んだその声は、信弥にしっかりと届いていた。
「俺の名前は東條信弥。こっちは妹の美弥。……きみは?」
小さな少女はゆったりと立ち上がると、とてとてと信弥に近づく。
腰まわりにしがみつき、顔を制服にうずめて味わうようにぐりぐりとしている。
「やっぱり東の者じゃな。会いたかったぞ。よくぞ我を助けてくれたのじゃ」
震えていた割にはなかなか偉そうな言葉使いだった。
先程までこわばっていた顔はあどけない笑みへと変わっていた。
やはりこの子には笑顔が似合う。と、信弥は思った。
ぼろぼろな簪もよく見ると精巧な造りをしており、さらさらな銀髪から薫る甘いお香が信弥の鼻をくすぐっていた。
「……に、兄さん」
揺さぶられているうちに腕の中の美弥が意識を取り戻したようだ。
美弥は信弥の肩に掴まり、おぼつかない足取りながらも立ち上がった。
そして、まだ彼の制服を引っぱっている少女の目線にあわせて中腰になり、優しく語りかける。
「こんにちは。私は東條美弥といいます。よろしくおねがいします。あなたのお名前を教えていただけませんか」
その問いかけに制服から手を離した少女は、胸を反らして腰に手を当てて、どうだと言わんばかりの態度でのたまう。
「東の妹じゃな。うむ、わらわは遥か昔この地を統べた魔王が一人、天白羽神玖珂院咲耶之姫じゃ。『咲耶』と呼んでよいぞ」
兄妹がどうしたものかと苦笑いした顔を並べていたところに、ちょうど良いタイミングで校内放送が鳴り響く。
〈ピンポンパンポーン〉
(生徒の呼び出しをします。二年四組東條信弥。ならびに、一年三組東條美弥。職員室まで来るように。くり返します。二年――)