十、初登校
違うぞ、待ってくれ。誤解なんだ、信じてくれ!
信弥は朝食を食べている。
それ自体はごくごく一般的なことかもしれない。
だが、彼にとっては栄養摂取という名目以上に、美弥様のご機嫌というかけがえの無いものを、大根の漬物と一緒にバリボリと噛み締めていた。
今日から学園の通常授業が始まる。
昨日はただ座って話を聞き流していただけの信弥だった。
というのも、先生は色々大事なことを言っているのだろうが、新しいクラスに放り込まれた生徒達というのは、自らが所属するグループを模索するのに必死なのだ。
「咲耶は今日から学園に通うんだろ。これからどうするんだ?」
「秦宮先生から連絡を頂いています。いろいろ準備があるそうなので、少し早めに学園にいらしてほしいとの事です」
「学園とは何をするところなのじゃ? わらわにも教えてたもれ」
咲耶のその疑問はもっともだ。
「みんなで集まって勉強するところかな。他には友達とご飯を食べたり遊んだり」
いざ説明しようとすると難しいもので、信弥はこれ以上の言葉が出てこない。
「なんと、信弥たちは貴族だったのじゃな。道理でこんなに旨い物が出てくるはずじゃ。じゃが手伝いの者の姿を見かけぬが雇ってはおらぬのか?」
「ん?」
さすがに大昔の魔王様と現代っ子の信弥ではカルチャーギャップがあるのだろう。
困惑していた信弥に、よく出来た妹が助け舟をだす。
「私達は貴族なんかではありませんよ。学園には大勢の方が通っていらっしゃるので、特別なことではないんです。ですので、お手伝いさんも居ません」
なんとなく納得したような咲耶だった。今は朝食に夢中なのか、それ以上深くは追求しなかった。
信弥と咲耶は先に家を出た。
咲耶は綺麗になった巫女服に身を包み上機嫌だ。
最後に、戸締りと火の元の確認をしてきた美弥が出てくる。
「お二人ともおまたせしました。それでは学園へ行きましょうか」
学園へと向かう道のりで、同じ方向へとむかう方々は咲耶の愛くるしい姿に目を奪われていた。
長い銀色の髪を揺らして歩く彼女は注目の的で、朱と白の巫女服もかなり目立だっており、コスプレやなにかの撮影などと思われても仕方ないだろう。
早い時間に出てきたのは正解だった。
そんはことは知って知らずか、道中相変わらずなにかにつけて信弥にべたべたする咲耶だったが、人通りが多くなると急に大人しくなった。
信弥たちは学園に入るなり、そのまま一直線に職員室へと滑り込んだ。
二年の学年副主任である秦宮真理子先生が彼らを迎い入れてくれた。
「よく来たね。それにしても結構目立ってたじゃないか。よ、有名人!」
「やめてください。教室に行ったらなんて言われるか……」
「あはははははっ。でもまあこんなに小さくて可愛い子を連れているんだから、少しくらい我慢しなさいな。さっそく用意してある制服に着替えてもらおうかな。美弥君も手伝ってくれたまえ」
職員室の中に併設された、給湯室と書かれたプレートが飾られている個室に二人を案内する秦宮先生。
当然のことのように、信弥は三人の後を付いていく。
そんな彼に、秦宮先生と美弥が一緒に振り返り、ジト目で呆れたように言う。
「あんたね、さっきの話を聞いてなかたのかい? まったくこんなことじゃ美弥くんも相当苦労させられてるんだろうね」
「そうなんですよ先生。兄さんのデリカシーの無さには困ってしまいます。いいですか兄さん、私達はこれから咲耶さんを制服に着替えさせるのですよ。そこに兄さんが居ると着替えさせることが出来ないじゃないですか」
「そういうことだ。ここはもういいから、あんたは先に教室にでも行って大人しく授業の予習でもしてな」
信弥は放り出されるように追い出されてしまった。
これ以上ここにとどまっていても仕方ないので、重い足取りで教室へと向かう。
そして案の定、こんなに早く来ている物好きのクラスメイトたちに質問攻めにされてしまった。
「ねえ東條君あのちっさくて可愛い子は誰なの?」「あの巫女服はコスプレなの?」「おい東條てめぇ今朝のあれは何だ」「もう一方のスタイルいい子も東條君のコレなの?」「え、なにそれ二股?」「やだ、東條君さいてー」「爆発しろ」「すっごい可愛いかったよね」「あの子は知り合い?」「東條君って大人しそうな顔して意外とやることはやってるのね」「あの子紹介してよ」
ひどい言いようであった。
信弥は一緒にいた妹のことは言っておいたが、咲耶のことは言葉を濁してはぐらかした。
「神様です。いいえ、国際的には魔王なんです」なんて言ったあかつきには、この場にいる全員を白い目にして黙らせることができるだろう。だがこれからの学園生活のことを考えると上策とはいえない。
さらに、咲耶をどのような扱いにするのか、信弥は全く聞かされてなかったのだ。
下手なことを言って話が食い違いでもしたら、面倒なことになるのはかんたんに想像できた。
最も肝心な二人の関係をはぐらかしながら適当な返事ばかりする彼に、クラスメイトはますます質問を浴びせ続ける。
一番後ろの席だった彼の周りには、容赦なく人が詰め寄せていた。
ほとほと困り果てていたときに、救いの女神が手を差し伸べたのだった。
「みんな、東條君が困ってるじゃない。それくらいにしてあげましょう」
大人しそうでいながら凛とした瞳ではっきりと訴える彼女は、腰まである髪を揺らしながら人ごみをかきわけて進む。
童顔ではあるが清楚な感じのする整った顔をやや歪ませて、ようやく信弥の座っている机の前までどうにかしてやってきた。
その動作の一つ一つに気品が感じられる。
そのままの勢いであたりを一睨み利かせると、すらりと伸びた腕を払うように動かしてから、改めて言い放った。
「もうすぐHRが始まりますよ。皆さんは席に着いてください。はい、散って散って!」
彼女が信弥の周りに群がる生徒の塊を徐々に追い払っていく。
まっすぐ切り揃えられた長い髪が彼の目の前でゆらゆらと揺れて、信弥はほのかに甘いに匂いがするのであった。
そうだ、彼女はクラス委員長だ。
信弥は今でもはっきりと思い出すことが出来る。
――どうしてこんな面倒くさいものを一番最初に決めなくてはいけないのかと、誰もが疑問に思うクラス委員長。
俺は無理。私は無理。誰かやれよ。
皆が下を向いて、まるでお通やなにかのような空気の中において、颯爽と手を上げて立ちあがり立候補した。
その勇気ある行動に、静まり返ってきた教室はとたんに色めき立つ。
救世主が現れたぞ!
満場一致で承認された彼女の戴冠は、やかましいほどに鳴り止まぬ拍手でもって祝福された。
身も蓋もないことをいえば、信弥などではなく、彼女こそが勇者にふさわしい人物なのであろう。
当時の様子を、T.S君が振り返ってくれた。
「もうだめかと思いました。誰もが諦めそのまま時間ぎりぎりになるまで座らされた挙句、悪魔のクジによって約1/40の確率でこの一年を先生方に奴隷のようにこき使われ、面倒ごとをまる投げされて、あだ名は強制的に『委員長』になる。そう覚悟しました。ええ、もちろん私もそう思っていましたとも。でもそんな時に女神……。そうですとも、まさに女神です! 女神がこの絶望の暗闇の中から我々を救い出してくれたのです! 私達は盛大な拍手で彼女を讃えました。長く美しい黒髪を伴って壇上へと上がる彼女からは後光さえ見えた気がします。あまりの美貌と気高い品格に目が離せなかったですね。彼女のおかげで他の委員決めも時間内に滞りなく終えることができましたよ。その後の妹ととの待ち合わせにも遅れずにすんで、彼女には本当に感謝しています」
――こんな声もあるくらいだ。
東條信弥は彼女の名前だけは覚えている。
戴冠式のときに調子に乗った男子どもが彼女の名前を連呼していたからだ。
そのときの彼女は、顔を真っ赤にしながら必死に「止めてっ!」と叫んでいた。
例の女神はあれだけあった人垣をすっかり追い払ったのを確認すると、信弥に話しかける。
「大丈夫だった? 東條君。みんなはすぐ調子に乗るんだから、まったく困ったものよね」
「ありがとう。おかげで助かったよ、しおりさん」
「あら、話したことも無いのに『しおりさん』だなんて……、ずいぶんと馴れ馴れしいのね。もしかして女の子の扱いに慣れているとか? さっきの二股ってのも案外本当なのかもしれないわね」
「ごめん……確かにその通りだったかも。でも苗字を思い出せなかったんだ」
「みんな『委員長』って言ってるのだから、あなたもそう呼んでかまわないのよ? やっぱり女の敵なのね。注意しとかなくちゃいけないわ」
からかっているかのようなしおりに、信弥は降参するように手を上げた。
しおりはそんな様子を楽しそうに観察している。
そして、どきりとするような怪しい表情に変わった顔を、急に彼の目と鼻の先まで近づける。
「冗談よ、あなたとはもっと親しくなりたいと思ってるの。……本当よ? だって、あの魔王様の事だってあるじゃない?」
「――ッ!」
ゆっくりと、顔を離したしおりは嘲笑うかのような顔とコロンの香りを残して自分の席へと戻っていった。
信弥は唐突に言われた『魔王』という言葉と残り香にドキドキしてしまい、黒く長い髪が揺れている後姿に声を掛けることができなかった。
そうこうしているうちに先生が教室へとやってきてしまい、彼女に話を聞くタイミングを完全に逃してしまう。
どういうことだろう。なぜ彼女は咲耶の正体を知ってるんだ。
信弥が考えても堂々巡りで答えが出るはずも無く、先生の話が頭の中を右から左に流れていくだけだった。
「じゃーみんなお待ちかねの転校生を紹介するぞ」
先生の一言で、信弥は我に返る。
教室には歓声が沸き起こっていた。
「分ったからお前ら落ちつけって。いいか、彼女は帰国子女で、日本のことはあまりなれていないそうだから、何か分からないことがあったら優しく教えてあげるんだぞ」
『彼女』という言葉を聞き、転校生が今朝の少女ということが確定してますます騒ぎ出す野郎ども。
女子もそれに便乗して転校生について話している。
「お前たち、こんなにうるさいと転校生を呼べないだろ。さっさと黙りなさい」
その瞬間、ピタリと騒ぎが止んだ。
素晴らしい一体感であった。
そんな様子に半ば呆れ気味の先生は、教室のドアの向こうに居るであろう転校生に向かって声を掛ける。
「じゃあ玖珂君、入ってきなさい」
そう先生が言い終わると、静かに教室の扉がひらいた。
――ひらいた。
――ひらいたが……。
真新しい制服に身を包んだ咲耶が登場し、教壇の前までやってきて、自分の名前を慣れない手つきで黒板に書いて、よろしくと言う。
信弥はそう思っていた。
だが、いつまで経ってもひらいた扉からは誰も現れない。
何事が起きたのかと、小さくざわつき始めた教室。
先生も額に手を当てて、困った顔をしながら開きっぱなしのドアの向こうを見ている。
そして、たっぷりと時間をかけてから、ついに銀色の髪の頭だけがドアからにょきっと生えた。
やっぱり咲耶だ。
長い銀髪を垂らしながら、ゆっくりと首だけ出して教室の中をうかがう。
咲耶は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
彼女は教室の後ろにいる信弥の顔を確認すると、なんとも魔王らしからぬ情けない声を出して言うのである。
「し、しんやぁぁ~~。ひっく、ひっく。しんやぁぁ~~」
言い終わると、ドアの向こうに引っ込んでしまった。
その様子を目撃したクラスメイトたちは言葉を失う。
唐突に後ろのドアが開けられた。
そこから咲耶が制服の袖で顔を隠しながら信弥に向かって走り寄る。
信弥の胸の中に顔をうずめて小さくなってしまった。
ついでに、いろいろな所から出てきたいろいろな液体を、顔を押し付けている彼の制服でぬぐっていた。
「そんなわけで見ての通り、玖珂君は少しばかり人見知りのようでな」
咲耶は人通りが多くなってからやけに大人しくなっていた。
学園に来る頃には存在自体が希薄になっていた。
たしか、最初に出会った時も、秦宮先生に呼び出された時も。
そこで信弥は合点がいく。咲耶は内気な性格だったはずだ。
昨日はずっと三人で一緒に居たから忘れてしまっていたが、咲耶はいじめられて? 内気な性格になったのだ。
でもまさかここまで残念なことになってしまうとは。
信弥はそんな咲耶の頭を撫でてあやしてやってるうちに、ふと気づいた。
クラスメイト全員が突き刺さるような視線を彼らにに向けていることを。
やめて、痛い、痛い。
視線だけで人をここまで攻撃できるのか。
信弥は人間の底知れないパワーを身をもって実感させられている。
客観的に見みれば、今朝一緒に登校してきた銀髪美少女転校生を抱きながら頭を撫でているのだ。
気にならない方がどうかしてる。
そのとき信弥は気づけなかった。
冷たい目線のクラスメイト達が、本当に言いたかったことを。
やがて静まり返る教室の中においてクラスメイトの一人が無情にも、だが的確な表現で彼を描写した。
本人は小さく呟いただけだったのだろうが、静まり返った教室において、全員の耳に届くには十分な大きさだった。
「――ロリコン」
ただ冷たかっただけの空気が一変して、氷雪を伴ったブリザードとなり信弥に襲い掛かる。
違う! 断じて違う! 俺はそんなんじゃないんだ。信じてくれ……。
信弥の心の悲鳴がこだまする。
小さい子と抱き合ってる彼を、委員長のしおりは面白そうにしながら見ていた。