8 ネイルをしましょう。
小さな爪をキャンパスに、ネイルアーティストはシンプルだけど洗練されたデザインに仕上げていく。
上品なパステルピンクとフレンチホワイトのネイルはどんどんと形になっていった。
「おれ、風呂に入ってるね。」
八雲課長がわざわざそれをいいにきてくれる。
私は手が動かせないので、笑ってうなずいた。
「今日は彼氏さんとですか?すっごいかっこいいですね。」
ネイルアーティストは器用に手を動かしながら、楽しそうに話しかけてくる。
私は曖昧に笑う。
「職場の上司なんです。」
その言葉にびっくりしたように顔を上げた。
八雲課長に誘われたのはコンペの資料も出来上がり、
法務部と契約内容の打ち合わせに入ろうとしていた週末だった。
新卒の採用も人事部とミーティングに入っていて、
今日も残業だなぁとメールをみると重用度低のメールボックスに八雲課長からのメールがはいていた。
「温泉行かない?」
そのお誘いに、私はすぐに返信を書いた。
八雲課長が誘ってきたのは、女性を明らかに意識した施設であった。
温泉はもちろんだが、それ以上に岩盤浴やトリートメント、
そして今行っているネイルのようなものを充実させていて、話題になっている。
一人では行きにくいから。
そう言って誘われたが、私のうきうきは最高潮に達していた。
何を着ていこう!その日から最大のテーマになった。
私はムダ毛のとお肌のお手入れを万全にしてこの日を迎えたのだった。
八雲課長は入館前、女性がずらっと並んでいる光景にしりごみをしていた。
「これは君を誘って本当によかったよ。」
若干引き気味に課長はよくわからない感想を述べた。
私たちは一度バラバラになり、それぞれ温泉を堪能した。
お昼に待ち合わせて、ベトナム料理のお店に入った。
普段スーツできっちり決めている八雲課長がラフな格好で笑っているのは、どんな女でもときめいてしまうと思う。
以外と八雲課長の温泉好きはマニアックのようだ。
「連休がとれたときはだいたい温泉巡りに行ってるね。」
山の中の秘湯なんか、それだけでも達成感があるのだそうだ。
山登りをしているときいて、何となくたくましい体つきにうなづけた。
私はというと、自分の体を見下ろして嫌になる。
前よりいくらかましになったといっても、中年のおばさん体型だ。
今日は温泉で徹底的に自分を磨きあげようと決意した。
ベトナム料理屋を出てすぐにかわいらしいネイルチップがたくさん飾ってあるのが目に入る。
きらきらした空間に引きつけられる。
それを眺めていると、やる?と八雲課長が聞いてくる。
結構なお値段がする。
両手の爪に1万3000円は払えないと計算して、
やりませんと断ろうとすると、八雲課長は自分の電子マネーでコースを予約してしまった。
「八雲課長、自分で払います!」
私は急いでその手を押さえたが、いたずらっ子のような顔で八雲課長は笑う。
「今日付いてきてくれたお礼!」
空いていたため予約するまでもなく、すぐに案内された。
たばこを吸ってくるとふらりと八雲課長はいなくなる。
そして、私は心をときめかせ、冒頭のやりとりに至るのだ。
プロにしてもらうネイルは本当にきれいで。
ネールアーティストとの会話だけでちょっと癒される。
「職場のかたと仲がいいんですね。てっきり彼氏かと思いましたー。」
ネイルアーティストは少し考えて無難に返事をしてきた。
「うーん。今日はちょっと、本当に彼が彼氏だったらなって思いましたぁー」
乗せられるように言葉がこぼれる。
そして、そのこぼれた言葉に自分でびっくりした。
八雲課長が彼氏だったら。。。
私はその考えを振り払う。
あり得ない。
彼はレベルが高すぎる。
将吾とは別次元の人間だ。
私はネイリストとの会話に再び集中した。
大戸はうれしそうに近寄ってきた。
「見ちゃいましたー!松森主任、八雲課長とつきあってたんですね!」
その言葉にすでに出勤していたメンバーは驚きの目でこちらを見てきた。
私はどう切り替えしていいのかパニックになった。
「昨日、温泉に行ってませんでした?私たちもそこにいっていてぇ。
手とか握っちゃって、すごいラブラブじゃないですかぁ!」
きゃっきゃと騒ぎながら、PCの電源を入れている。
私は頭が真っ白になって切り返す言葉が見つからない。
そもそも、プライベートを会社で暴露するのはマナー違反じゃないか
よくわからない言い訳が頭をよぎる。
「大戸、出勤早々悪いけど、この前の精算書出して。」
私を救ったのは将吾の声だった。
なにも言わない私に空気を読んだのか大戸は意外なほどあっさり引き下がり、仕事に戻っていた。
将吾の突き刺すような視線を感じ、顔を上げる。
将吾は何かを言いたそうに口を開いたが、私を一睨みするだけで仕事に戻っていた。
将吾に睨まれる謂われなんかないが、騒ぎを蒸し返したくなくて、私も仕事に集中した。
人の口に戸はたてられない。
先人は人の真理を言い当てていた。
職場だからあからさまに何かを聞いてくることはなかったが、噂の的にされているのは何となく感じ取った。
高木はなにかを言いたそうに口を開いたが、そのたびに加藤に足を蹴られていた。
朝一で打ち合わせに出ていた八雲課長も課内の微妙な雰囲気を感じ取ったらしい。
視線で、何かあった?と聞かれる。
視線で、後で話すと答える。
納得したように八雲課長はPCの電源を入れた。
ふと、また将吾から視線を感じる。
不機嫌そうに私を見る将吾と目が合う。
視線で、何か?っと聞いてみたが、通じることなく目をそらされた。
「あー見られちゃってたか。」
社外での打ち合わせの後、遅めのランチをとる。
八雲課長はスリムな外見から想像できないほど、よく食べる。
八雲課長は大盛りのポークカレーにトンカツとチーズをトッピングする。
見ているだけで若干胸焼けがしてきた。
私はチキンカレーにほうれん草をトッピングした。
「大戸が大声で話したから。たぶんほかの課の子たちときていたみたいであっと言う間に広まっちゃって。」
混雑していたから私たちは大戸の存在に全く気がついていなかったのだ。
「八雲課長がネイルをほめて触っていたでしょう?それをどうやら誤解しちゃったみたいなんです。」
そう。
あの日上品に仕上がったネイルを私が何度もうっとりと見ていた。
桜貝みたいな爪だね。っと八雲課長がほめてくれる。
私はうれしくなった。
八雲課長は大きな手で、私の爪をなぞる。
ぞくぞくっとした、何ともいえない感情が私のお腹の中で生まれる。
私はそれを心地いいと感じた。
私はその感情を消すために、何度もサウナと水風呂を往復したのだった。
大盛りのカツカレーは瞬く間に消えていった。
これだけ食べて太らないなんて、うらやましすぎる。
私はせっかく順調に落ちている体重を増やしたくなくて、
ご飯の半分を残してしまった。
「まぁ、仕事に会社にきているわけだし、噂もすぐに収まるさ。
あえてこちらからコメントすることではないから放っておこう。」
あっさりと八雲課長は結論を下す。
私も々結論に達していたため、同意した。
「でも、松森はそれでいいの?」
八雲課長は真剣な目でこちらを見る。
私は何のことかわからなくて、首を傾げる。
「松森って、佐伯とつきあっていただろ?」
私は飲んでいたコーヒーが変なところに入り、おもいっきり噎せてしまった。
「な、、、なんで?」
八雲課長はいたずらっ子のようにニヤリと笑う。
「そんなん、隠そうと思っていても、以外にばれているものだよ。
まぁ。俺が特別おまえたちを見ていたってのもあるんだろうけど。」
私は八雲課長の言葉にパニックになって、その後の彼の言葉はほとんど耳に入っていなかった。