1 大声で泣きましょう。
「そろそろ結婚しようと思うんだ」
恋人の佐伯将吾にいわれたとき、
頭の後ろでウエディングベルが鳴り響いた。
・・・そのベルが彼の次の発言で、頭に落ちてくるともしれず。
「だから、わかれてくれないか?」
付き合い初めてから8年目のその日、
長い春は実ることなく冬に突入した。
どんなに落ち込んでいても、次の朝はやってくる。
鏡で、パンパンにむくんでいる顔をみてさらに落ち込む。
まあ、入社した頃から12キロも太ってしまったのだから、顔もパンパンで当たり前なのだが。
朝から、とりあえずメイクをし、とりあえず、牛乳とあんパンを流し込み、とりあえず、適当に服を着る。
男に捨てられてみて初めて気が付いた。
私、かなり女を捨てている。。。
30をすぎて彼の両親とも仲良くし、
友人の結婚式に出席する度に次は早苗の番だねっていわれていた。
将吾はその言葉に笑うだけだけだったから、
私との結婚を考えてくれているとばかり思っていた。
ダイエットだって、やろうやろうってやらなかった。
将吾が笑って許してくれていたから。
そう、将吾は笑っていつも許してくれると思っていた。
この日までは。
私は最悪な気分で出勤した。
「おはよーございまーす。」と挨拶もそこそこに、
今日、営業で廻るお客様のリストを作り始める。
「おはようございます。」と将吾も出勤してくる。
何事もなかったかのように。
私は挨拶をするのをためらい、リストに夢中になっているふりをした。
「おっはようございます。」
と甲高いきゃぴきゃぴした声で、事務職の女の子たちが出勤してくる。
「おはようございます、松森主任」
うっとうしいなと思いながら私はリストから顔を上げなかった。
挨拶をしてきたのは昨年から部下になった大戸美樹だ。
私は初めて自分の部下になったこの女の子が苦手である。
営業3人に対して一人の事務員がつく。
実は私はこの大戸美樹がとても苦手だ。
大戸は将吾の部下でもある。
将吾は営業管理部の主任をしている。
「あー、もう松森主任!」
唐突に大戸が大声を出す。
顔を上げない訳にもいかず、私は大戸をみる。
「ここ、都道府県が抜けてるじゃないですかぁ~。
不備なのでなおしてくださいね!」
私の部下の提出した契約書に不備があったらしい。
私は受け取ってさっと眺める。
「・・・これって、うちのお客様じゃなくて、
うちの会社の住所じゃない。
東京都なんだから、書き添えてくれても」
私の言葉を遮って大戸は続ける。
「不備は不備です!私が直しちゃうと営業さんいっつも不備の書類を提出するでしょ!」
彼女はかわいいことで結構きついことをいう。
私は将吾を思わずみる。
彼はパソコンのモニターから顔も上げない。
「わかりました。訂正させます。」
私は渋々その書類を受け取るのだ。
その後も、彼女は字が汚いだとか訂正印が必要だとかで書類を差し戻してきた。
私はデスクを立つと、甘いコーヒーを飲みに給湯室に向かう。これが太る素だとわかっていても。
「ってか、なんなんっすか!」
後輩の高木がぷりぷりと起こりながらハンバーガーにかじりつく。
「あの女、営業の苦しさも知らないで勝手なことばっかり。不備ったって全然たいしたことじゃないのに。」
私は彼をみながら何で同じものを食べて同じように外回りをしているのに
太らないんだろうなどと見当違いのことを考える。
「俺も、なんか自分で書類を管理していたときの方が気が楽だったかも。」
高木と同期の加藤も頷く。
元々営業部で書類の提出まで対応していたが、
事業が大きくなるので対応できなくなってきた。
そこで、3人に一人営業管理課の事務が付くというシステムになったのだ。
大戸が言っていることは正しい。
正しいのだが、正しいことばかりができないのが営業の世界だ。
お客様に書面をいただけば間違って記入されてしまうこともある。
領収書をもらい忘れてしまうことだってたまにはある。
データの入力ミスに気がつけないこともある。
ただ、彼女が言っていることは正しいのだ。
書類の記入ミスも、領収書のもらい忘れも、データの入力ミスも明らかにこちらが悪い。
営業管理部ができてから、経理部も、人事部も、商品資材部も非常にスムーズで助かっているという。
私たちも彼女にいろいろと突っ込まれるため、ミスは非常に減ってきた。
でも、契約を取ってきても喜びが薄れたことも忘れがたい事実だ。
昔はとってきた契約の処理をしているとき喜びをかみしめていたのだが。
後輩たちとのランチを終えて、また外回りにでる。
国道沿いに次の商談地に向かっていながら今朝の将吾の態度を思い出す。
私たちは社内恋愛をひた隠しにしていた。
付き合い始めたのが入社して間もない頃だったから、
遊びに会社にきていると思われたくなくて隠していた。
そのうち彼は新設された営業管理課の主任になり
私が営業部第二営業課の主任になったため、よけい会社に隠さなくてはいけなくなった。
営業管理課ができたばかりのころ、彼はひどくつらそうだった。
今はもう結婚して退職してしまった三浦さんと二人で切り盛りしていた。
営業のミスのカバーやフォローなどよく回していたものだと思う。
そうしているうちに、大戸さんを始め多くの事務員が投入された。
彼の働きが認められたからである。
しかし、それがだんだん私と彼の距離を作っていくことになった。
彼女たちは私たちのミスを許してくれない。
ルールに乗っ取り、ルール外のことを許そうとしない。
そうすることで業務はスムーズになったが、ダイナミックな商談はできなくなった。
昨日、私は将吾に詰め寄った。
「どうして?ご両親にも紹介してもらっているのに。
ほかに誰か好きな人ができたの?」
ショックのあまり声が震えた。
「別にそういうことじゃないよ。
ただ、君との結婚を意識するたびに、君とは結婚できないと思うようになってきた。
君のだらしない性格が許せないんだ。」
彼は私の目を見ず、吐き捨てるように言う。
私は、頭にきた。
「なによそれ。私別にだらしなくしていないわ。
部屋だって掃除しているし、料理もしているじゃない。」
彼は私の顔をみてため息を付く。
「この部屋を掃除した部屋だといってしまうこと自体だらしないじゃないか。料理だってレトルトだろう。
最近弁当とか作ったのいつだよ。しかもその体型。
おれ、何度もダイエットしろよっていったよな。
一緒にウォーキングにも誘ったじゃないか。
なのに、明日から明日からって、結局その体型。
だらしない以外のなんなのさ。」
彼の言葉は正しい。
仕事の時と同じく正しい。
「だって、だって仕事が忙しくって時間がないんだもの。
掃除だって、時間を見つけてちょっとはしているのよ。
ダイエットは、、、これからがんばるから。」
私は彼の指摘の正しさに、もう彼に私の言葉が届かないことを思い知った。
私と彼の8年が終わったことを。
もう、彼が私を甘やかすことがないことを。
そんなことを思い出して落ち込んでいると、
商談地に着いた。
私は見苦しくない程度に化粧を直し、決戦の地へと向かう。
この商談をまとめることに集中しよう。
確かな手応えを感じて先方と分かれたのが4時過ぎだった。今日はかえって事務処理をしなくてはいけない。
車のハンドルを握り、気が重くなる。
社に戻ると、私は駐車場に車を止める。
ちょっと横着をして、裏の避難口から社内に入る。
本当は受付を通って車のキーを返さなくてはいけないのだが、帰りがけによればいいだろう。
そういうところがだらしないと言われてしまえばその通りなのだが。
階段で上がるのがかったるく、3階のオフィスまでエレベーターを使う。
本当は社内の人間は3ステップ運動に協力しなくてはいけないのだが。
3ステップ運動は、上下3階までは階段を使いましょうと言う節電運動だ。
2階までなら階段を使うが、3階まではちょっとつらい。
「もう、また松森主任不備ってる~!」
大戸さんの黄色い声が聞こえてくる。
私が戻ってきていることに気が付いていないようだ。
営業管理かのドアは開けっ放しになっているが、
ドアの前に大きなパーテーションがある。
書類などお客様の情報を管理しているためだ。
だが、人の出入りが多い部署なので、
閉めるとPassロックがかかってしまうドアをイチイチ開けにいくのが大変だという苦肉の策であった。
そのパーテーションの裏で私は固まる。
また何か失敗をしてしまったらしい。
「あー。訂正印がかぶっているなぁ。
あいつなにやってるんだか。大した案件でもないんだからしっかりして欲しいよなぁ。」
大した案件じゃない。
私の心にすっしりとひびく。
「最近案件少ないんだからしっかりして欲しいんだけど。
私のフォローがわるいのかなぁ。」
大戸が急にしおらしくいう。
「そんなことないよ。
あいつらがだらしなすぎるんだ。
いっつも同じようなミスするんだ。」
将吾がこんなに辛辣なことを言うとは思わなかった。
「本当だよ。大戸が気に病むことじゃないって。
佐伯主任がいつも言ってるように営業部の人にみまもり携帯でも持たせてやればいいんじゃない?」
フロアの人間がどっと笑う。
冷たい汗が私の背中を流れる。
「本当だな。案件も少ないし、不備も多いし、直すのに時間かかりすぎるし。
マジでどっかでさぼってるんだよ。本気でみまもり携帯でも持たせてやりたいよ。」
追い打ちをかけるように将吾が笑いながら言う。
「おまえら、いい加減にしろよ。」
突然私の後ろから腹に響く声がしかりとばす。
私は驚いて振り向くと、私には目もくれず部屋の中に入っていく。
「誰のおかげでおまえ等の仕事があると思ってるんだ。
おれらが、営業が外で汗かいて必死扱いて頭下げてるからだろ。」
それは私の上司の八雲課長だった。
フロア中がシーンとなる。
「おい、佐伯。おまえいつから営業部の指導係になったん?
不備不備って俺らも黙って従うようにしてたが、暇そうに人の悪口言って。
ろくな管理もしないでなにが案件少なだ!」
業務管理の子たちも、同じフロアの資材部の人たちも八雲課長の本気の怒りに口を出せないでいた。
大戸はいつの間に泣き出していた。
私は体が勝手にうごいていた。
「申し訳ありません。八雲課長。佐伯主任。
私の部下への指導が甘く、また私自身も書類に対する認識が甘かったのでミスをしてしまいました。」
私は大戸から書類を受け取る。
確かに、本当に数ミリだが、訂正印がかぶっている。
それは私の訂正印で、彼女がなおしてもよいものであった。
いつもはそれくらい業務管理でなおしてくれればいいのにと、
心で彼女たちの言葉にそっぽを向いていた。
「このミスですね。すぐになおしてきます。
大戸さんもいつも指摘してくれているのに間違いが直らないでごめんなさいね。」
「八雲課長。外回り、行ってきます。」
私は書類を持ってフロアから飛び出す。
限界だった。
目頭に力を込めていなければ、涙があふれていた。
私は休憩室の自動販売機にもたれて呼吸を整えようとする。
肩に大きな手が乗る。
将吾が追いかけてきてくれた。
私はうれしくなって振り返ると、そこには八雲課長がいた。怒鳴られるかと思った。
せっかく八雲課長が注意してくれたのに、彼の顔をつぶして業務管理の将吾をかばってしまった。
私はとっさに謝った。
「申し訳ございませんでした。
八雲課長にかばっていただいたのに、あんな行動をしてしまって。」
八雲課長はポケットにむき出しで入っていた小銭を取り出すと私の大好きなココアを購入して差し出してくれた。
「いいよ。おまえ、頑張ってるよ。
昔と比べて案件減ったっていっても、この不景気によく勝ち取ってきてるって上の連中もいってるし。
今回の、業務管理へのフォローも完璧だった。よくやってるよ。」
大戸さんやフロアのみんなのひどいヤジにも泣けなかった。
将吾のどんなひどい言葉にも泣けなかった。
それなのにどうしてだろう。
優しい言葉をかけてもらった今、
涙がどうしても止まらないのだ。
私は八雲課長の前で子供のように泣いた。
すみません。
いろいろ訂正しました。