リスタート
長い話になりました。
季節は真逆です。
PM10:00
今年最後の仕事を終わらせた。
事務所の電気を切って、指さし確認をして扉を閉める。
入り口の『清水デザイン事務所』のネームプレートの埃を指で払って、古くて少しクセのあるドアノブに鍵をかけた途端…ふっと肩の力が抜けた。
……オレ、自分が思ってる以上に疲れてるみたいだ。
早く帰って寝よう。
そう決意してエレベーターホールへと向かう。
このビルの中には色々な業種の会社が入っていて、オレは5階に部屋を借りてデザイン事務所を経営している。
…といっても。従業員はオレだけ。
忙しい時だけ、バイトくんを頼むけど通常は一人で動かしているから年中忙しい。
営業して、打ち合わせして、制作して……
今日は大晦日だというのに、年明けの出稿分を制作していたらこんな時間だ。
この厳しい世の中、どんな小さい仕事だろうがやってかなきゃ生きていけない。
明日から5日までは休みだから…と自分に言い聞かせて何とか終わらせた。
大晦日まで仕事をしていたのは、ウチと3階に最近出来たばかりの矯正歯科だけだった。
5階は、個人で仕事をしている人間が多いから、小さく仕切った間取りの壁にはたくさんの扉が並んでいて、いつもなら電話の音や、話し声、人の出入りの音が薄い壁越しに聞こえてくるけど……
今朝は出勤してきた時、シィ…ンと静まり返っていて、古いビルの中が余計に寒々しく感じたほどだ。
キュッ……キュッ……キュッ……
人のいない廊下。
オレのスニーカーの靴音だけが冷たく響く。
大晦日まで仕事なんてしないよな……矯正歯科も昼までだったみたいだし。
エレベーターの下の階を押すと、3階で止まっていたランプが点滅しながら動き始めた。
——そういえば、そこの矯正歯科の先生がイケメンだと、隣の保険をしている男が言っていた。
気にはなっていたけど、
矯正歯科専門なんて、歯痛では行けないもんな。
『歯科医』『イケメン』。
そのワードだけで胸の中がモヤモヤする。
先生目当ての女性や、中高生で待合室はいっぱいだと保険屋は言っていた。
医者でイケメンは懲りた…
オレは、男が好きな人種だから…
保険屋の男の話に相づちをうちながら、何故かあの男を思い出した。
——3年前。
オレの通ってたゲイ仲間が集うバーに、間違って紛れ込んだ彼に一目惚れした。
可愛い顔でつぶらな瞳はモロ好みで、こんな世界は知りませんって清潔感の漂う雰囲気。
モロに好みのタイプ。
顔なじみの常連達は『ノンケはやめとけ』って口を揃えて言ったけど、オレは直ぐにアイツを口説いた。
でも、アイツの中ではオレは友だち以上になる事はなかった……
一緒にいる時間は楽しくて、仕事帰りに会って食事したり、休みの日に遊びに行ったり…オレの中でどんどん『好き』が膨らんで本気モードで迫って。
恥を忍んで女装までしたり……
でも、『頭では理解してるけど勃たない』って言われた。
そして…
クリスマスの前に、アイツは彼女に指輪を渡すんだ…と言った。
それが、オレの片思いの結末。
ゲイの人生の先輩達が言っていた
『ノンケの男には本気になるな』って事を、実体験で学べたから。
うん……
人生経験が積めたと思いたい。
アイツの幸せを願ってる。
本当に好きだったから、連絡を取れないようにした。
タイミング的に仕事も独立する予定だったし
心機一転。事務所を借りて、家も引っ越して、スマホも新しいものにして、
今までの繋がりを全部切った。
今頃……
きっと、幸せな家庭を築いていると思う。
アイツは真面目で優しかったし、子どもが出来て『パパ』なんて呼ばれているかもしれない。
ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込むと、手に家の鍵が冷たく当たる。
新しい恋をして忘れてやる!って強がってみたけど、結局アイツ以上の男にはまだ出会えない。
心の隙間を埋めるように、がむしゃらに仕事をして……
今年なんて、普通の飲み屋にも出入りしなかった。
明日から休みだというのに、一緒に過ごす相手もいない。
「はぁ〜。疲れた……」
言葉に出したら何だか笑えてきた。
相変わらず心はスースーするけど、確実に傷は癒えている、と思いたい。
そもそも、勝手に好きになったのはオレだし、アイツはオレの事は『勃たない』ってハッキリ言ったんだし。
最初から、人種が違うんだ。
オレとアイツとは。
——チンッ——
音がして開いたエレベーターに乗り込み、1階のボタンを押す。
古いビルと同じだけ年数の経っているエレベーターは、薄暗くて狭い。
チン——ガタンッ…
不意に3階でエレベーターが止まる。
こんな時間。
まだ残ってる人がいる事に驚いた。
てっきりこのビルにいるのはオレ独りだと思い込んでいたので、思い切り気が抜けてた。
扉が開き、入ってきたのは茶系のコートの男。
こんな時間まで、患者さんって事はないよな…
開いた扉の向こう側に3階の風景が見える。
『マロンデンタルクリニック』のくすみグリーンの真新しい看板。
入り口のガラスの扉の向こう側は灯りが消えている。
って事は…今乗り込んで来たのは、保険屋のオヤジが話してたイケメン歯科医?
ほとんど無意識に、ボタンの『閉』を押して
ゆっくりと扉が閉まる直前…
「健太………くん?」
背後から名前を呼ばれて、驚いて振り返った。
「……!」
爽やかな甘いマスク。
とろけそうな位、低い響く声。
昔、この声で何度も名前を呼ばれた。
「健太くん………だろ?」
栗林翔——
オレがいまだに忘れられない人——
「……信じられない。こんな所で会えるなんてっ!」
相変わらずのイケメン。
昔と変わらず、あの頃と同じように満面の笑みを浮かべて近づいてきた。
「翔……。」
ガタンッ——キュュウゥーーーキ——ン
大きな音がして、ドンッとエレベーター内が揺れる。
前のめりになる身体を、咄嗟に壁に背中を付けて支えた。
何…?
チカチカする灯り。
天井を見上げた…次の瞬間。
バチっと音が鳴り、全ての灯りが消えてしまった。
「え……何?」
「おっ!!」
エレベーターが止まった?!
—————————————
3年前の12月——
あの日、生まれて初めて女の格好をした。
どうしても…翔と特別な関係になりたかったから……
自分の性癖のことは、親や会社には隠していた。
けど、
翔と出会ったのは、ソッチ系の店。
だからオレは最初から、素の自分のままで翔に接する事が出来たし、気が付いたらどんどん好きになってた。
ノンケの翔は、オレがゲイだと知っても毛嫌いする事も、バカにする事も無く接してくれる。
何度も一緒に食事をして、遊びに行って、家を行き来しているうちに、オレの押せ押せな思いは翔に届き始めているに違いないと確信していた。
オレは女装家ではないし、女性の心を持っているわけでもない。
凄く抵抗を感じたし、自分で気持ち悪いなんて思ったけど、
翔が
『健太くん女装も似合いそう』なんて言ったから…
知り合いのオネエさんにレクチャーを受け、1時間かけて化粧をし購入したカツラとスカートをつけて待ち合わせた場所へ向かった。
『気持ち悪くない?』
『いや……普通に可愛いよ。…っていうか、かなり良い!』
待ち合わせ場所に、女装をして現われたオレ。
翔は、最初誰だか分からなかったようだったけど、オレだと気が付くと思いっきり食いつき気味に興奮してくれた。
女装したオレと翔は一緒に映画を見て、夜の街を手をつないで歩いた。
慣れないヒールに足を取られるオレに、翔は優しく腕を取ってエスコートしてくれた。
さり気ない優しさにクラクラしながらも、人通りの多い道を外れる。
川沿いの遊歩道側のベンチ。
見つめ合ってキスをした時、唇が思っていた通り弾力があって柔らかな事に感動していると、
『健太くん……好きだよ。』
と言ってくれた。
オレの女装作戦は上手く行ったと思えた——
でも、
その後入ったホテルの部屋で。
二人で抱き合っても、翔は勃たなかった。
『健太くんの事が好きって、ちゃんと頭では分かっている。だけどやっぱり男は無理だみたいだ。』
あの時ほど、自分の性に絶望した事はない。
その後……しばらく翔とは連絡がつかなくなり。
そして、クリスマスの前……
久々に待ち合わせた居酒屋で
『元カノが、ヨリを戻そうって言ってきてさ。勝手だよね。前に指輪を買ってくれるって言った約束覚えてる?なんて言われて、クリスマスにプレゼントする事になってさ。』
『この間の事で、やっぱりオレは女の子専門って分かったから』
と、翔は目尻にしわを寄せて笑った。
あの日、オレはどうやって家に帰ったのかも覚えてない。
気が付いたら朝になってて。
ぼんやりとした頭のまま、スマホを解約した事だけは覚えている。
—————————————
揺れがおさまってすぐに、階数ボタンの方向に手を伸ばす。
完全に電気系統が消えているボタンは、押してみても反応しない。
真っ暗で狭いエレベーターの中に、完全に閉じ込められた——
「…なんで?何も反応しない………」
ゲーム機のコントローラーを連打するように、翔がボタンを押す。
でも何も起こらない。
つられるようにスマホを取り出していたオレも、明かりを付けて階数ボタンを照らしてみる。
手がかりになるものを探さなきゃ…
僅かな明かりを当てていると、階数のボタンの下の方に電話番号が書かれたシールを発見した。
「あっ!ここに警備会社の電話番号!」
「本当だ!かけてみるから、明かり当てて!」
言われるまま、小さなシールに光を当てる。
翔はスマホを素早く操作して電話をかけ始めた。
マジか………
古い古いとは思っていたけど、エレベーターが止まるなんて考えた事もなかった。
「あっ…もしもし!エレベーターに閉じ込められてるんですけど!場所は××ビル。はい。はい。非常電話も作動しません。自分ともう一人……はい。二人です。3階から降りるところで……はい……はい。」
焦ったように状況を説明する翔。
しかし——
こんな所で、この男に会う事になるとは思わなかった。
「怪我はないです。オレは3階でマロンデンタルクリニックをやってる栗林です。もう一人の男性は……」
「5階の清水デザイン事務所。」
「5階の清水デザイン事務所さんです。非常灯?真っ暗ですよ!…ああ、はい。連絡先……番号は……×××ー××××ー××××。はい……何だって?はぁ。」
翔は、絶望したように息を吐き出すと『クソっ』と呟いた。
「……」
「消防へは連絡してくれるんですね。お願いします!」
そう言って、電源を落とした。
途端……真っ暗闇になる空間。
無意識に掴んでいた翔の腕を、慌てて離す。
近すぎる距離は、昔の感情を思い出して背中がムズムズした。
「………消防に連絡してくれるって。なんかさぁ、ここのエレベーター会社が倒産してて、修理とか結構時間がかかるっぽい。」
「マジか……」
翔が、オレの隣の壁に寄りかかる気配がした。
暗闇の中、あの頃と変わらない翔の低くて甘い声。
この声もたまらず好きだった事を思い出す。
「…………」
「…………」
「……久しぶり。」
「うん。翔元気だった?」
「エレベーターに乗るまで元気だった。」
「ふふ……確かに……」
一方的に、連絡を絶って3年。
まさかよりによって、こんな再開をするとは思わなかった。
ずっと…会いたくて。
会ってはいけないと思っていた。
普通なら世間話や、励まし合ったりして救助を待つ所なんだろうけど、
ここにいるのは、昔オレをフッた男。
気まずい——
「翔……開業したんだ……?」
「居抜き物件でさ……。元も歯医者さんだったし、ここは駅前だしね。すげー条件良かったんだ。でも参ったなぁーエレベーター…誤算だったなぁ〜。」
「他にも企業が入ってるし、上の階は個人事務所いっぱいだし、その辺りは大丈夫なんじゃね?」
「明けてからでも良いから早目に復旧して欲しいよね……。ハァ……」
真っ暗な中、翔の大きなため息が響く。
オレもため息つきたい気分だ。
「まさか…こんな所で、健太くんと再会出来るとは思わなかったよ。」
「今年最後って日に……すげータイミングだよね。」
昔話にならないように、話題を切り返す。
「タイミングが良いんだか、悪いんだか。」
「まぁ、年内には帰れるんじゃねぇ?」
「…………」
「…………」
再び訪れた沈黙。
足下からの冷気で、寒くて自然と身体が丸くなる。
ダウンジャケットをゴソゴソいわせて、両手をポケットに突っ込んで縮こまると
「寒い?」
女の子にするように、オレの背中に手がまわされた。
腹が立つ、優しさ。
全然変わらない。
こういう事を普通にするから、オレは勝手に期待して傷ついた……
「触んなよ……」
言ってみるけど、その頑丈な腕を振りほどけない。
「こうするとオレも温かいしさ。」
再び、ギュッと後ろから両腕を抱きしめられた。
背中に翔の体温が伝わってくる。
見た目よりガッチリした筋肉がついた身体。オレよりも高い体温。清々しい香り。
耳元に囁かれる、翔の声。
「……連絡取れなくなって、探したよ……痩せた?」
「……そうか?」
「会社に電話したら、辞めましたって言われて……あの店にも顔出してないみたいだし。ずっと、気になってた。」
よく言うよ——
オレとエッチをしようとした数日後に、女の子とヨリを戻したくせに……
期待するなって自分を戒めないと、再びショックを受けるのはごめんだ。
「翔……家に連絡しなくていいの?心配してる人いるんじゃない?
「え?ああ今、旅行へ行ってるしさ。いいよな〜オレを置いて、カウントダウンはNYだよ?」
「へー」
彼女さんは、翔を置いて旅行か。
何だか幸せそうな雰囲気を、翔の声から伺える。
「そういやさ……健太くん、覚えてる?」
「何を?」
「正月に釣りしようって約束。オレ、スゲー楽しみにしてたのに、連絡取れなくなるしさ。番号も違う、引っ越しもしてて、会社まで辞めてて、健太くんって本当に実在したよね?って不安になったよ。」と笑う。
「…………」
どんどん饒舌になってくる翔。
足下からくる冷えが身体に伝わったように、心の中が冷たくなってくる。
オレとの再会を喜んでくれているってのは分かる、それは嬉しい。
でも……
「あの店の常連さん達、誰も健太くんの新しい連絡先を知らないって言うしさ。探しまわって、オレ。ストーカーみたいだって言われたよ。」
そもそも、自分に非があるとか思わないわけ?
翔はゲイに対して偏見はないって思ってたけど、オレの思い過ごし?
話し続ける翔に、ドンドンと怒りが湧いてくる。
3年前、死ぬほど泣いた。
自分の性癖を悔やんだ。
ノンケには手を出すなっていう言葉の意味を知った。
本当に、翔が好きだった。
腹が立つ!
本当に、腹が立つ!!
「うるせ——!!」
話の腰を折るように叫んで、肩に置かれた手を乱暴に振り払った。
どんな思いをしてあの後、帰ったと思うんだ。
忘れる為に夢中で仕事して、
今までの繋がりも全部切った。
それを上辺だけの言葉で、無かった事にして欲しくない。
「……はい。」
驚いたような、翔のしおらしい声。
「オレさぁ……言ったよね!ゲイだって。そんでもって、翔が好きなんだって!」
「……っはい。」
「でもさぁ、翔は『頭では理解してるけど勃たない』って言ったじゃんか!だから…オレをふって彼女とヨリを戻したんだろ?だから消えたんだよ!!」
「え……」
「バカじゃねーの?何、探してんだよ!!」
「健太……くん……」
「男のオレを見て勃つ男なんて、イッパイいるんだからな!!」
遠くから消防車のサイレンの音が聞こえた。
ウウ——————
だんだんと、こちらに近づいてきている音が響く。
ああ。
言ってしまった——。
ウウ————
ピーポーピーポーピーポー
段々と大きくなる消防車のサイレンを追いかけるように、救急車のサイレンも響いてくる。
重なり合った音は物々しく、閉じ込められた中まで聞こえ、ビルの前に到着したのか遠吠えのように大きくウオンッ——と鳴り響いた後、ピタッと静かになった。
ゴンゴンゴン——ゴンゴンゴン——
扉を叩くような音と、複数の足音や、ザワザワした大勢の人の気配もする。
救助が……来た。
真っ暗で良かった。
多分…オレ、今酷い顔してる。
大きく息を吐き出して、気持ちを落ち着かせる。
「………ごめん。」
翔の小さな声が聞こえた。
今さら…
今さら謝って欲しくない。
でもその反面、翔の『ごめん』は、ずっと聞きたい言葉だった。
ヤバい涙出そう……
会うつもりなかった……
あの時、腹に秘めたはずの気持ちを吐き出して、一気に感情がグルグル回る。
(期待するな…翔はノンケだ!)
頭の中で繰り返す。
「別に……謝って欲しい訳じゃない。救助来たみたいだ、やっと帰れるな。」
「健太くん……」
「終わり!終わり!!年の瀬だし、気持ちよく新年を迎えようぜ。」
申し訳なさそうな声音で名前を呼ばれ、途端に自分が惨めな存在に思えてきた…
これ以上、あの時の記憶を掘り起こしたくない。
無理やり話をぶった切り、何とも思っていない風を努めて明るい声を出した。
早く……
早くここから出たい。
こいつと二人でいると、好きだった記憶が次々浮かんできて胸が苦しくなってくる。
「健太くんを見て勃つ男って……今、付き合ってる人いるの?」
そこかよ……!
「いねーよ!いなくて悪いか。お前にふられて傷口が癒えてねーんだ。バカ!」
「……フハハ……」
「失礼なヤツ!鼻で笑いやがったな……」
「ごめん。久しぶりだ。健太くんに怒られるの。」
「お前さぁ」
言いかけて……
不意に腕を掴まれ、そのまま引っ張られる。
バランスを崩してよろけた所を抱きしめられた。
柔らかい肌触りのコートの生地が頬に当たる。
清々しい匂い。
「……探してた。」
耳に直接低い声で囁かれ、カァ…と体温が上がる。
「…っ!」
もう……
あんな、心が冷たくなるような思いは嫌なのに。
「好きだ……」
なに?
ゴンゴンゴン
『大丈夫ですかー?』
扉の外側。
やや上から、声が聞こえた。
救助は扉の前まで来ているみたいだ。
ガシャンガシャン
と、何か機材を動かすような大きな音。
『聞こえますか?危ないから、扉から離れて下さい!』
「はい!」
翔に肩を掴まれたまま、暗い中を扉から奥へと移動する。
ガシャン——ガシャン——
閉ざされていた扉の隙間。
パァ……ッと漏れだす眩しい光。
エレベーターの外側、頭の位置に3階の床が見えた。
消防士の男が二人テキパキ降りて来て、一人が脚立を固定し、もう一人は『歩けますか?』と聞きながら近づいて来た。
「大丈夫です。」
「大丈夫。」
返事をしながら、チラッと隣に立つ翔の顔を見上げる。
明るい電灯の下、昔と変わらずイケメンだ……
さっきのあれは……何だったんだろうか。
空耳?
梯子を上がる翔の背中を見送り。
それに続いて梯子に手をかけ上る。
と、先に上がった翔がオレに手を伸ばしていた。
「健太くん!ほら…」
ああ、悔しい……
こんな所も好きだった。
だから会いたくなかった。
絶対に、また好きになるって分かっていたから。
翔の優しさは……キツい。
「うん……」
伸ばされた手に掴まえられる。
オレは不本意ながらも…翔に引き上げられた。
11時。
オレ達は
やっと、せまいエレベーターの中から出る事が出来た。
——————————————
ゴ————ン————
ゴ————ン————
ゴ————ン————
どこからか、除夜の鐘の音が聞こえてくる。
表通りに面したこのビルの正面玄関は、エレベーターを降りるとすぐの位置にあるが、それを使えない今の状況では、ビルの外側に付いた非常階段を使うしかなかった。
カンカンカン
カンカンカン
無機質な響きを立てながら、足早に3階の非常口から階段を降りる。
疲れた……
救出されてやっと出られた外は、大晦日だというのに消防車の回転灯が無音で回り、大勢の人がビルを見上げている様子が見えた。
多分さっきまでの物々しいサイレンの音に集まって来たんだろう。
とても厳かに新年を迎えるような雰囲気ではない。
野次馬の中には、寒々しい部屋着とサンダル履きの人も見えたが、テレビでも見ててサイレンの音に慌てて出てきたのだと推測出来る。
そんな軽装の人達は、火事ではない事に安心したのか、寒そうに首を竦めて引き上げ始めているようだった。
このビルは駅が近くて商業・公共施設の密集地にあるが、一本裏道に入ると昔ながらの民家が軒を連ねているから。
そんな場所で、大きなサイレンの音が聞こえてきたら、そりゃ心配になって飛び出すよな。
はぁ………
今は一刻も早く家に帰りたい。
殺風景なオレの部屋、あそこが天国のように思えてくる……
『……探してた。』
『…好きだ……』
真っ暗なエレベーターの中、腕を取られて引き寄せられた。
息使いを耳元に感じながら、囁かれた。
腹が立つ。
今さら、何を言ってるんだ。
アイツは!
腹が立つ……
アイツにも腹が立つけど、ちょっと嬉しい気持ちになってしまった自分にも腹が立つ!
今更……
いまさら……何だ……
両手をダウンジャケットのポケットに突っ込み、階段の最後の一段を降りた。
騒がしい野次馬の一団の中に、紛れ込もうとした時。
カン・カン・カン・カン
「健太くん!!」
階段を段飛ばしで降りて来るような音が響き、大きな声で名前を呼ばれた。
はぁ——見つかった。
アイツが保険会社の人と話をしている隙に抜け出したのに。
無視して早歩きをすると
「健太くん。待って!!」
と、肩を掴まれた。
ハァハァ息を整えながら、翔は『間に合った…』と呟く。
こうやって、心をかき乱す。
待ち人がいる翔。
今は、NYに行ってるかもしれないけど、いずれ帰ってくるんだ。もう一度自分の心に言い聞かせる。
人の恋人に手を出そうとは思わない。
オレは男だけど、翔をそういう目で見ている時点で、翔の相手を傷つけることになる事が明白だからだ。
——3年前とは状況が違う。
あの頃は翔は、付き合ってる人はいないって言っていたし、オレも安心して押せ押せでアプローチしてた。
このまま、翔と一緒にいたらまた好きになって、
また——
男は無理だと言われるのが怖い。
はぁ……
なんで追いかけて来るかなぁ。
「何?オレ早く帰りたいんだけど。」
なるべく冷たく聞こえるようにしてみるが、翔はそんな事を気にするでもなく、オレの肩に手を置いたままハァハァと息を整えた。
「話が、したい……」
「オレは、ないから!」
掴まれた肩を振りほどこうとすると、振り上げた手を掴まれた。
「怒んないで聞いて!」
「なんの話があんだよ!」
「もう一度、付き合って欲しい……」
……は?
鼓動が高まる。
ドキドキとして、口の中が緊張で乾いてくるようだ。
「何言ってんの?」
勝手な……
驚いて翔の顔をマジマジ見ると、ふざけているようでも、からかわれている訳でもなさそうだ。
真面目な顔をして、真っ直ぐにオレを見つめてくる大きな瞳。
「ずっと健太くんと、もう一度会いたいって思ってた。会ってやり直したいって。あの時、俺は逃げたんだ。男同士の恋愛について色々考えて、先が見えないって思って、引き返すなら今しかないって、元カノの誘いに乗ったんだ。」
「都合の良い事言ってんじゃねーよ。そのまま、ノーマルに生きてろよ。無理にコッチに来る事ねーじゃん。」
掴まれた手を振りほどく。
振り返った拍子に気が付いた。
さっきから、大声で話をするオレ達はちょっとした注目の的になっている。
ビルの前の道には、まだ大勢の人がいたんだった……
偏見や蔑み。
そういった事を恐れて、自分を偽ってずっと生きてきた。
不特定多数の、様子を伺うような視線の前で、自分がマイノリティだと知られたくない。
一刻も早くこの場から逃げないと——
「翔は、翔の世界で生きろよ。オレにはオレの世界があるんだから。」
小声で、頼むように翔に言う。
オレは少数派かもしれないけど、これがオレなんだって気持ちで生きてるんだ。
これ以上、かき回さないで欲しい……
本当のオレをさらけ出せるのは、あの頃行っていたゲイ達が集るバーだけ。
それだけで良い。
それで、良かったんだ……
ああ……くそっ。
本当に、ノンケを好きになるモンじゃねーな!!
「……オヤスミ。良いお年を!」
そう言って片手を上げると、翔は信じられないといったような表情をしていた。
凛々しい眉を寄せて、つぶらな瞳を大きく開いて……
その顔を、無言で睨んで…背中を向ける。
これで……
本当に別れられる。
気持ちに踏ん切りがつく。
3年前のあの日、ちゃんと別れていなかったから今まで引きずってた事に気付かされた。
これで、やっと。
前を向いて行ける。
目に力を入れて、溢れ出しそうな涙をこらえた。
「健太くん!!」
再び、翔が大きな声で名前を呼んでいる。
帰りたい、早く……
早く帰ろう……
「健太くん!オレ……女の子でも、勃たなかったんだ!!」
「はぁ?」
——咄嗟に振り返った。
翔は、手袋をした手をギュッと握りしめて、オレに向かって叫んでいた。
真剣な顔。
周囲にいる人達の、ギョッとしたような表情も見える。
「だから!女の子でも……」
慌てて翔の側に走り寄り、飛びかかるようにして翔の口を手で塞ぐ。
バカだ……
バカだ……コイツ。
道の往来でする話じゃないだろ!
「バカ!!ちょっと来い!!こんな所で何言ってんだ。」
ビルの騒ぎを見にきた人達だけでなく、駅前通りというだけあって、初詣に向かう人達なども、ビルの前の道にはいるのに!!
翔の腕を掴むと、大急ぎでビルの隙間の細い路地へ引っ張った。
信じられねーって、翔!!
——————————————
路地を抜けた、裏通りにある月極の駐車場まで歩く。
表通りの車の音も、ここまで来るとあまり聞こえてこない。
ホッとして初めて、翔の腕を掴んだままだった事に気が付いた。
慌てて引っ張っていた手を離す。
「バカじゃねーの?大勢の人の前で告白するような事じゃねーだろ!」
息切れを抑えて一気にまくし立てると、翔はハァハァと息を整えながら両手を膝につき
「話がしたい…んだ!」
と言って、オレを見上げた。
「あの野次馬の中に、自分とこの客がいたらどうすんの?」
「あっ…やっべ!聞かれたかな?」
「知らねーよ。オレなんて巻き込み事故だ!」
普通に立っているだけでも人目をひくイケメンが、あんな沢山の人の前で『女の子でも勃たなかった』ってマジかよ…って話だ。
これがイケメンじゃなくても、オレだったら好奇心でちょっと顔を見たくなる。
患者さんだったら耳を疑うだろうし、実際に野次馬の中でオレ達をガン見している女性だっていた。
「健太くん……オレ……」
翔が何か言いかけた時…
「ゴホン!ゴホン!ゴホン!」
不意に、明らかに白々しい咳払いがどこからか聞こえた。
ヤバイ
人気はないけど、住宅密集地だ。
話し声は案外反響して目立ってしまう。
「………あのさ。オレん家、駅の裏側なんだけど…来る?」
深い意味はないって聞こえるように、軽い口調で言うと。
翔は、オレの顔を真っ直ぐに見つめて、神妙な顔で頷いた。
—————————————
オレの住んでいるアパートは、壁に蔦が這う趣のある佇まい。
いや…正直に言うと、近所からは〈お化けアパート〉と呼ばれている。
住めば都って言葉があるように、ここでの生活に不満はない。
なんたって、駅近なのに家賃が安い。
独立して駅前に事務所を構えた時、住まいは少々遠くても仕方が無いって思っていたけど、こんなに近い場所に格安で住居を借りる事が出来た。
それに、扉は案外しっかりしてるし、廊下の古い型のランプシェイドはアンティークでオシャレだ。
所々に凝った細工を施したアイアンや彫り物など、モダンな造りは明治とか大正時代の建物の様で結構気に入っていた。
実際は、昭和に建てられた物らしいけど、施工主は相当なオシャレなんだと思う。
独身の男が住むには十分な物件。
そこの2階の奥の部屋がオレの部屋だ。
階段を靴音を響かせて上がっていると
ずっと聞こえていた除夜の鐘に、意識が向いたのか
「この辺にお寺ってあるの?」
ここまでの道中、ずっと黙っていた翔が初めて話かけて来た。
そういえば…今日は大晦日。
あまりにも色々な事がありすぎて、すっかり忘れていた。
「よく知らないけど…1駅先の寺に初詣に行くって、得意先の人が言ってたから…その辺りにあるんじゃね?」
「そうなんだ…」
と返事をしながら、翔は何かしら考えているように真剣な顔をしている。
今更だけど…
家の人がNYに行ってるって、言ってた事を思い出した。
でも、『女の人にも勃たなかった』って言ってたし『もう一度…付き合って欲しい……』とも言われた。
レトロな鍵穴に鍵を差し込んで後ろを振り返ると、怖いくらいに真面目な顔をした翔と目が合った。
何だか……不思議だ……。
翔を忘れる為、心機一転で移り住んだこのアパートに、翔を連れて来ている。
扉を開けて、手探りで壁のスイッチを入れると、バチンと大きな音の後チカチカしながらぼんやり明かりが点った。
翔を中に招いて扉に鍵をかけた……その時。
「ごめん!!」
大きな声。
翔が、突然オレに向かって頭を下げた。
土下座でもするんじゃないかって勢いだ。
「3年前、健太くんを傷つけて本当にごめん!!ここへ来るまでの間、どうやって許してもらおうかって考えていたけど…正直に話をするのが一番だと思って…」
「翔……とりあえず、部屋に入ってよ。」
「でも…オレは健太くんに…」
「いいから!寒いから入って!」
言いながら顔を上げさせ、奥の部屋へと背中を押す。
狭い玄関でする話じゃない……
支えた翔の身体は冷えきっていた。
ヒーターの電源をオンにしたついでに、部屋を占領するこたつの電源も入れる。
「部屋が古いからさ…温かくなるまでに時間がかかるんだ。こたつにでも入ってて……」
「……」
無言でこたつに入った翔の顔色は悪かった。
相当身体が冷えきっていたし、思い悩んだ顔をしている。
ダウンを脱いで、定位置のハンガーにかけ、その足で玄関に入ってすぐのキッチンへ向かった。
とりあえず、冷えた身体を温める方が先決だよな。
そう考えて、お湯を沸かしてインスタントのコーヒーの粉をマグカップに入れた。
なんだか、昔に戻ったみたいで不思議な感じがする。
昔。ウチに来た翔には、まず初めにコーヒーを出していた……
「健太くん、何か手伝おうか?」
不意に声をかけられてビクッとする。
顔をあげると、コートを脱いだ翔が手持ち無沙汰気味に立っていた。
ああ…こんな所も変わらない……
3年間の空白がなかったみたいに…あの頃と同じセリフにドキドキする。
「いや……コーヒー飲む?」
「うん……ありがとう。」
「座ってて…お湯、すぐに沸くから…」
「うん……」
言われるまま引き返す、翔の背中を見送りながら、なだらかな肩が可愛く思えてた事も思い出した。
「どうぞ!インスタントしかねぇけど……」
「十分だよ。ありがとう……」
マグカップを両手で持ち、何か思案中の翔。
たぶん……さっきの話の続きをする最初の言葉を思案してグルグルしてる事は分かったから…
「結婚したんじゃねぇーの?NYに行ってカウントダウンしてるのって翔の家族の事だろ?」
…と、話をふってみた。
オレの質問に、翔はバツの悪そうな顔をして
「……うん」と呟いた。
翔の、その一言に心が冷たくなってくる。
その『うん』がどの質問に対する答えなのかは分からないけど、一つだけ分かったのはオレが翔の前にフラフラ出ていってはいけないって事だけだ。
「でも…NYに行っているのはウチの両親。今、離婚調停中で実家に帰ってるんだ。」
「結婚……したんだ?」
「ごめん……」
「いや……謝る必要は……」
淹れてきたコーヒーを一口飲む。
苦みばかりが際立って、何の味も分からない……
オレ、ちゃんと笑えてるかな。
気にしてないってフリは得意のはずなのに、心がドンドン冷たくなってくる。
「健太くん…好きだ。3年間、ずっと忘れた事はないよ。」
こたつの上、前のめりになった翔に、ガシっと両手で掴まれた。
マグカップに淹れたコーヒーが振動で少し溢れる。
「彼女とは勃たないんだ。夫婦関係も冷えきってる。子どもをって言われるけど、無理なんだよ。オレの心の中には、3年前からずっと健太くんしかいなかったんだから!」
「チョット待てよ!元カノとヨリを戻すって、指輪を買うって嬉しそうな顔してた事忘れんなよ。」
「嬉しそうな顔はしてない。でもあの時は、自分の本当の気持ちに気が付いて怖くて彼女に逃げたんだ。健太くんの事が好きな自分に。」
「女の子専門だから、仕方ないだろ?」
「お願いだから聞いて!健太くんが好きだ。今日会えるなんて、もう逃がしちゃいけないって結構必死だよ?ずっとずっと探して……」
「信じられない!信じないぞ!!」
翔の言葉をぶった切るように、言い切る。
勃つとか、勃たないとかが問題なんじゃない…
あの時……
例えエッチが出来なくても、オレは良かった。
でも——
連絡がつかなくなって、やっと会えたと思ったら、元カノとヨリを戻すって言われたんだ。
3年前と違って、オレだって自分が可愛い。都合の良い人間にはなりたくない。
「……見て!」
翔はそう言うと
おもむろにポケットからゴソゴソとスマホを取り出し、慣れた仕草で画面をスクロールし始めた。
そして、オレの目の前にズイッと差し出す。
「……え?」
無理やり、目の前に差し出されたスマホの画面。
そこに写っているのは、笑っているオレ。
いつだったか——
新しい機種にしたから撮らせてと言われて、あれは一緒に食事に行った時だったか。
「健太くん、本当にごめん。この3年間、どんなに傷つく事があったりヘコむ事があっても、この画像をみて乗り越えて来た。いつか健太くんと会えますようにって願ってた。これだけが、オレの幸せだった日を思い出す物なんだ。オレ健太くんじゃなきゃ、ダメなんだ。」
身体を乗り出してきた翔に、
ぎゅっ……
と、息が止まりそうになるほど抱きしめられる。
耳元で囁かれる甘い声…
翔の温かい体温、匂い、息づかい。
「健太くんがいいんだ……」
ヒーターのゴーゴーという吹き出し音がやたら大きく聞こえる。
ダメなのに……
オレが翔の前にフラフラしてちゃ、ダメなのに……
耳たぶを軽く噛まれ、首筋に唇が這う。
ゆっくりと押し倒される身体。
足にグイグイと当たる……
翔の高ぶり——
「健太くんが…好きだ………」
ごめんなさい……
オレは……
まだ見た事もない翔の奥さんに、心の底から謝りながら……
翔の背中に、手を回した。
息が止まりそうな激しいキスに夢中になり、
太ももに当たる覚えのある熱い塊を感じながら、願う。
どうか……
翔が正気に戻って『無理だ』と言いませんように……と。
オレの傷は、考えてた以上に深いみたいだ。
羽目を外して押せ押せで遊んでいた頃は、どんな相手でも落とす自信があったのに。
目を開けると……
至近距離で見つめる、熱っぽい欲を含んだ視線。
「健太くんが好きだよ。この3年間、知らないオトコが健太くんと付き合ってるって考えただけで嫉妬で、どうにかなりそうだった」
低く響くような声で囁かれる。
再び…唇を重ねながら、優しい仕草で髪を撫でられた。
「……そんな事してねぇーよ」
「……そうだね」
確かに——
翔を口説く前は、関係がダメになったら次の誰かを直ぐに探したと思う。
——でも、それが出来ないほど、失恋は堪えた。
幸せになって欲しいと願いながら、別れたらいいのにと、チラッと浮かぶ自分の汚れた気持ちに自己嫌悪する日々。
オレはフェミニストではないけど、女性は大事にするべきだという考えだから。
男が好きでも、女性が敵とは思わない。
ウチの母ちゃんは、全身全霊でオレを育ててくれ愛情を一杯に注いでくれたし。女性には尊敬すべき点はたくさんある。
だから——
奥さんから奪うという行為は、オレの中では有り得ない事だったはずなのに……
それは、いくら夫婦関係が良くないとしても、だ。
翔の背中に手を回していながら、どんどん気持ちが冷めてくる。
冷静になれ、オレ。
自分の一時の快楽のために、裏で何人の人が泣く?
奥さん——
翔の両親——
シャツを捲られて、翔の熱い唇が腹から胸へと移動する。
「好きだよ……健太くん。」
囁かれる、愛の言葉。
気持ち良い、ずっと欲しかった物だ。
でも——
「ごめん………」
「………何?」
いきなりオレがグイッと翔の身体を押したから、顔を上げ驚いた顔をしてオレを見ている。
煌々と眩しい明かりの下。
赤く艶やかな唇が、なまめかしい……
「翔ごめん。オレが勃たない……」
「え……オレ、そんなに下手?」
動揺したように身体を起こす。
オレの顔を真っ直ぐ見つめ、眉を寄せてオレの答えを待っている。
「いや、下手じゃない。気持ちの問題。」
オレの太ももを跨ぐように、押し付けられた熱い塊は熱をもち続けていた。
やりたいだけの男だったら、ストップをかけても無理やりに突っ込まれる事もある。けど、翔は頭で考えられるジェントルマンな人だと思うから、
厚みのある胸に手を置いて、顔をそむけた。
「悪い。どうしても、奥さんに申し訳ないって気持ちが出てくる。」
「大丈夫だって……」
「なにが大丈夫な訳? いくら夫婦関係が最悪って言っても、翔は結婚したんじゃんその責任持てよ。こういう事って、やっぱり良くない。」
「だから、大丈夫なんだって、健太くん。」
翔はそう言うと
「あち…っ。ヒーター切っていい?」と聞いてきた。
「いや。止めて、オレが寒みーから……」
捲られて、腹が出ていた服を引き下ろして翔の下から抜け出す。
上に乗っていた翔も、つられるように横にずれてオレから離れた。
横の空いてる布団からコタツに足を入れ、身体を丸めるようにしてオレを見つめている。
オレだって男だから、翔が中途半端な状態で我慢してるって事くらい分かる。
でも、ちゃんと話を聞く姿勢を見せてくれた優しい翔。
こんな所も凄く好きだ……
「……離婚するよ。」
その一言に身体が強ばる。
オレは、それを望んではいない。
「いや、止めて!早まるなって!それにさ、数時間前に久しぶりに合って、それも偶然に合って、そんな事を口にするなよ。オレ、コーヒー淹れ直してくるから……」
マグカップを2つ、上から掴むと、それに重ねるようにして翔の手が伸びてきた。
「彼女はね。他の相手がいるんだよ。もう、そいつとずっと一緒暮らしててさ。オレが離婚書類に印鑑を押さないだけ。」
「はぁ?」
他の相手?
印鑑を押さないだけ?
「だってさ…オレの事を『不能だ!』『騙された!』とかって散々バカにして、自分は本気で好きになった人が出来たから別れてくれって。自分だけが幸せになろうって、虫が良すぎない?だから意地でも印鑑押さなかったんだ。」
「あのさ。オレに、意味が分かるように言って?」
「だから。オレが離婚届に印鑑を押したら、彼女はホッとして健太くんに感謝するって話。」
「……はぁ。」
つまり……
翔は、結婚をしたけど、奥さんとはエッチが出来なくて『不能』って言われて、
その奥さんは、すでに他の男性と暮らしていて離婚を望んでいる
けど、翔が奥さんだけが幸せになるのが悔しくて離婚してない……って事だよね?
それって、お互いに最低じゃないか?
「オレの事が好きでもないのに『医者』ってブランドだけで結婚した子だしね。自分の浮気は棚に上げて、ウチの親の家をわざわざ訪ねて行って『お宅の息子さん不能なんですけど』って言うってなくない?親は『早く離婚しろ』ってずっと言ってるよ。」
「……でも、縁あって結婚したんだろ?きちんと責任取れよ。」
「ごめん。あの頃、仕事のストレスが凄くて、正直なところ誰でも良かったんだ。オレが一番リラックス出来たのは健太くんだったけど、オレには健太くんを選ぶ覚悟はなくて。とりあえず結婚すれば、家庭がリラックスの場になるからって、周りに言われてそんな物なのかって……」
「…………」
「そんな曖昧な状態で、本当は結婚するべきじゃなかったんだ。最初っからお互いに気持ちがない結婚だったんだよ。結婚後のゴタゴタは、オレに与えられた罰だと思ったよ。自分の気持ちから逃げて、健太くんに酷い事言って。それでも、健太くんなら友だちとして受け入れてくれるはずって都合の良いこと考えてた。健太くんと連絡がつかなくなってからは、スマホの画像だけが心の支えだったんだ。」
そう言って、申し訳なさそうに笑った。
何となく、釈然としない気持ちに、二の句が告げれない。
「ごめん。でも、ずっと…探してた。健太くんが好きだ……」
甘い甘い表情。
握られた手は、いつの間にか両手で包み込まれていた。
初めて見たときから、好みのど真ん中だった。
世間からはちょっとズレた感覚も、優しい所も、少し意地悪だなって所も、ほっとけない所とかも全部、あの頃と変わらない翔が好き。
でも——
「……無理!!」
キッパリと言い切り、手を横に振って、重ねられた翔の手を外す。
「帰ってくれない?オレも悪かったよ。流れでキスしちゃったけど、やっぱり間違ってる。ゴメンゴメン。」
「健太くん、オレは!」
悲しそうな。そんな、捨てられた犬みたいな目で見るなよ……
これはオレの中の意地。
『健太くんなら友だちとして受け入れてくれるはず』だ?そんな都合の良い関係まっぴらだ。
言葉のアヤだろうが何だろうが、そんな曖昧な状態で、フラフラするなっていうんだ。
翔も苦しんだかもしれない。けど、それ以上にオレは傷ついたんだ。
んな簡単に、はいそうですかって話じゃねーし!
コタツから抜け出して立ち上がり、畳の上に置いてあった翔のコートを掴んで、ズイッと目の前にさし出した。
「勃ったら良いってモンじゃねーよ。誠意ってモンがあるだろ?バカにすんなよ。何もかも中途半端なまんまで、また半端な事すんのかよ!」
「健太くん……」
「翔、帰ってくれない?オレ、出かける予定があるんだ。」
「…………」
出かける予定なんて、嘘だ。
そんな物はないけどこれ以上、一緒にいたら流されてしまう事は楽に想像出来るから。
翔は、オレが差し出したコートを無言のまま受け取った。
戸惑ったような顔でそれを着ると、何も言わず玄関に向かう。
靴を履いた翔が、オレを振り返って——
「また…来るから……」
と呟いた。
開く扉。
泣きたいのか——
笑いたいのか——
自分でもよく分からない気持ちに戸惑いながら、部屋から出て行く翔の背中を見送った。
なだらかな肩を見るのも、これが最後かもしれない——
自分がどうしたいのか、どうなりたいのかも分からない。
考えたくない……
もう傷つきたくない。
何気なくキッチンに置かれた時計を見ると、年が明けていた。
それが——
あの夜の、大晦日の夜の出来事だ。
————————————
年が明けて——1月5日。
明日から通常の仕事始め。
得意先へ新年の挨拶回りをして、年明け納品分の原稿を再チェックして……
明日からの仕事の段取りを考えながら、3年前は毎日のように通っていたバーの扉を引いた。
翔と別れた後、夜明けまで歩いて実家に戻った。
(夜通し歩いたのは初めてだった)
正月は出来る限り、親孝行に努めた。
なるべく、翔の事を考えないようにして過ごした正月だった。
何となく、自分の住処に戻る気になれなくて、ウダウダと実家で過ごし、こんな時間になってしまった。
それでも悪あがきするように、ここに来てしまった……
久しぶりに訪れたゲイの仲間が集まるバー。
カウンターの中にバーテンダーが一人、黙々とグラスを磨いている。
カウンター席には昔と変わらず常連のオネエがいて
「ヤダ!久しぶり〜何やってたの?死んだのかと思ってたわよ!」
などと言われ、意味の分からない『復活!祝い』と称してビールを奢られた。
オネエの通り名はサミーと言って、久しぶりに見た彼、いや彼女は、長髪の金髪ウエーブに目がチカチカするようなド派手な服。(既製服なんだろうか。)
本当の名前も職業も分からないけど、女装を手伝ってくれたのも彼女だった。
サミーには『アンタがネコじゃなかったら口説いてる』なんて、冗談とも本気とも取れるような事を言われた事もあるけど、オレにとっては数少ないこっち側の友人の一人だ。
サミーは翔との出会いから、オレが押せ押せでアプローチして、失恋したまでは知っている。
その後、連絡を全く取れない状況にはオレ自身がした事なので『死んだ』と言われても仕方ない。でも、本気で心配してくれていた事はその表情から分かった。
音信不通の、この3年間の事を根掘り葉掘り質問され、話がつい先日の大晦日の話になった時。
「バカじゃないの?!」
と、言われた。
途中茶々を入れながらも、オレの話を聞いていたサミーは、飲んでいたグラスをカウンターテーブルの上にゴンッと置くと。
何とも言えない顔をして、そう言った。
「だって………」
「だってもへったくれもないじゃない!!勿体ない!!」
「勿体ないって。サミーだって、ノンケの翔に手を出さない方が良いって言ってたじゃん」
「いつの話よ!アンタがアタックする前の話でしょ?せっかく『翔』がアンタが男でも好きって気になってくれたのに。アンタ……バカ?バカなの?バカでしょ!」
「バカバカ言うなよ……まだ、離婚もしてない男ってなると不倫になるじゃん。それが、嫌なんだよ」
「それで?」
サミーは腕と足を組むと、オレを真横から一瞥してポケットからタバコを取り出した。
身長が同じ位なので目線が変わらない。
いつだってサミーはこの店にいて、色々な人の相談に乗ってるようなアネゴ的な存在だった。
ついつい、甘えるような口調になってしまう。
「それでって、連絡ねぇーし」
連絡ないっていうか、連絡取れないようにしたし。
今日は1月5日。
仕事は今日まで休みにしていたが、家にいたくなくて、あの後からずっと実家に戻っていたし。
何となくサミーに会いたくて、新しい男を探すというよりは自分の居場所を探しに来たって感じだ。サミーはいつだってこの店にいたから……
「アンタの事だから、連絡先も交換しなかったんでしょ。」
「うん………」
「あ〜本当にバカ!!」
「どーせオレはバカだよ!スゲー後悔だってしてるよ。せっかくのチャンスだったのにって思ってるよ。でも、ケジメじゃん。そこはちゃんとしなきゃ……」
「まぁね。そんな所がアンタらしくて、私は嫌いじゃないわよ。んじゃ、もし…『翔』が離婚してケジメをつけて、付き合ってくれって言って来たらどうすんの?」
「もう、ねぇーよ。そんな事。」
「だから!もしよ、もし!」
「フリーになってんだったら、アリ……かな?」
その返事を聞いたサミーは、突然バンッ!とカウンターテーブルを叩いて大きな音を出し、立ち上がった。
「アリだって!!『翔くん!』」
サミーが良く通る声で、
カウンターの内側を、上から覗き込むようにして叫んだ。
「はぁ?」
ギョッとして、
オレもサミーと同じように、カウンターに身を乗り出して内側を覗き込む——
そこには……
体育座りをした翔が、笑みを浮かべて、狭い空間からオレたちを見上げていた。
「なんで……何でそんな所にいるの?」
ビックリして声が裏返ってしまう。
カウンターの下から、翔が這い出て来て、カウンターの内側でオレと向かい合う。
ちょっと待って、いつからいたの?ずっと聞いてた訳?
中は一段低くなっているから、フロア側からカウンター内側の足下は全く見えなかった。
冷や汗が出てくる……
「このストーカーくん。3年前からずっと、ここの常連なのよ〜。もう!アンタがいらないんだったら、こぉ〜んな良い男、私が貰っちゃうからね」
翔がいつの間にか『ストーカーくん』になってるし……
サミーが楽しい玩具を見つけたって様子で、テンション上げて喋る。
「え……?サミーと翔ってグル?オレを担いでたの?」
「バカ!たまたまよ。アンタが来る前に『ストーカーくん』は先に来てたの!アンタの姿が見えたから、カウンターに隠れてもらったの」
「隠れてもらったって……」
「この店のオーナーは私なんだから、好きにしてもいいでしょ?」
「えっ……?!」
長い事通っていたけど……ずっと、ただの常連だと思っていたサミーは、この店のオーナーだった。
サミーは椅子から立ち上がると、跳ね上げ式のテーブルからカウンターの内側に入り、翔の横に立った。
「ちゃんと、話しなさいストーカーくん。」
と背中を叩く。
「いや。ストーカーじゃありませんよ……」
とモゴモゴ言いながら、
促されるようにオレの前に立った翔は、見た事もないような真っ赤な顔をしていた。
相変わらずのイケメン。
一段高くなっているフロアーに上がり、オレの座っているハイチェアの前で跪くと、オレの手を取った。
「今日、市役所に離婚届を出してきました。彼女ともきちんと話をして、親にも話をしています。だから…オレと、付き合って下さい。」
「ヒュ〜プロポーズ?!」
サミーがはやし立てる……
翔の真剣な表情は、嘘を言ってるようには見えない。
正式に離婚して、
奥さんともきちんと話をして、
親にも……
……親?
頭の中でさっきの翔の言葉を反芻して、思考が停止する——
「あの、翔。親にもって?」
「ちゃんと話したよ。最後は分かってくれた。今度、健太くんを連れて遊びにおいでって言ってたよ。」
「はぁ?」
話の転回が早すぎてイマイチ理解出来ない——
確かに不倫は無理だと言った。
不倫じゃなくなるから、晴れて付き合えるんだよね。
でも——
これって、いきなりハードル高くねぇ?
「ストーカーくん。真剣に考えて、先にご両親を説得したらしいわよ。いいわねぇ〜アンタ、そんなに思って貰えて。はぁ〜暑い暑い」
サミーが手で顔を扇いでいる。
良いのか?
これって…良いのか?
「健太くん、好きです。付き合って下さい。」
ヒューヒューとサミーが冷やかす。
少し離れたボックス席にいる客もこっちに注目しているのが分かった。
恥ずかしさでクラクラしながら、
オレは握られた手とは反対側の手を、翔の上に『はい』と言って、重ねた。
————————————
【おまけ】
『何もかも中途半端なまんまで、また半端な事すんのかよ!』
オレが言った一言は、翔の心に響いたらしい——
翔の言葉を借りるなら、
『衝撃が走ったね。最高に格好良くって眩しかった。あの時オレは人生の伴侶はこの人しかないって思ったんだ』そうだ。
頭の良さとイケメン顔のおかげか、それまであまり怒られた経験がなかった翔は、オレに怒られた事で自分の驕りを改める事が出来たと言ってくれた。
心配していた身体の相性も……
うん。まぁ…スゲー良かったってことだけ報告。
恋人同士になった翔は、休みが合うとくっ付きたがる。
今日も、オレの部屋に1週間ぶりに泊りに来て、コーヒーを淹れているオレの後ろにずっと張り付いて、抱きしめられてます。
「健太くんの匂い……久しぶり……」
ちょっと変態だけど…そこも好きだったりするのは内緒。
「溢れるだろ?あっちで待ってろよ。」
「健太くん……」
近づく翔の顔。
ああ…やっぱりこの顔好き…
エッチしちゃうのかな、流されちゃうよ…オレ…
翔の上着に、そっと手を置いた瞬間——
「あっ?」
突然、大声を出された。
はぁ?何?!
目を閉じかけてたのに、ビックリする。
ドキドキと心臓が破裂しそうだ。
翔は、何故かお化けにでも出くわしたかのように、驚いた顔をしている。
「健太くん!」
ガシッと両手で押さえるように、オレの両頬を包み込み
「どうしたの…コレ?」
と、まるで責めるみたいに聞かれた。
どう考えても、甘くて強引なキスって展開とは思えない。
「何!?」
「なんで?! ココの歯が…無くなってる!!!」
翔はオレに顔を近づけて、患者さんを見るように下の歯を指でグイグイ押して確認してくる。
そこの部分は、一昨日、歯の治療に行った時
先生に勧められて、ついでで抜いた、ぴょこっと出ていた歯があった位置。
昔からあったから、自分なりに愛着があったけど
『滑舌も変わってきますよ』
って言われて、抜歯した歯があった場所。
「お…おくの……親知らず抜くついでに、抜いちゃいますか?って言われて、滑舌よくなるって…」
「……はぁ?」
口の中に入れた指抜き、両頬から手を離して翔が盛大に落ち込んだように壁に身体を寄りかからせた。
「なんだよ、抜いたらヤバイの?」
そんな説明はなかったが、翔は専門家だし、冷や汗が出てくる。
身体に良くないとか、抜いてはいけない歯とかあるんだろうか。
若干、不安になるほどの落ち込み様だ。
押さえられていた頬をさすりながらも、段々と心配になってくる。
そんなオレに、翔は呟く。
「何でそんな意味の分かんない所で治療すんだよ……」
「だって『マロンデンタルクリニック』って女の人ばっかじゃん。それに歯痛じゃ行けないかなって思って…」
「健太くんだったら、早朝だろうが深夜だろうがいつでも診てあげるのに、どうしてそんなヤブで治療すんの?」
「ヤブって…」
酷い言い方だ………
でも、オレの緊張もピークに達していた。
恐る恐るもう一度聞いてみる。
「翔。ここの歯って抜いたらヤバかったの?」
「……お気に入りだったのに。」
「はぁ?」
一瞬、聞き間違いをしたのかと思って、間抜けな返事をしてしまった。
お気に入り?
お気に入りって言った?
「可愛くて、愛しい歯だったのに。」
翔は両手で顔を覆って、盛大に嘆いてる。
理解に苦しむが、どうやら……
翔は、オレの歯がなくなっている事を嘆いているらしい。
「意味がわかんないんだけど…」
「オレみたいな仕事してるとさぁ、どうしても人の歯並びとか気になるんだけど、整然と綺麗にばっかりしてるとあの位ガチャガチャした歯が凄く可愛く思えてたんだよ」
「…………はぁ」
だんだん饒舌になってくる翔。
「だいたいさぁ……そこの歯を抜いた位で滑舌が良くなる訳がないよ。そもそも、そんな事を言われてホイホイ歯を抜いてしまうなんて……」
「うるせ——!!」
「ひっ……はい」
思いっきり、肩を上げてビクッとする翔。
そんな所も好きだったりする……
「オレと!無くなった歯と!どっちが大事?」
凄むようにして、翔を下から睨み上げる。
「はい!健太くんです。」
「んふふ……よし!!」
笑いながら、翔の首に手を回すと、
蕩けそうな甘い顔が近づいた。
——しょっちゅう、こんな感じだけど……
オレ、結構幸せです。
リスタート——(完)
読んで下さってありがとうございます。




