転生した乙女ゲームが全ルートバッドエンドだったので、悪役令嬢の私は物語の外に出ることにしました
「マリアンヌ・ド・クロワ、汝の罪を問う」
ファビアン王子の声が、頭の中で繰り返している。
学院の廊下に差し込む午後の光が、床石に長く伸びていた。
私は立ったまま目を閉じて、前世で見たゲームの最後の場面を思い出していた。
王子ルートのバッドエンド。
広間に集まった貴族たちが見守る中、ファビアン王子が断罪を宣言する。
「お前はアリアを傷つけ、この国を乱した。裁かれるべき存在だ」
返す言葉のない悪役令嬢が膝をつく。
次の瞬間、突然空が鳴って、世界が終わる。
騎士ルートも、魔術師ルートも、どれも同じだった。
バッドエンドを三周見て「なんでハッピーエンドがないんだ」とぼやきながらコントローラーを置いた大学三年の私が、翌日にはその世界の悪役令嬢として目を覚ました。
そこから三年が経つ。
廊下を歩くと令嬢たちが道を開ける。私が何かしたわけじゃない。
悪役令嬢のポジションにいるというだけで、そういう扱いになる。
私の名前はマリアンヌ・ド・クロワ。公爵家の一人娘で、乙女ゲーム「終わりなき夜のフィーネ」では悪役として設定されたキャラクターだ。
悪役を演じる気は最初からなかった。
どのルートでも最後は世界が崩壊するなら、私が何をしたって変わらない。
そう思って、三年間ひっそりと生きてきた。
「マリアンヌ様……!」
甲高い声で名前を呼ばれた。
振り向くと、アリア・シュトルンが小走りで駆け寄ってきた。
明るい茶色の髪に、大きな瞳。
この乙女ゲームのヒロイン、アリアだ。
「さっき廊下で転んでしまって、荷物が……」
「手伝いましょうか」
「いえ、その……」
アリアがためらうように視線を落とした。
「マリアンヌ様に声をかけていいのかどうか、わからなくて…」
「なんでも言ってください」
私がそう言うと、アリアがほっとしたような顔になった。
ちょうどそこへ、廊下の曲がり角からファビアン王子が現れた。
王子の目が私に止まる。それから、アリアの方に動く。
「アリア、何かあったのか」
「マリアンヌ様が声をかけてくださって……助かりました」
王子の表情がわずかに硬くなった。
私に向ける目が、少しだけ冷たい。
「クロワ公爵令嬢、アリアに何か用でも」
「荷物を手伝おうとしただけです」
「そうか」
それだけ言って、王子はアリアを連れて歩いていった。
あの短い沈黙の中に、警戒が混じっていた。
何もしていない。ただ廊下にいただけだ。
それでもこの世界では、私は悪役の文脈で読まれる。
どのルートも、バッドエンドに向かいたがっている。
その夜、眠れなかった。
廊下を歩いていた。
三年間ひっそり生きてきたはずなのに、どこかでずっとすり減っている感覚がある。
廊下の端、外壁があるはずの位置に、見たことのない扉があった。
この位置に扉があれば、向こうは城の外…落下するだけだ。
設定では、そこは壁のはずだった。
でも扉は確かにそこにあって、古い木目に金属の取っ手がついていた。
手を伸ばすと、取っ手が温かかった。
石の廊下の中にある金属なのに、まるで誰かがずっと握っていたような温度だった。
「なんだろう…」
私は扉を開けた。
続いた廊下は薄暗く、ランプの灯りが足元だけを照らしていた。
先に進むと、小さな部屋があった。
机が一つ、椅子が一つ。
机の上に積まれた紙の束、インクの染みたペン、燃え残った蝋燭。
窓はどこにもなく、普通の部屋には見えなかった。
一番上の紙を手に取った。「王子ルート:最終章」と書かれていた。
読み進めると、前世のモニターで見た場面が手書きの文字で展開されていた。
何度も書き直した跡があって、消えかけた文字の下に別の文字が重なっている。騎士ルート、魔術師ルート、全部あった。どの束も同じ言葉で終わっていた。
「——そして世界は終わった」
三束を机に戻して、一番下の紙を引っ張り出した。
原稿用紙一枚。上の端に小さく「第四のルート草案:没」と書かれていた。
メインキャラクターと思われる名前に、二本線が引かれていた。
その下に設定が二行だけあった。
「令嬢の隣に立てる人間。彼女が笑えるような結末のために存在する」
名前はエルハルト、とあった。
引き出しを開けると封筒が一通。
差出人も宛先もない。封は開いていた。
「私は、ハッピーエンドの書き方がわからない。どのルートを選んでも、最後は壊れる気がして。だから、この世界の誰にも、幸せな結末を渡せなかった。ごめんなさい」
目の奥が熱くなった。会ったことも顔も知らない。
この人がなぜこれを書いたのかも、何もわからない。
それでも「ごめんなさい」という文字が、胸に刺さったまま抜けなかった。
幸せな結末を書けなかったことを、ずっと謝っていたんだ。
誰にも届かないとわかっていながら、この小さな部屋で。
ペンを手に取った。重かった。木製で、使い込まれた手触りがした。
まっさらな紙に、続きを書いた。
「この世界には、まだ書かれていない朝がある。誰も死なない。世界は終わらない。エルハルト——あなたをここに呼ぶ」
削除線の横に、エルハルトの名前を書き直した。
インクがゆっくり乾いていくのを眺めた。
翌朝、城下町に出た。
市場が始まっていて、パンの焼ける匂いと馬の蹄の音がした。
道の真ん中に、見たことのない男が立っていた。
それはゲームでも、この世界で過ごしていた時も一度も見たことのない顔だった。
三十歳前後に見える、やや線の細い男で、荷物も持たずに辺りをゆっくり見回していた。
迷子の顔をしていた。でも焦ってはいなかった。
初めて来た場所を、落ち着いて観察しているような目だった。
足が自然に止まった。
「すみません、この辺りに宿屋はありますか?」
「通りを一本入ったところにあります」
「ありがとうございます。昨日まで、ここに来るつもりはなかったんですが、今朝起きたら、なぜか来なければいけない気がして。…変な話ですよね」
「…変じゃないです、きっとそれは…運命ですから」
男が少し目を丸くした。
「あの…良ければお名前をうかがっても良いですか?私はエルハルトと言います。」
「マリアンヌです、マリアンヌ・ド・クロワ」
エルハルトはその名前を一度小さく繰り返した。
覚えようとするみたいに、口の中でゆっくりと。
「いい名前だ」
「……宿まで案内しましょうか」
「ええ、助かります」
並んで歩き出した。石畳の上で、二人分の足音が重なった。
エルハルトは押しつけがましくなかった。
話しかけすぎず、でもちゃんと返事をした。
「この国は石造りが多いんですね」「あの塔は何ですか」と聞いてくる言葉が、観光客みたいで少し可笑しかった。
宿に着いた時、私はまだ帰りたくないという気持ちでいっぱいだった。
「よかったら、市場を案内してもいいですが」
「それは——ぜひ」
エルハルトが笑った。目元に細い線が入る、静かな笑い方だった。
それから数日、何度か顔を合わせた。
たまに城下町で会って、一緒に歩いて、話した。
それだけだったけれど、気づいたら一番会話の長い相手になっていた。
「マリアンヌ様、また例の男の方と歩いていらっしゃいましたね」
廊下でアリアに声をかけられた。
笑顔だったが、どこか目が笑っていなかった。
「お知り合いですか?」
「昨日、ご挨拶したんです。とても素敵な方で……」
そう言いながら、アリアの目が細くなった。
「でも、マリアンヌ様とばかり一緒にいらっしゃるから、なかなかお話しできなくて」
「そうですか」
「……マリアンヌ様って、本当に要領がいいですよね」
「…そうでしょうか。アリア様ほどではありませんよ」
アリアは硬い笑顔のまま、去っていった。
翌日、ファビアン王子に廊下で呼び止められた。
「クロワ公爵令嬢。少し話がある」
「はい」
「エルハルトという男と親しくしているようだが…アリアが困っていると言っていた。お前が近づきすぎているせいで、彼に話しかけられないと」
「私は何もしていませんが…」
「アリアがそう言っているだろう」
「ですが、事実として——」
「お前はいつもそう言うな、言い訳はいい」
王子の言葉が、静かに落ちた。
「令嬢としての自覚があるなら、少し身を引け」
返す言葉が浮かんで、消えた。
この会話は、台本にあった気がした。
こういうシーンが、どのルートにも挟まっていた。
数日後、断罪の場が設けられた。
広間に貴族たちが集まっていた。王子が玉座の手前に立って、私に向き直った。
「マリアンヌ・ド・クロワ、汝の罪を問う」
あのゲームのラストシーンと同じ言葉だ。
手が震えた。それでも足は動いた。
「アリア・シュトルンの証言によれば、汝はエルハルト氏を独占し、彼女が接触できない状況を意図的に作り出した。さらに使用人を通じてアリアへの嫌がらせを行ったとのことだが、申し開きは」
「ありません」
「ない?」
「ええ。ただ、事実は違います」
広間が静まり返った。
そこへ、エルハルトが前に出た。
「失礼、私も場に加えてください」
王子が眉を上げた。「エルハルト殿、あなたは——」
「当事者でもありますから、良いですよね?」
エルハルトの声は落ち着いていた。広間の貴族たちが、ざわりと動いた。
「マリアンヌ様が私を独占したという話ですが…毎回お声がけしたのは私の方です。彼女が断れなかっただけで、独占の意図はなかった。それから、使用人への指示については」
エルハルトがアリアの方を見た。
「アリア様の使用人のリーザという方が、実際には誰の指示を受けていたか、証言していただけますか」
広間の端で小さな悲鳴が上がった。使用人の女性が、膝をついていた。
「……私は、アリア様から指示を受けました。マリアンヌ様のせいにするよう、と……」
アリアの顔から血の気が引いた。
「嘘……嘘です、私は関係ありません!あの使用人がでまかせを言っているだけです!」
「アリア様」
エルハルトが静かに言った。怒ってはいなかった。
ただ、まっすぐに見ていた。
「この国のことも、貴方たちのことも、私は最近来たばかりで何も知りません。でもひとつだけわかったことがある。マリアンヌ様は…あなたが思っているような人じゃない」
広間が、しんと静まった。
私は一歩前に出た。
足はまだ震えていた。それでも、声は出た。
「アリア様。私はあなたを傷つけるつもりで動いたことは、三年間、一度もありません」
アリアが唇を噛んだ。
「この物語のヴィランは…最初からあなた自身でしたよ」
「ぐ、ぐぅ……私は…私は!」
アリアは今まで見せてきたのと別人のように悔しそうに顔をぐちゃぐちゃにし、扉を大きな音を立てながら出ていった。
「ア、アリア!待て!」
ファビアン王子はその後を追っていった。
城の外に出た。
夕暮れの石畳に、二人分の足音が重なった。
「怖かったですか」とエルハルトが聞いた。
「…ええ、少し」
「手がずっと震えていました」
「でも…はっきり声は出ていましたよ」
エルハルトが隣を歩きながら言った。
それだけで、胸の奥が少し軽くなった。
「エルハルト」
「はい」
「あなたは——いつか、自分がどこから来たか、思い出すかもしれない」
「思い出したとして、どこかへ帰りたいかというと……今のところ、ないですね」
空が橙に染まっていた。
「きっとこの世界のシナリオには、悪役令嬢の恋愛ルートはなかったんです」
「では——」
エルハルトが立ち止まって、こちらを向いた。
「一緒に書きませんか?あなたのためだけのエンディングを」
私は少し笑った。
こんな顔ができるとは、転生してから一度も思ったことがなかった。
「……ええ。書きましょう」
ゲームに攻略対象は三人だった。
悪役令嬢の恋愛ルートなど、存在しなかった。
でも私は昨夜、削除線を消した。
エンディングはどこにも書いていない。
今から、彼と作っていく。
【終】




