ひだまりの城
柔らかな朝の光が、遮光カーテンのわずかな隙間から細い帯となってベッドに伸びていた。重たいまぶたをゆっくりと押し上げると、微かにひんやりとした朝の空気が頬を撫でる。まだ少しぼやける視界のなかで、隣の温もりがすでに身を起こしていることに気がついた。
「あ……おはよう、優子」
透き通るような、甘く穏やかな声が頭上から降ってくる。
寝返りを打って見上げると、窓際で背もたれに寄りかかりながら、こちらを見つめる健介と視線がぶつかった。
朝の鋭い光を浴びた健介は、何度見ても息を呑むほどに美しい。元々色素の薄い彼は、まるで丹念に磨き上げられた上質な陶器のように白く滑らかで、窓からの光を反射して淡く発光しているかのようだ。私は瞬きをして、窓際の彼を見つめなおした。色素の薄い茶色の髪は朝の光をやわらかく透過し、長い睫毛が白い頬に落とす影すらも芸術品のように整っている。同い年であるはずなのに、時々彼が人間離れした、神聖な生き物に見えることがあった。
私はベッドの中の彼の体にそっと触れた。優しい笑顔とは裏腹に、ごつごつと硬い彼の体を撫でるたび、たまらない気持ちになる。
「よく眠れた?」
彼の声はどこまでも深く、静かな愛情に満ちていた。
「うん……健介が、いてくれたから」
私は呟きながら彼の胸元に顔を埋めた。健介特有の、清潔で少しだけ甘い香りが鼻腔をくすぐる。
この場所だけが、今の私にとって唯一の安全な場所だった。
外の世界では、今日もめまぐるしく社会が動き出し、誰もが自分の役割を果たそうと急ぎ足で歩いているはずだ。けれど、私はその輪の中から外れて、もうずいぶん経つ。ある出来事をきっかけに心が壊れてしまい、毎日のように通っていた職場へ行くことはおろか、時に玄関のドアを開けることすらも困難になってしまった。社会という大きな船から振り落とされ、一人だけ時間の止まった暗い海の底に取り残されているような感覚。
健介は、そんな私を決して責めず、ただ静かに隣にいてくれる。彼の白く美しい体に触れていると、自分がひどく醜く、ちっぽけな存在に思えてしまう夜もあった。
完璧な朝、健介の底なしの優しさに触れれば触れるほど、ふと恐ろしい想像が頭をもたげてしまう。
「……ねえ、健介」
私は彼の指先に触れ、すがるようにきゅっと握りしめた。
「どうしたの?」
彼の美しい声が私に尋ねる。
「私……ずっとこのままなのかなって。時々、すごく怖くなるの」
絞り出すようにこぼれた声は、情けないほど震えていた。言いたくなかった。せっかくの穏やかな朝を、私の仄暗い感情で台無しにしたくなかった。それでも、口をついて出た言葉はもう止められなかった。
「仕事もしていないし、毎日こうして健介に甘えてばかりで……。いつか、健介の負担になって、呆れられて、見捨てられちゃうんじゃないかって。私だけの時間が止まっていて、これからの将来が、ちっとも見えないの」
私の言葉を静かに聞いていた健介は、ため息をつくことも、困った顔をすることもなく、ただ、微笑み続けてくれた。
「優子」
頭上から降ってくる声は、彼の白い体の冷たさとは裏腹に、ひだまりのように温かかった。
「不安になんて、ならなくていいんだよ」
彼の手が、私の背中を優しく撫でてくれた。それはまるで、怯える子供をあやすような、絶対的な安心感に満ちていた。
「焦らなくていい。急いで答えを出そうとしなくていいんだよ。優子のペースで、息ができる歩幅で、少しずつ進めばいい。俺はどこにも行かないし、優子を負担に思ったことなんて一度もないよ。見捨てたりなんて、絶対にしない」
私は体を起こして、彼の顔をじっと見つめた。至近距離で見つめ合う彼の透明な瞳には、私への確かな愛情だけが揺るぎなく映っていた。
「だから、未来のことでそんなに自分を追い詰めないで。今日一日を、無事に息をして過ごす。今はそれだけで十分偉いんだから」
その言葉に、張り詰めていた心の糸がふっと緩み、目の奥がじんわりと熱くなった。
「ありがとう……」
私が涙声で答える。彼は変わらない笑顔で、私を見つめ返してくれた。
「どういたしまして。……さてと。俺だって、ずっとこうして優子を抱きしめていたいのは山々なんだけど」
彼は少しだけ口調を変えて、私に囁いた。
「優子、今日は月に一度の病院の日でしょ? 先生との約束の時間、このままだと遅れちゃうよ」
現実へと引き戻すその言葉すらも、彼が言うと冷たさを感じない。
月に一度の、PTSDの治療。それは、今の私が外の世界と繋がり、ほんの少しだけでも前に進むための、小さくて重たい一歩だ。
「……うん。起きる」
私が小さく頷くと、健介は「偉いね」と、ひときわ輝くような笑顔を向けた。
「朝ごはん、温かいスープがあるから。一緒に食べて、準備しようか」
不確かな未来は、まだ暗闇の中にある。けれど、隣にはこの白く美しい光のような存在がいてくれる。私は深く息を吸い込み、彼の温もりを胸に刻みながら、ゆっくりとベッドから降りた。新しい一日が、始まろうとしていた。
名前を呼ばれ、私はゆっくりと診察室のドアを開けた。
特有の消毒液の匂いと、静かに響く空気清浄機の稼働音。月に一度訪れるこの空間は、外の世界から切り離されたような独特の静けさがあり、入るたびに少しだけ呼吸が浅くなるのを感じる。
「こんにちは、優子さん。その後、体調はいかがですか?」
デスクの向こう側で、穏やかな声が私を迎えた。担当の精神科医は、いつもと変わらない柔らかな笑みを浮かべてカルテを見つめている。
私は用意された丸椅子に浅く腰掛け、膝の上で少しだけ手を握り合わせた。あの出来事以来、フラッシュバックや急な動悸に襲われる夜はまだある。それでも少しずつ、本当に少しずつだが、絶望の淵にいた頃よりは波が穏やかになりつつあると感じていた。
「……少しずつですが、良くなっていると思います」
私は慎重に言葉を選びながら答えた。
「夜も、前よりは眠れる日が増えました。それに……」
「それに?」
先生が優しく先を促す。私は少しだけ緊張を解き、一番の報告を口にした。
「最近は、少しだけ外出もできるようになったんです。健介が……恋人が一緒にいてくれるおかげなんですけど。近所を散歩したり、この間は一緒に映画を観たりすることもできました」
その言葉を出した瞬間だった。
「そう、ですか。健介さんが……」
先生の動きが、ふと止まった。ペンを持っていた手が空中で静止し、それまで浮かべていた温厚な笑みが、まるで薄い氷がヒビ割れるように一瞬だけ崩れ落ちたのだ。
目の奥に浮かんだのは、戸惑いか、憐れみか、それとももっと深く冷たい何か——明らかな『不穏』の色だった。室内の温度が急に数度下がったような錯覚を覚え、私の背筋をぞわりとした冷たいものが撫でる。
え? と私が息を呑みかけた次の瞬間。
「……それは、素晴らしいことですね」
先生は瞬きを一つして、再びいつもの穏やかな医師の顔に戻っていた。声のトーンも、表情も、何もかもが完璧に元通りだった。
「外出への恐怖心が和らいできているのは、とても大きな進歩です。焦らず、その調子でゆっくりと慣らしていきましょう」
優しく紡がれる言葉の連続に、私は先ほどの違和感が自分の見間違いだったのではないかと思い始めていた。私の精神状態がまだ不安定だから、先生のちょっとした表情の変化を過剰に受け取ってしまっただけなのだろう。
「……はい。ありがとうございます」
その後は当たり障りのない薬の確認や睡眠状態の問診が続き、診察は滞りなく終了した。
「お大事に」という声に見送られ、診察室の重いドアを閉める。
ほっと息を吐き出して待合室に目を向けると、少し離れた長椅子に、見慣れた姿があった。
健介だった。
待合室の椅子の上で、窓から差し込む光が彼を照らし出し、その透き通るような白い体が、無機質な待合室の空気の中でそこだけ浮き上がっているように見えた。改めて、ため息が出るほどに美しい。周りにいる何人かの患者たちも、無意識のうちに彼の方を盗み見てしまうほどだ。
私が近づいていく気配に気づいたのか、彼はゆっくりと顔を上げた。
私と目が合うと、あの美しく整った顔に、ふわりと柔らかな花が咲くように優しい笑みが広がる。
「優子、お疲れ様」
優しい彼の声は、緊張で少しこわばっていた私の心を一瞬で解きほぐしてくれた。
「うん。待たせてごめんね」
「全然。本を読んでたからあっという間だったよ」
彼はそう言って優しく微笑んだ。その声も、美しい体も、たまらなく愛おしい。 「先生、なんて言ってた? 順調そう?」
「うん。少しずつ良くなってるねって。焦らなくていいからって言ってくれたよ」 先ほどの先生の一瞬の表情が脳裏をかすめたが、私は首を振ってそれを追い払った。健介のこの完璧な笑顔の前では、そんな些細な不安などどうでもいいことのように思えた。
「そっか、よかった」
健介は心底安堵したように息を吐いた。
「頑張ったね。さあ、一緒に帰ろうか」
「うん」
彼の清潔な匂いに包まれながら、私はこくりと頷いた。
自動ドアを抜け、外に出る。少し冷たい風が頬をかすめたが、隣の健介の存在が、私を確かな温もりで守ってくれていた。この美しい恋人がいてくれる限り、私はきっと大丈夫だ。そう強く信じながら、私は家路についた。
健介と共に帰宅し、静まり返ったリビングのソファに深く体を沈めると、ふと、先ほどの診察室での先生の顔がフラッシュバックした。
あの一瞬の、凍りつくような不穏な表情。
ただの気のせいだと言い聞かせても、心の奥底に沈殿していた泥のような記憶が、ゆっくりと、しかし確実に攪拌されていくのを感じる。私は両膝を抱え込み、ぎゅっと目を閉じた。
私が社会から切り離され、この家から出られなくなったのには、はっきりとした理由がある。
高校生になるまで、私の家はどこにでもあるごく普通の、温かい家庭だった。週末には家族三人で出かけ、食卓にはいつも母親の手料理と笑顔が並んでいた。両親は仲が良く、私はそんな二人を心から尊敬し、愛していた。
その完璧な世界が音を立てて崩れ去ったのは、私が高校二年生の秋のことだ。
父親が、死んだ。
出張だと聞かされていた数日間の不在の最中、警察から突然の電話があった。交通事故だった。それだけなら、ただの痛ましい悲劇として、時間をかけて受け入れることができたかもしれない。
しかし、事故の状況が、残された私たちの心を根底から破壊した。
父が乗っていた車は山道でガードレールを突き破り、谷底へと転落していた。そして、助手席には見知らぬ若い女性が乗っていたのだ。
警察の調べや、その後の相手方の遺族とのやり取りで明らかになったのは、それがただの出張などではなく、何年も前から続いていた不倫相手との旅行だったという残酷な真実だった。
裏切られていた。ずっと、騙されていたのだ。
その事実を知った日から、母親の精神は完全に狂ってしまった。
あんなに優しく、いつも笑っていた母は、家中の父親の私物を手当たり次第に破壊し、夜な夜な狂ったように泣き叫ぶようになった。「どうして」「私がいけなかったの」という悲痛な叫びは、やがて得体の知れない呪詛へと変わり、母の瞳から正気の光を奪い去っていった。
そして、逃げ場を失った母が最後に縋ったのは、違法な薬物だった。
どこから手に入れたのかもわからない薬に溺れ、日に日に痩せ細っていく母。焦点の合わない目で宙を見つめ、存在しない「裏切り者の夫」と「見知らぬ女」に向かって喚き散らす母の姿は、私の心を確実に削り取っていった。
そして私が高校を卒業する直前、母は大量の薬を飲み込み、自ら命を絶った。オーバードーズによる、あっけない最期だった。
両親の死後、私はこの家をそのまま譲り受けた。一人きりになったこの広い家で、私は完全に壊れてしまった。
『不倫』や『浮気』という言葉を見聞きするだけで、心臓が早鐘のように打ち鳴り、呼吸ができなくなる。フラッシュバックが起きると、目の前が真っ暗になり、母の狂乱した叫び声と、血まみれの父の姿が頭の中で無限に再生された。
テレビのワイドショーで流れる芸能人の不倫ニュースはもちろん、ネットの広告、SNSのタイムラインに流れてくる他愛のない痴話喧嘩の話題すらも、私にとっては致死量の毒だった。
私はすべての情報源を遮断した。テレビのコンセントを引き抜き、スマートフォンは電源を切って引き出しの奥底に封印した。誰とも連絡を取らず、ただ息を潜めて、死んだように毎日をやり過ごすしかなかったのだ。
そんな暗闇の底で蹲っていた私を救い出してくれたのが、他でもない、健介だった。
ある雨の日の午後、何ヶ月も鳴ることのなかったインターホンが響いた。恐怖で震えながらモニターを覗き込むと、そこには傘も差さず、雨に濡れた白い肌の青年が立っていた。
中学校の同級生だった、健介だった。
昔から物静かで、図書室の窓際でいつも本を読んでいた彼。まさか彼が訪ねてくるなんて夢にも思わなかった。私の両親の凄惨な事件と、その後の私の引きこもり状態を噂で聞きつけ、心配して昔の住所のままだったこの家を訪ねてきてくれたのだという。
ドア越しに、震える声で「帰って」と拒絶する私に、彼はただ一言、「優子がドアを開けるまで、ずっとここにいるよ」と言った。
それから彼は、本当に毎日私の家を訪れるようになった。雨の日も、風の日も、ただ静かにドアの向こうで私に語りかけてくれた。外界との繋がりをすべて絶ち切っていた私にとって、彼の透き通るような声だけが、唯一の安全な外の音だった。 そして、彼が通い始めてから一ヶ月が経った頃。私はついに、重い玄関のドアを開けた。
目の前に立っていた健介は、ひどく美しく、そしてどこまでも優しかった。彼は泣き崩れる私を、ただ黙って強く抱きしめてくれた。
それ以来、健介は私の恋人になり、私の壊れた世界に光を与えてくれた。
テレビもネットも必要ない。彼が社会との唯一の接点であり、彼がくれる言葉だけが私の世界のすべてだった。
彼は決して私を急かさない。「不倫」という言葉が溢れる外の残酷な世界から、私を完全に守り抜いてくれている。
彼がいなければ、私はとっくに狂って死んでいただろう。
健介は私の命綱であり、私の光であり、私の世界のすべてだ。
だからこそ、私は彼を失うことが何よりも恐ろしい。この白く美しい彼だけは、何があっても絶対に、手放すわけにはいかないのだ。
夜の帳が下り、分厚い遮光カーテンが外の光と音を完全に遮断すると、寝室は世界から切り離された絶対的な安全地帯になった。暗闇の中、窓際に飾ってある写真は見えなくなっている。
暗闇の中、シーツの擦れる微かな音だけが響く。私は健介の腕の中にすっぽりと収まり、彼の静かな呼吸に耳を澄ませていた。
「優子」
耳元で囁かれる甘く低い声に、びくりと肩が震える。
暗闇に目が慣れてくると、彼の透き通るような白い輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。健介の手がゆっくりと伸びてくる。私のパジャマのボタンが一つずつ、外れていく。
露わになった私の素肌に、彼の手が触れた。
ぞくり、と背筋を甘い痺れが駆け抜ける。健介の指は陶器のように白く美しく、そして、ひんやりとして硬かった。まるで精巧に作られた大理石の彫刻が、意志を持って私に触れているかのような、不思議で心地よい硬さだ。
その硬質な長い指先が、私の首筋から鎖骨へ、そして肩のラインに沿って、ゆっくりと、愛おしむようになぞっていく。冷たくて硬い指先なのに、触れられた肌の奥底からは対照的な熱がじわじわと生まれて広がり、私の全身を甘く溶かしていくようだった。
「健介……」
私が微かに声を漏らすと、彼は応える代わりに、私をさらに強く抱き寄せた。硬い指が私の背中に回り、強く、決して逃がさないように抱きしめられる。彼の清潔な匂いと、暗闇の中でもわかる美しい顔立ち。私だけに向けられる、底なしに深い愛情。
私という不完全で壊れた器の隙間を、健介という存在が完璧に埋め尽くしていくのを感じた。
ああ、なんという幸福だろう。
彼に触れられるたび、過去の悍ましい記憶も、血に塗れた両親の最期も、社会から取り残された絶望も、すべてが真っ白に漂白されていく。私の世界には今、この美しく硬い指先と、私を呼ぶ優しい声しかない。外の残酷な世界など、もう一生見なくていい。
圧倒的で、息が止まりそうなほどの幸福感が私をすっぽりと包み込んだ。私は健介の背中に腕を回し、このまま彼の白い体に溶け込んで同化してしまいたいと心から願いながら、その甘美な熱のなかに深く、深く沈んでいった。
あれから季節がひとつ巡り、私の止まっていた時間は少しずつ動き始めていた。 健介の献身的な支えと、あの絶対的な安心感を与えてくれる腕のおかげで、私は外の世界への恐怖を少しずつ克服しつつあった。近所の散歩から始まり、今では少し離れたスーパーで、短い時間なら買い物もできるようになっている。
何より大きな変化は、過去との繋がりを少しだけ取り戻せたことだった。すべてを遮断した日から未読のまま放置し続けていた昔の親友に、ついに自分からメッセージを送ることができたのだ。まだ直接会う勇気はなかったが、画面越しに交わされる彼女との他愛のないやり取りは、かつての穏やかな日常の欠片のようで、私の心をじんわりと温めてくれた。
もちろん、ここまで回復できたのは、すべて健介がずっとそばで私を守り抜いてくれたからだ。
そして迎えた、月に一度の精神科への通院日。
「驚きました。本当に、見違えるように回復されていますね」
カルテから顔を上げた主治医は、心からの安堵と喜びが入り混じったような、明るい表情を浮かべていた。
「ありがとうございます。でも、私一人の力じゃありません。健介がいつも隣で支えてくれているおかげです。彼がいなかったら、絶対に無理でした」
私が誇らしげにそう答えると、先生の表情がほんの少しだけ、微かに引き締まったように見えた。
「……そうですか。今日も、健介さんは一緒にいらしているんですか?」
「はい、もちろん。外の待合室で待ってくれています」
当然のこととして私が頷くと、先生は傍らに立っていた看護師の方へ顔を向け、手で口元を覆いながら何かを小さく耳打ちした。看護師は静かに頷き、足音を忍ばせて診察室を出て行った。
少しの空白。私は首を傾げたが、数分後に戻ってきた看護師が、今度は先生の耳元に身をかがめて何かを囁き返した。先生はゆっくりと一度だけ深く頷き、再び私に向き直った。
「優子さん」
先生の声は、今までになく真剣で、それでいてとても慎重に言葉を選んでいるようだった。
「ここまで順調に回復されているのは、本当に素晴らしいことです。そこで……そろそろ、次のステップに進んでみませんか。例えば、健介さん無しで、ご自身だけでお出かけをしてみるとか」
「健介、なしで……?」
予想外の提案に、心臓がトクリと跳ねた。
「はい。例えば、ご友人とお茶をしてみるなど、いかがでしょう。これまでとは違う、新しい関わりを持つことが、さらなる自信に繋がるはずです」
健介がいない外の世界。それは途端に、冷たくて恐ろしい場所のように思えて、膝の上で組んだ手にぎゅっと力が入った。けれど、その時ふと、ここ数日スマートフォンでやり取りをしていた親友の顔が脳裏に浮かんだ。
「……実は、ずっと連絡を絶っていた昔の親友と、最近メッセージのやり取りができるようになったんです。まだ、文字のやりとりだけですけど……」
それを聞いた瞬間、先生の顔にパッと明るい光が差した。
「それは素晴らしいことです! 優子さん、ぜひそのお友達と、直接会ってみてはいかがですか? きっと、今のあなたなら大丈夫ですよ」
先生の力強い後押しに、私は戸惑いながらも、胸の奥で小さな火種がポッと灯るのを感じた。怖い。でも、健介が現れる前、私のすべてを知っていて、一番心を許せる存在だった彼女になら、会ってみたい。今の、少しだけ前を向けるようになった私を見てほしい。
「……はい。会って、みます」
診察室の重いドアを開け、私はそのまま待合室に置いてあった荷物をもって、真っ直ぐに病院の自動ドアを抜けた。
外に出ると、少し冷たい風が頬をかすめた。私はコートの襟を合わせ、大きく深呼吸をした。一人で歩くアスファルトの道は、足元がふらつくような心細さがある。けれど、ポケットの中のスマートフォンを強く握りしめると、不思議と足の裏に力が入った。
歩きながら画面を開き、親友とのトーク画面を呼び出す。
『近いうちに、会えないかな』
震える指でそう打ち込み、送信ボタンを押した。緑色の吹き出しがぽんと画面に浮かび上がる。それを見つめていると、凍りついていた私の世界に、確かな春の風が吹き込んだような気がした。
駅へと向かう足取りは、来る時よりもずっと軽かった。一人で乗る帰りの電車の中、窓から見える見慣れた街の景色が、今日はなぜかいつもより鮮やかに、そして新しく見えた。
待ち合わせに指定されたのは、駅から少し歩いた場所にある、昔よく二人で通っていた小さなカフェだった。
カラン、とドアベルを鳴らして店内に入ると、窓際の席からパッと立ち上がる人影があった。
「……優子!」
かつての親友、那美だった。学生時代から変わらないショートボブの髪を揺らし、彼女は泣き出しそうな顔で私を迎え入れてくれた。
「那美……久しぶり。ごめんね、ずっと連絡できなくて」
「ううん、いいの。こうしてまた会えたんだから。本当に、よかった……」
向かい合わせに座り、コーヒーを注文する。最初は互いに少し探り探りだった会話も、十分も経てば昔と同じテンポに戻っていった。学生時代の思い出、好きだった映画の話、新しくできたケーキ屋の噂。他愛のないおしゃべりが、カプチーノの甘い香りとともにテーブルを満たしていく。
私は、自分が心の底から笑っていることに気がついた。
もう、大丈夫だ。私は完全に元に戻れたのだ。あの暗く冷たい絶望の海の底から、ようやく抜け出すことができたのだと、確かな手応えを感じていた。
ふと隣に視線を送ると、隣に座っている健介も、微笑みながら私たちの会話を静かに見守ってくれているのに気がついた。やっぱり彼がいてくれると、心強い。
「……優子、本当に元気そうだね。顔色もすごくいいし、安心した」
コーヒーカップを両手で包み込みながら、那美が目を細めて笑った。
「うん。那美のおかげだよ、連絡くれて嬉しかった」
私は微笑み返し、そして隣にいる愛しい恋人を見つめながら言った。
「でも、一番はやっぱり健介のおかげかな。彼がずっとそばにいて、私のことを支え続けてくれたから……だから、今の私があるの」
その言葉を口にした瞬間だった。
那美の表情から、すっと温度が消えた。
「……やっぱり」
彼女は、まるでひどく痛む傷口に触れるかのように、顔を歪めて小さく呟いた。
「え?」
「優子」
那美はテーブルの上に身を乗り出し、私の目を真っ直ぐに、射抜くように見つめた。
「あなたには今……そこに、健介くんがそばにいるように見えているの?」
何を言っているのだろう。私は面食らって、隣の席を見た。
「見えているって……いるよ? 健介、私の隣に座って、今も優しく笑ってくれてるじゃない」
当然のことを言ったつもりだった。しかし那美は、私の隣の席を見て、絶望したように強く目を閉じた。
「……いないよ、優子。そこには誰もいない。ただ、あなたの荷物があるだけ。」
「那美、冗談やめてよ。健介は……」
私は隣に確かに存在する健介の体を撫でながら言った。彼は、確かにここに存在する。
「健介くんはね、とっくの昔にあなたのそばを離れたのよ」
那美の声は、震えていた。
「あなたはまだ、病気が治っていないの。幻覚を見ているのよ。……本当は、こんなこと言いたくなかった。でも、先生と連絡を取り合って、あなたが少し外に出られるようになった今なら、そろそろ真実を伝えたほうがいいって判断したの」
「先生と……? 何を言ってるの? 健介はずっと私と一緒に……」
「あの日、健介くんは浮気をしたのよ!」
ビクリと、私の肩が跳ねた。
『浮気』。その単語が私の脳を激しく殴りつけた。耳鳴りが始まる。
「あなたはそれに気づいて、激しく問い詰めた。両親の凄惨な事件があったあなたにとって、それがどれほど許せないことだったか……彼も分かっていたはずなのに。そしてその日を境に、彼は行方をくらませたの。きっと、浮気相手の女と一緒に、どこかへ逃げてしまったのよ」
那美の口が動いている。何かを必死に訴えかけている。
でも、後半の話はもう、ほとんど私の耳には届いていなかった。
嘘だ。 健介が、私を裏切るはずがない。
健介が、私を置いてどこかへ行くはずがない。
だって、彼はこんなに美しく、こんなに私を愛してくれているのだから。那美はきっと、私たちが羨ましくて嘘をついているだけだ。先生も、みんな嘘つきだ。
私は無言で立ち上がった。
「優子!?」
制止する那美の声を背中で切り捨て、私は足早にカフェを後にした。
幻覚なわけがない。健介は確かに存在する。私だけのものだ。私を決して裏切らない、絶対的な存在なのだ。
息を切らして家に帰り着く。
薄暗い寝室へ直行し、私はベッドの脇に膝をついた。
シーツがこんもりと膨らんでいる。
震える手で、私はそっと布団をめくった。
ああ。やっぱり、いるじゃないか。
いつも私を優しく包んでくれる、大きな腕。
脚。
そして、綺麗な胸骨。
私は鞄からいつも持ち歩いている指の骨を取り出して、きれいに並べた。
浮気を知ったあの夜。私は愛用する薬を大量に健介に飲ませて、庭に埋めた。
でも、健介にもう一度どうしても会いたくて、後から掘り出したのだ。
土を落とし、私が一本一本、きれいに磨き上げた。
私はその冷たい白を強く抱き寄せた。
健介はいつもそばにいる。幻覚なんかじゃない。
ずっと、私だけのものだ。
窓際に飾ってある美しい健介の写真も、優しく微笑んで私たちを見つめてくれている。




