2.回帰
瞼を刺す陽の光に、ディルクは顔をしかめた。
ゆっくりと目を開けると、古びた天井が目に入る。
染みだらけの天井に懐かしさを感じて、ディルクは跳ね起きた。
途端に、ディルクの顔をのぞき込んでいる幼い少女の姿が目に入る。
ふわふわの赤茶の髪にくりくりとした愛らしい翡翠の瞳で、ディルクの顔を見るなりうれしそうに笑いだす。
「あ、起きた! 母さまあー。兄さま起きたよー」
「ラウラ……?」
「なあに?」
金だけはある貴族の後妻にと望まれ、二度と会えなくなってしまった、二つ年下の妹。その幼い頃の姿に胸が詰まる。
(夢なのか? 天に還る前の最後の?)
「兄さま、やっぱり痛いのー? 痛いんでしょ。だってこおんなに大きなたんこぶがあるんだもん。ほら、見て見て」
ラウラはそう言うと、鏡を持ってきてディルクの目の前に突き出す。
その鏡の中には、さらさらの赤銅色の髪に、意志の強そうな深い翠の瞳を持った、少年時代のディルクの姿が映っていた。
(多分、八歳の時の俺だ)
「ラウラ、ディルクが起きたって……。ああ、よかった! ほんとにもう、この子ったら心配させてっ。屋根の修理なんて危ないからよしなさいって言ったのに言うこと聞かないんだからっ」
部屋に駆け込んできたのは、目に涙を浮かべた赤茶の髪を束ねた母の姿だった。
(母さんは、俺が九歳の時に亡くなった)
記憶の中の母と同じ姿に、ディルクの胸はさらに詰まる。
「そうだよ、兄さま。だから、頭ぶつけちゃうんだよ。起きなくて心配したんだからね」
「もうやめて頂戴ね。兄だといっても、あなただってまだ子どもなんだから」
(幸せな夢だ)
「まあ、さっきよりこぶが腫れ上がってるわ。冷やさなきゃ。……ええっと、水、手ぬぐい。氷がいるわね。≪氷の造形≫ え? あら? えっとえっと、きゃあっ」
しかし母の唱えた魔法は失敗したらしい。
水を湛えた木桶がバキバキとすごい音を立て、母は驚いて抱えていた桶を放り投げてしまった。
桶は弧を描き──。
ガンッ。
ディルクの頭を直撃する。
「くうぅっ」
「もう、母さま、魔法を使うときは順番にやらないと。水が凍って木桶が壊れちゃったよう。≪氷の造形≫ こうでしょ! 兄さま、大丈夫?」
「そうね、そうね、そうだったわね、ラウラ。ごめんなさい。きゃああっ、今度はディルクの額から血が出ちゃってるっ」
(そういえば、母さんは、とんでもないポンコツだった……)
「痛い、母さん、痛いよ、いた……ハハッ」
「ほら、兄さま泣いてるー」
「ええ⁉ そんなに痛かったの? ほんとにごめんなさいね、ディルク」
涙が出る理由はけして痛みのせいではなかった。
結局、その日は母と妹から心配されて、夜になるまでベッドから出してもらえなかった。
そのおかげで、ディルクは、時間をかけて状況を整理することができた。
目覚める前の記憶では、ディルクは二十八歳だった。今は八歳なので、二十年前だ。
逆に言えば、ディルクは、今後二十年間に起こる未来を知っていることになる。
(俺は知っている。これから、何が起こるのか)
九歳の時、母マヌエラが死んだ。
十歳の時、試しの儀で魔力なしとされ、ガンソード・マギアを得られず見限られた。
十四歳の時、モンスターウェイブが起こり、当主である父が死に、オスカーが当主となった。
二十歳の時、大陸間戦争が起き、オスカーが国を裏切った。
二十二歳の時、ラウラが貴族の後妻として嫁いだ。
ディルクはこの間、オスカーの暴力のはけ口として耐え、手足として犬のようにこき使われた。
そして、二十八歳の時、ディルクは死んだ──。
ぎゅっと手の平に食い込むほどに爪を立て、開いた手をじっと見つめる。
「痛みはある。夢ではないということか。俺は、回帰したのか」
自らの妹を死に追いやり、真の敵に気づかず犬のように仕え続けた己が人生を、ディルクは心底悔いていた。
そしてそれを自分たちに強いた相手を激しく憎んでいた。
「何でもいい。俺は、やり直す。再び得たこのチャンスを無駄にはしない」
夢でも、回帰でもどちらでもよかった。なぜこの現象が自分の身に起きたのか、その理由すらもわからない。
けれど、もしもこれがやり直しのチャンスならば、やりたいことははっきりとしている。
「ラウラも母さんも、今度は絶対に死なせない」
それから。
「オスカー、あいつに復讐してやる。あいつだけは絶対に許さない」
ディルクには、贖罪と復讐のチャンスが与えられたのだ。
◇◇◇◇◇◇◇
ディルクは、自分に起きたこの現象を回帰と位置付けることにした。一週間がたつが、未だに覚める気配がないからだ。
ディルクは、母とラウラのいる八歳の生活を思い出しながら、日々を過ごした。
母は昼間、邸の手伝いに向かうが、その間ディルクとラウラは自由に過ごすことが許されている。ディルクはラウラの面倒を見ながら、家のこまごまとした用事を行うのが常だった。
けれど、その日は朝から忙しく、いつもなら放っておかれるディルクとラウラも邸の手伝いに駆り出されていた。
境界地域の魔獣狩りに出ていたファルケハイン騎士団が数か月ぶりの遠征から戻ってくるのだ。
戦争が起きる前の騎士団の任務は、主に国境線を維持するための定期的な遠征による魔獣狩りと、ダンジョン管理だった。
遠征する騎士団を率いるのはテオドール・ファルケハイン。
ファルケハイン騎士団の団長にして、序列第一位の銃剣魔法使いである。
同時にディルクとラウラの父でもある。
彼も母と同じく回帰前には亡くなっていた人物だが、ディルクにとってはあまり感慨はない。
ディルクたちを放置しつづけた父とは、ほとんど言葉すら交わしたことがなかったからだ。
騎士団が遠征から帰還すると、領主邸では盛大な宴会が開かれる。邸の中はその準備でごった返していた。
ディルクとラウラ、子どもでもできる手伝いは、洗い場で食器をきれいに洗って拭いて、宴会場に並べることだった。
食器といっても木でできた皿や椀で、落としても割れることなく、子どもでも準備を任せやすい。
もちろん使用人たちは、誰一人、二人を当主の子どもとして扱うことなどなかった。
(回帰前もこうやってラウラと一緒に準備したな)
ディルクとラウラは二人で食器を抱えて、洗い場から宴会場までの道を歩く。
何往復もしていると、ラウラの歩みがだんだん遅くなる。
「ラウラ、疲れたろ。これが終わったら、あの木の陰で休んでろよ。あとは俺がやるからさ」
「子ども扱いしないで。兄さまがやるなら私にもできるんだからっ」
頬を膨らませるラウラがほほ笑ましくて、ディルクは笑うのを必死でこらえた。
ラウラは、一度決めたことを曲げない頑固なところがある。それは良い面もあるが、悪い面にも働く。
ディルクは、回帰前の記憶を呼び起こす。
回帰前は、転んで盛大にお皿を土の上にぶちまけてしまい、洗い直す羽目になったのだ。一人で洗い直すと頑として譲らず、翌日から過労で盛大に熱を出して寝込んでしまった。
今回はそうならないように、ラウラの運ぶ分の皿は、家から持ってきた大きな布にくるんで運ばせている。
(今度は、ラウラは失敗しないはずだ。見守ろう)
けれど。
洗い場から宴会場へ向かう途中、回帰前には起こらなかった出来事が起こった。
角を曲がったところにいた人物に出合い頭にぶつかったラウラは、食器を取り落とし、尻もちをついた。
布でしっかりくるんだ食器は無事だったが、ラウラが尻もちをついた際に飛んだ泥がその人物の服の足元を汚した。
「ちっ。 お前のせいで、制服が汚れたじゃないか」
顔を上げたとたんに、ラウラは蒼白になる。
「も、申し訳ありません。オスカー兄さま」
ラウラがぶつかった相手はオスカーだったのだ。
その顔を見たとたんにディルクの中から憎しみが溢れ出そうになる。
全てを投げ打ち、今にでもつかみかかり殺してやりたい衝動を、ディルクは必死に押し殺した。
(殺してやる。絶対に殺してやる、オスカー)
でも、それは今ではない。
こみ上げる怒りを逃がすために、ディルクは目を伏せたまま奥歯をかみしめる。
ディルクは、十三歳のオスカーが王都の学院から夏季休暇で邸に戻ってくるという話は知っていた。
この夏、自分がオスカーからどんな目にあわされるのかも知っている。
しかし、過去のこの日、オスカーに会うことはなかったため油断していたのだ。
(回帰前には、こんなことなかったっ)
布でくるんで食器を持ち運んだため、ペースが狂ったのかもしれない。
震えて頭を下げるラウラの横で、すぐにディルクも手をついて頭を下げる。
オスカーの周囲には、人が集まりつつあった。
「申し訳ありません。妹の失敗は俺の責任です」
「ああ、お前ら、その赤髪。アルトナーからきた女とそのガキか。俺はお前らを兄妹なんて認めていない。今後、兄なんて二度と呼ぶな」
ディルクとラウラは、ファルケハインを名乗ることが許されている。それも気に食わないのだろう。
「申し訳ありません、オスカー様」
「ちっ、それより、どうしてくれる。これから宴会があるってのに汚れちまったじゃねえか。どう落とし前つけてくれるんだ?」
「罰ならば、俺が受けます」
「は、殊勝な心掛けだなあ。妹の責任は兄が取るって? ……虫唾が走る」
オスカーは、吐き捨てるようにそう言うが、すぐに何かを思いついたかのように、にやりと顔を歪めた。
「そうだな。お前に責任をとってもらおうか。どうせ汚れてしまったし、ついでに、体をほぐしてから父上と母上に挨拶に向かおう。王都からの長旅で体がなまってしまったからな」
そういうと、腰の剣帯から黒い刀身の長剣──ガンソード・マギアを抜き放つ。
「俺は寛大だからな。お前に稽古をつけてやるよ。光栄だろう? ガンソード・マギア──序列八位のオスカー・ファルケハインの練習相手ができるなんてさ」




