幼馴染との、ちょっとした大爆発
「それじゃあ、頼んだよ! 出発しんこーう!」
「任せとけって」
やっとのことで手に入れた、『男』を見せる絶好のチャンス。期待を背に受けて、秀一はペダルを漕ぎだそうとしていた。
湖上に、他のスワンボートは見当たらない。平日の昼間は、そういうものだろう。秀一たちの独占だ。
左手に身を置く千紗は、秀一の長いようで短い幼馴染。近づいては離れてを繰り返し、今はもう何度目か分からない近接期なのだ。
……これが、ラストチャンスかもしれないからな……。
小学校、中学校、高校と、敷かれたレールを適時爆破して同じ道を歩んできた。と言うよりも、選択肢が一個しか無かった。田舎とは、そういう場所である。
「秀ちゃん、何かあった? 目が迷子だよ?」
千紗の促しに引きずられ、秀一の意識がスワンボートに帰還した。
彼女の光沢ある黒髪は、惜しくも肩につく手前で止まっている。秀一の感覚として、いくら伸びても飽きないくらいだ。
ペダルを足裏でしっかり捉える。出航の準備は完璧だ。
貸出屋に頼んで、ペダルのギヤは一番重いものに設定してもらった。自転車と同じ仕組みであった事を初めて知り、己の無知を悔いたのもつい先ほどである。
客船の眺めを、彼女に体験してもらいたい。横で無心に汗を流す姿に、少しでも淡い感情を抱いてほしい。二つの異なるベクトルが、空間を交差する。
秀一は、ペダルを目一杯踏み込んだ。備品が壊れてしまったら、どう弁解しよう。その不安が膨張してくるまでに、秀一は熱が入っていた。
「……秀ちゃーん? 風の思うがままも、悪くはないけど……」
動く気配がしなかった。ペダルを回転させることはおろか、一ミリも押し下がらない。普段からジムで鍛えているならまだしも、一高校生の秀一にコンクリートで固められたようなペダルを漕ぐことは不可能だった。
不審な様子を察した千紗に、頭を傾けて見つめられる。ネタなのか本気なのか、測りかねているようだ。水分が潤沢に蓄えられた唇が、フリーズを起こして揺れていた。
……動け、動けってば!
まさか、ギヤをわざわざ変更した上に動かせないとあっては、面目が丸つぶれ。語り草にはなるだろうが、それは決して秀一の描く未来と一致しない。
「……何か、ロックでも外し忘れてた気が、する……」
空いている右手で、レバーなりボタンなりを探った。簡素なスワンボートに、自動車並みの設備があるはずもなかった。
千紗の顔色が、前進から困惑へと変化していく。規則正しく並んでいた彼女の眉が、波を打っていた。頭上から、はてなマークが取り出せそうである。
彼女を、満足させることも出来ないのか。自分から散々要望を聞いておいて、動かすこともままならない。
秀一の計画は、その端から崩れ落ちた。
このまま隠し通しても、言い訳が思いつかない。
「……ごめん、千紗。出発前にギヤを変えてもらったら、全く動かなくて……」
これにて、千紗との密接な関係は終わるのだろう。進路の分岐は、すぐそこまで迫っている。『親友』というカテゴリは、いとも簡単に風化する。各々、新天地に順応し、過去の記憶は薄れていくだけだ。
……結局、何も踏み出せなかった俺が悪いってことか……。
時間はたっぷり残っていた、そのはずだ。能動的なアクションを起こす事が出来なかった。一緒に居られれば、それで満足。心理的な余裕が、いつも初めの一振りを先延ばしにさせたのだ。
その身体がリズムに合わせて揺れている、秀一の相方。心の拠り所になってくれた、活発な少女。存在を、自ら手放したくない。
「……秀ちゃんで無理なものは、だれでも無理だと思うよ……? 謝ることなんて、なんにもない」
ふんわり温かみを持った手が、秀一の肩に乗る。
……だから、離れたくなくなるんだ……。
お世辞にも、学校ではグループに馴染めていない秀一と千紗。仲間同士ということもあって、度々行動を共にしてきた。
人前では意見を出さない彼女が、秀一の横では羽を伸ばしている。そのことだけで、疲労など天の彼方へ吹き飛ばしてしまえる。
起きてしまった事は、元に戻せない。ならば、先を見据えるだけ。
「……どう、帰ろうか……。発端を作ったのは、俺だし……」
移動手段を失った今、ボートは自然に身を委ねている。いつの間にか岸は小さくなり、千紗の熟した頬と霞む山々が同じサイズに見えていた。
「貸出屋の人も、なんで意地悪したんだろう……。重すぎて、全然動かないよ……」
千紗の目線は下に落ち、無言を貫くペダルに向けられていた。なるほど、彼女もまた踏ん張っていた。
……踏ん張ってる……?
右側と左側で、対称な構造になっている漕ぎペダル。一本の鉄製の棒で、繋がっていた。
「千紗、漕ぐのをいったん止めてみてくれないか……」
再起不能だと思われていた逆転計画が、地中の底で復活の時を待ち望んでいる。
言われるがまま、千紗がペダルから足を浮かす。瞬間、重荷が取れた。
水面を斬って、スワンボートが前進した。いつもであれば気にも留めない動作が、秀一のやる気を再始動させた。
「……あれ、私……?」
物事を行き詰まらせていた原因を、千紗も掴んだようである。次々と生み出される水面波と、触れたらケガをしそうな回転数のペダルを、交互に見比べていた。
何度も瞬きをし、顔をうずめた。震える両手で目を覆い、居ても立っても居られない、と暴れている。緊急脱出ボタンが搭載されていれば、すぐにでも飛び出したことだろう。
千紗と秀一が拮抗して、ペダルが動かなかった。真実は、それだけである。
「……秀ちゃん……。ああ、もうなんでもいい……」
表情を見せられない彼女の髪の毛に沿って、引っ張らないよう手を滑らせる。程よく冷えて、引っ掛かりもない。神に恵まれたツヤだ。
起き上がらない千紗をよそに、スワンボートはぐんぐん加速する。まだ目覚めない春の陽気な風も、吹き抜けて心地良い。
……このまま、もうちょっとだけ……。
高校生の男女を乗せて、湖をかき分けるボート。外からは覗けない想いを秘めて、ひたすら前進していく。
ーーー卒業式も終わり大学へと旅立つ、その前日であった。