その三:先輩女神に呼び出される
その日、女神ミャウル・レ・ハトラリックは心の中で頭を抱えていた。
「ど……どうも。お久しぶりです」
「そんなに久しぶりでもないはずよ」
「で、ですよね」
先輩女神であるリフロード・レ・ゼイレリーテに呼び出されたのだ。
「ミャウル。あなた、なんで呼び出されたかわかるかしら?」
天使や神が魔界に降りても堕天することがなかった、かつての時代。天界の民と魔界の民が直接ドンパチしていた天下戦争も経験している、大々々先輩である。
「わかるかしら?」
「あ……あはは……」
わかんねーよと思いつつ、ミャウルは愛想笑いをする。
「わかる? って、聞いてるのよ私は」
「すみません、わかんないです」
先輩じゃなければ三秒でぶちころがしてやるのに…………と思ったミャウルであったが、口にも、顔にも出すことはない。
「わからない? わかるはずよ」
「えっと、あはは。すみません、私馬鹿なんで」
ミャウルは、転生局の前は戦闘部隊の所属。つまりは、腕に覚えありまくりの武闘派である。
「あなた、最近も全然魔界制圧できてないそうね」
「あはは……そうみたいですね」
しかも、天界を裏切った神や天使をおしおきする超絶武闘派の秘密部隊。
しかし――――
秘密部隊ゆえ、誰にも明かすことはできない。側近とも言えるレベルに身近な存在のレイサリスですら、ミャウルの炎を操る力を「二口コンロ」と呼んでいる始末である。
「そうみたいで済む話じゃないわよ!」
怒号とともにミャウルの頭上から、バケツをひっくり返したように水が降る。リフロードは、水の女神なのだ。
「済ませてくれませんかね」
その水をすぐに乾かしたのは、ミャウルが発生させた火の柱。ミャウルは炎の女神なのだ。
「なに勝手に蒸発させてるのかしら? そんな態度で済むわけないでしょう!」
薄い青色の髪と瞳、青白い肌。冷血そうな見た目のくせに怒りっぽい。どうしようもない感情屋であるという点がなんともめんどくさいリフロードは、ミャウルの苦手な先輩リスト上位五位以内に常にランクインしていた。
「じゃあどうしろと……あ、あはは」
思わず反論しそうになり、笑ってごまかす。
「まずは罰として、三発殴ります。歯ぁ食いしばれミャウル・レ・ハトラリック!」
「はいっ!」
繰り返しになるが、ミャウルは元々戦闘部隊所属の女神。先輩からの理不尽な暴力には、慣れっこである。
「おらぁ!」
「ぐふっ!」
腹に、一発。
随分とある身長差を一切問題にしない、見事な一撃。
「おらぁ!」
「ごふっ!」
腹に、もう一発。
二発目の威力はより強く、ミャウルの華奢な身体が浮く。
「おらぁ!」
「…………」
三発目が、腹にめり込むことはなかった。ミャウルが小さな手のひらで、リフロードの拳を受け止めてしまったのだ。
「ミャウル。あなた一体、なにをしているのかしら?」
「えっと……なにしてるんでしょうね? あはは」
ミャウルは、三発ともちゃんと食らうつもりでいた。でも…………今日まで積み重なったストレスが爆発し、つい、反射的に受け止めてしまったのである。
「喧嘩売ってるのね? そういうことなのね?」
舐めた真似をされたリフロードはブチギレ寸前。
「ああ、もうそういうことでいいですよ!」
ミャウルも引き下がらず、食ってかかってしまう。
「この私に向かってそんな口を――!?」
リフロードの視界からミャウルが消えた。
「んぎゃあ!」
直後、左肩と顔面に激痛。
「先輩なら、今私に腕とられた意味、ちゃんとわかりますよね?」
ミャウルが一瞬でリフロードの左腕を後ろにひねりあげ、その体を床にたたきつけたのである。
「ぐっ…………ミャウルっ! 後輩が……先輩にこんなことしていいのかしら?」
「悪かったですね、礼儀知らずの後輩で。そら、歯ぁ食いしばれ!」
「こら! やめなさ――!」
「折りますよー! はいっ! ボキッ!」
ボキッ――――とミャウルは声に出しただけであった。つまり腕は折らず、脅かしただけ。
「…………」
「次、ぶん殴ってきたら本当に折りますからね……あれ? え? えっと」
ミャウルは気がつく。やりすぎたことに。
「う……うぇええええん! ごめんなさぁあああいいいいいい」
零れだした液体は二か所から。涙と、失禁である。
ミャウルは思い出す。あれ? この展開…………つい最近もあった気がする……と。
***
約十五分後、シャワーを浴びて着替えたリフロードがミャウルの前へと戻ってきた。床の水たまりは罪悪感にかられたミャウルがモップで拭き続けたにも関わらず、まだ消えていない。さすがは水の女神である。
「じ、自宅でよかったですね」
ミャウルはなんとなく、リフロードにモップを手渡した。
「うん」
リフロードはミャウルに代わって、掃除を続ける。
「水の女神って、大変ですね」
「うん」
今床を濡らしているのはただの水ではないので、ミャウルの炎で蒸発させるわけにもいかない。きれいに掃除せねば、においが残ってしまう。
「先輩の力で水どばーッと出して洗い流しちゃえばいいんじゃないですかね?」
「うち、木造だから」
「……すみません」
謝りながら、ミャウルは思う。このモップとモップを絞る機能付きのバケツいいな…………と。
「そんなにしょげないでくださいよ先輩」
「うん」
これまでの日々、常に威圧的だったリフロードはシュンとしたまま。
「えーっと、私帰っていいですか?」
「お……お願いします」
「はい?」
お願いしますと言いつつ、ワンピースの裾をつかんできたリフロードにミャウルはきょとん。
「お願いします」
「は、はい。だから、その、私帰りますからご安心を……」
ぶわっと、リフロードの目から涙が流れる。
「おねがいじまずうううう! ミャウル様ぁ今日のことは誰にも言わないでくださいいいいいいいいい!」
まるで、小さな滝のような涙。縋りつかれているミャウルの脚にも、ドボドボと涙が伝っていく。流石は水の女神である。
「い、言わないですよ。そのかわり、リフロード先輩も私に負けたこと内緒にしてくださいね」
けっこうな強者であるリフロードを簡単に倒してしまったという話が広まれば、過去を詮索されかねない。
「はいいいい! もちろんですぅ! ありがどうございますぅ!」
「絶対の約束ってことで。じゃあ、私帰りますね」
「お気をつけて! あ、今度いらっしゃったときは珈琲をお出ししますので! 最高級のお水を使いますので!」
「た……楽しみにしてます」
ミャウルはなんとも気まずそうな顔で、ぺこぺこと何度も頭を下げるリフロードに背を向けた。
***
帰り道。
「はぁ、靴下びっちゃびちゃで気持ち悪いな……」
なんとなく…………目の前で乾かしてから帰るのが申し訳なく、そのまま出てきてしまったミャウルの靴下は涙で濡れていた。涙だけで済んだのは、リフロードの家のちょっと高そうなスリッパのおかげ。
「うちにもスリッパくらい置きたいな……お?」
夕日をキラキラと反射している川沿いを歩いていくと、前から見慣れた顔の女性が歩いてくる。
「ミャウル様、お迎えに着ましたよー」
ミャウルの部下、下級天使レイサリスである。
「おー、ありがとう」
「あれ? なんか、すっきりした顔してますね。リフロード様のところに行ったのに」
これまでリフロードに呼び出された後のミャウルは必ず不機嫌であったので、レイサリスは少し驚いていた。
「あー、うん。なんか今日は怒られるんじゃなくてさ、最近がんばってるわねって褒めてくれて」
ミャウルは嘘をつく。いくらレイサリスとはいえ、自分がリフロードより強いと知られるのは非常にマズい……。
「へぇ。珍しいこともあるもんですね。あ、そういえばミャウル様。今日、お夕飯は早めにしましょうね」
「え? なんで?」
突然夕飯の話題に変わってもミャウルは気にしない。レイサリスは第十八転生局でミャウルの仕事をサポートするだけでなく、一緒に暮らして生活の手伝いをしているからである。ミャウルは、サバイバル能力はあるのだが……一般的な家事はからっきしだめなのだ。
「ついに、電気止められちゃいましたからねぇ」
天界が「より人間を深く愛するために、我々の生活にも人間のシステムを取り入れようじゃないか」という考えに基づき、インフラとしての魔力灯を廃止してからもう百四十年以上。
「マジか……私の火使う? ろうそくにつけたらご飯くらいは見えるでしょ」
なんだかんだ融通が利き便利な電力は、いまや天界の主力エネルギー。だからこそ、いざ代用しようと思っても…………なかなか難しい。
「ろうそく、この前食材が買えないときにミャウル様が食べちゃったじゃないですか…………。あ、そうだ! ミャウル様、ご飯の時だけでいいのでずっと燃えててくれません?」
「今日疲れてるしなぁ……。飯の灯り代わりくらいならたいしたことないけどさ、がんばりたくない日ってあるじゃん」
「そんなんだから、リフロード様に呼び出されるんですよ」
「私が悪いところもあるよなぁ。いや、わりと私が悪いのか?」
ミャウルは思う。なかなか成果を出せない自分を叱ってくれるリフロードは、実はすごく優しい先輩なのではないかと。
「ふふ」
「え、なに急に笑ってるんですか? 笑っても、電気はつきませんよ」
でも、すぐに思いなおす。どう考えても月に二、三回呼び出されて、毎回、腹をぶん殴られるのはおかしいと。
「いやさ、女神なんてそんなもんだよなぁと思って」
「まあ、そんなもんですよ」
こういう時のレイサリスは、妙に察しが良い。