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最終章 月城明は覚悟を決め、ひなたは月城を許す side 明

「何よ、急に大声で」

「今すぐ洗うんだ。このパンツを。このまま洗濯カゴに入れて置いたら、里美さんが匂いをかぐかもしれないしな」

「そんなことしないわよ」

「とにかく今それを洗うんだよ」


 俺は里美さんを洗濯機の前まで引っ張っていった。

 里美さんのパンツに、自分の汗とか、皮脂とかが染みついていると考えるだけで変な気分になった。


「こんなの一枚だけ洗うなんておかしいわよ」

「だったら、そこの洗濯モノもすべて洗うんだよ。早く!」


 俺は自分の動揺を悟られまいと強引にそのパンツを洗濯させた。

 里美さんは素直に洗濯機を回し、洗濯モノを部屋干しした。

 部屋中に洗濯ものがかけられる。


 柔軟剤の匂いに俺はため息をついた。

 わずかに香る甘い匂いが、俺の思考をかき乱す。

 ただ里美さんの方は淡々と洗濯物を干したのが良かったのか、少しだけ落ち着きを取り戻していた。先ほどまで見え隠れしていた怯えのようなものは見られなかった。


「もう、三時じゃない」

 里美さんはそう言ってため息をついた。明日に備えて早く休みたいといった里美さんに洗濯を回させたのは申し訳なかったとも思ったが、もとはといえば里美さんが撒いた種だ。


「はあ……三時間しか眠れないわ」

「しょうがないだろ。交番にも行く羽目になったんだし」

 さっきのことがまだ頭から離れず、ぶっきらぼうな口調になってしまう。

「そうね」

「じゃあ、寝ましょうか」

「ああ」


「泊まってくれて、ありがとね。おかげで安心して眠れそう」

 電気を消す前、里美さんが改まってそんなことを言った。


「それはよかった。おやすみ」

 俺たちは再び電気を消して眠りについた。







 朝、険悪な雰囲気で俺は目を覚ました。

 起きたときにはもう太陽は高く、里美さんは家にいて、深刻な表情で誰かと電話をしている。早く起きすぎたかと思って、スマホで時間を確認すると十一時だった。


「あれ、里美さん、店はどうしたんだ?」

 俺は眠い目をこすりながら言った。

「分かりました……。いえ、寝坊した私が悪いのでそれはいいんです。いえ、大丈夫です。こっちでなんとかします。はい、熊谷さんこそお大事に……」


 里美さんは俺にちらりと目をやったあと、電話越しの相手にぺこぺこと頭を下げて電話を切った。

 それから今度は別の誰かに電話をかけ始めた。


「あ、お疲れ様です。すみません……ちょっと寝坊してしまいました。井上さんはお店まで来られましたか?」

「あ……いえ、そうですよね。いえ、私が悪いんで、全然……分かりました……はい……。いえ、こちらこそすみません」


 里美さんは電話を切ってため息をついた。


「寝坊したのか?」

「ええ……、普段はこんなことあり得ないんだけど……」

「昨日遅かったもんな。今のはバイトの人?」


「うん、ホールの井上さん、私が寝坊して、熊谷さんが風邪を引いて、急きょ欠勤になったから、鍵を開ける人がいなかったの。どうしてるかと思って連絡したら、お店の前で三十分待ってたんだけど、帰っちゃったみたい……」

「どうするんだ? 今から行って間に合うのか?」


 里美さんは頬をこわばらせ、瞳孔を小刻みに震わせていた。


「いいえ、クラス会が十一時だったのよ。多分、もうみんな帰っちゃったわ。お店があいてないんだもの。仮に今はまだ店の前にいてくれたとしても、今から準備して行っても、三十分はかかる。誰も待っててくれないでしょう。それにお店を開けたとしても、ケーキはまだできていないから、どうしようもないわ」


「早苗からは?」


「大丈夫?って何度か心配してくれてたんだけど、二十分前にメッセ―ジが途切れてる。さっき返信したけど、既読はつかないまま。さっき電話もしてみたけど、誰かと通話中。きっとどこか場所を移してはじめちゃったんでしょう」


「終わったわ……」


 里美さんはぽつりと言った。


「え?」


「寝坊して、お客さんが帰っちゃったなんて、絵里子ちゃんに言えるわけない。売上はゼロで、仕入れたものもダメにしちゃったなんてことになったら、金輪際、信頼してもらえるわけないもの……。きっとバイトも首になって、私も東京に連れ戻されるのよ」


「そんなことはないんじゃないか?」


「そういう約束だったのよ。信頼して店を預けるって、私はそれを裏切った」


「それはそうかもしれないが、だからって東京に帰ることないだろ。一人暮らしもうまくやってるんだし、こっちに友だちもできたんだし」


 仮にバイトをクビになったとしても、こっちに居ればいい。叔母と姪っ子の仲なんだし、里美さんの本気が伝わっているなら、そのうちに反省が認められてもう一度働かせてもらえる可能性だってある。


「ううん、クビになったら、わざわざ一人暮らししてる意味がないもの。お母さんとお父さんは、絵里子ちゃんの店でケーキ作りを教わるって建前があったから許してくれてただけ」


 里美さんはコツンと壁に頭をぶつけた。コン、コン、コンと自分を責めるように頭をぶつける。

 俺は何気なくスマホを開いてみた。

 ラインを起動すると、早苗から大量のメッセージが送られてきていた。


“ひなっちに連絡がつかないの。お店も開いてない…… あっきーどうしよう……”

“ねえ、ひなっちと連絡つかない?”

“みんな、お店に入れなくてイライラしてる。あたし、幹事なのに、こういうときどうしたらいいか、わかんないよ……”

“あっきー、助けて。あたし、どうしたらいい?”


 見れば、メッセージは十分前から始まり、狂ったように不在着信が残っている。

 最後の不在着信は一分前で、早苗は俺に通話をしてきたようだ。

 早苗の話しぶりでは、まだ店の前で困り果てているみたいだ。


 ただ、どっちにしても厨房は里美さん一人で、ホールのスタッフも帰ってしまったという。そんな状況では店は回せないだろう。ケーキもまだできていないとなれば、店をあけたところでどうにかなるとは思えず、里美さんの言う通り、売り上げを取り損ねて叔母さんの信頼を失うのは避けられないのかもしれない。


 里美さんはバイトをクビになるのだろうか。叔母さんの店でケーキ作りを教えてもらうという建前がなくなれば、彼女も地元に連れ戻されるのだろうか……。


 俺は唇をかんだ。

 それはあんまりだと思った。


 彼女はうまくやっている。


 なんとかこのままここで頑張らせてあげたかった。別に挫折した俺の一人暮らしを彼女に託しているわけじゃない。ただ純粋に彼女が頑張っていることが分かっていたし、地元に連れ戻される苦痛も誰よりもよく知っている。


 ためらっている時間はないように思えた。

 俺は自分がなにをしようとしているのか知っていた。

 それをすると俺がどんな仕打ちを受けるかも容易に想像が付いた。


 恥をかくのは辛いことだ。

 それも自分の本質的な部分に関して、弱さをさらけ出すのは苦しいことだ。

 でも……。


 俺は自分が最も恐れていたことを自分からやろうとしているのを理解していた。

 本当はやめたかった。

 知らないふりを決め込みたかった。

 それでも俺は口を開いた。


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