第四章 九兵衛早苗は幹事を任され、里見ひなたは動き出す(1/5)
Side ひなた
厨房に立って紅茶を入れていると、カウンター越しに早苗ちゃんの独り言が聞こえた。
「どうして、引き受けちゃったかねー、あたし、そういうの苦手なのに、どうすんのかねー」
私はいつもより少しだけ丁寧に紅茶をいれる。温度計を使って、熱湯の温度が九十五度になるのを待つ。
今日は比較的お客さんも少なく、奥のテーブルで話し込んでいるカップルがいる以外は、前のカウンターに座る早苗ちゃんしかいない。
早苗ちゃんは今日もバイトがあるらしく、その前に店に寄ってケーキセットを頼んでくれた。
「あれ? みかんとクルミのロールケーキはまた売り切れ?」
先ほど早苗ちゃんはメニューに貼られた売り切れのシールを指さして言った。
「うん、そうなの。最近、それ作ってなくて」
私はぎこちない笑みを浮かべて言って、早苗ちゃんは残念そうに笑ってモンブランを頼んだ。
まだあのケーキは作れそうにない。
絵里子ちゃんからも、「せっかくメニューに書いてあるんだから、作ってみれば?」と言われるときもあるのだけど、絵里子ちゃんのお手伝いをしている方が勉強になるから、と言って、逃げている。
別に前向きじゃないわけじゃないし、やる気をなくしているわけじゃない。でも、あのケーキのことを考えると、頭のうえにずんと岩が乗っているような気分になって何もする気がおきなくなる。
私は厨房から一度出て、カウンターを周って早苗ちゃんのもとにケーキセットを届ける。
「なんで引き受けたかねー、どうすんのかねー」
早苗ちゃんはさっきからそればっかり言っている。
「モンブランと紅茶になります」
「ありがとう」
「何か悩み事?」
「うーん、悩み事ってわけじゃないんだけど、面倒なことを引き受けちゃってさ」
早苗ちゃんは言いながらポットに入った紅茶をマグカップに注ぐ。
「どうしたの?」
「ちょっと困ったことになっててね」
「困ったこと?」
「うん、この前、久しぶりに中学の友だちと駅で会ってさ、その子、夏子って言うんだけど、夏子と話が弾んじゃったんだよ。それで、すごく楽しくてさ、超盛りあがったんだ。はあ、あたしったらバカバカ……」
「なにがあったの?」
「うん、色んなクラスメートの話題になって、あの子はどうしてるとか、あの子は彼氏ができたみたいとかって話してたら、またみんなで会いたいねって話になったんだよ」
「今のところ困る要素はないわよね?」
「いや、もうこのときには自分から罠にはまってたんだよ」
「罠?」
早苗ちゃんの話がさっぱり見えない。
「それでね、じゃあ、卒業から半年たったことだし、この辺でいっちょクラス会でもやろうかって話になったんだよ。で、いつの間にかあたしが幹事になってたわけ」
早苗ちゃんはそう言ってテーブルに突っ伏した。「あー、ばか、ばか。そう言うのは普通仕事のできる委員長とかに任せるべきじゃん!!」なんて言いながら、ショートボブをいじる。
「確かにそれは面倒くさいかもね」
「でしょ、もう嫌だ、まず予定を立てるのも嫌だし、日程を決めるのも嫌だし、場所をおさえるのも嫌だ。全部が嫌だあああああ」
「そんなに嫌って分かってるならなんで引き受けたわけ?」
「あたしを泣かせたいの? あたしが泣くのを見たいの?」
早苗ちゃんはガバッと顔をあげると、追い詰められた目で私を見た。
「もう泣いてるじゃない、目腫れるわよ?」
私はそう言って早苗ちゃんにハンカチを差し出す。
「ありがと」
早苗ちゃんはハンカチで目もとおさえながら言った。
「だって、夏子がさ、『超美人の早苗が幹事やったら、一瞬でみんな集まるよ』なんて言うから、え、そう? そうかなあ、なんて良い具合に乗せられて幹事やらされてたんだよおお」
「早苗ちゃんは意外とチョロいのね……」
「チョロいとかじゃなくない? そ、そうかなあ、じゃああたしが頑張っちゃおって思っちゃったんだもん」
「それがチョロいのよ」
早苗ちゃんはモンブランにフォークを入れると、スポンジと栗のソースをまとめてすくい取り、ぱくっと口に放り込んだ。
「ん! これ超美味しい。ひなっちが作ったの?」
「叔母さんと一緒にね。私は雑用だよ。叔母さんが作り方を知ってるから、言われたとおりに動くだけ」
「はあ、はあ。あの言葉っていうのはひなっち叔母さんみたいなことを言うのよねえ」
早苗ちゃんはそう言って感心したようにうんうんと頷いた。
「あの言葉?」
「ほら、よく言うじゃん。あの人は『生きレシピ』だって。歩くレシピだとかさ」
「それ、あんた『生き字引き』じゃないの?」
私は半目になって言った。生き字引きなら聞いたことがあるけど、生きレシピなんて聞いたことがない。
「そうそう、生き地引き網」
「地引き網じゃ大変よ? 海に放り込まれて、引きずられちゃうじゃない」
私は叔母さんが何十人もの屈強な男によって海から引き上げられるところを想像する。髪の毛の端や、膝小僧に魚が絡みついている。
「あれ? ひなっちなんて言った?」
「生き字引きよ。辞書が服着て歩いてるような人だって、物知りな人を指して言うのよ」
「そうでしょ? じゃあ、レシピが眼鏡して歩いてるような人は、生きレシピじゃん」
「その言葉は上と下で分けて、自由に入れ替えられるのかしら」
私はそう言いながらも、話を元に戻した。