第二章 月城明と里見ひなたはケンカをする。その結果、ハッピーエンドは遠のく sideひなた(7/10)
部屋につくと鍵をあけて、月城を先に中に入れた。その背中越しに警戒しながら中に進む。幸い、下着を部屋干ししているということもなく、見られて恥ずかしいものは一応、隠されている。
「あー、あれか、確かにデカいな」
月城は壁に張り付いたゴキブリを見て言う。
「何かないの?」
月城は言って、あたりを見渡した。ゴキブリを殺すために叩くものがほしいのだろう。
「そこにあるチラシの束とか?」
私はテーブルに重ねたピザのチラシを指さした。
近くにデリバリーのピザ屋さんがあり、毎月のようにクーポン付きの広告を郵便受けに入れていくのだ。私がピザを頼む十倍くらいのペースで広告を送ってくるため、テーブルの上には積みっぱなしになっている。
「了解」
月城はテーブルの上に重ねたチラシの束を丸めると、ゴキブリの背後に近づいた。
「ちょっと! もっと静かに近づきなさいよ。こっちに飛んで来たらどうするの?」
私はハラハラしながら言った。月城は大股でつかつかゴキブリに進んでいく。危なっかしくて見ていられない。
「もっと静かに! そっと行きなって!! 逃げちゃうから、あんた!! もっと静かにっ!!」
「お前が静かにしろよ!」
月城がムッとして振り返った。
「はあ! あんたの追い方が乱暴なのよ! そんなんだったら気づかれちゃうでしょ」
「里見さんの声が一番うるさいんだよ」
月城はわざとらしく顔をしかめてみせる。一々、大袈裟で頭にくる仕草だ。本当にこいつのことは好きになれない。
「意味わかんない、アドバイスしてあげてるのに、何様のつもり? 大体、どこ行ったか分からなくなったらどうするのよ、あなたは見失ったね、なんて言って家に帰ればいいけど、私は帰るわけにはいかないのよ? それともなに、あなたが代わりにここに住むって言うの?」
「文句があるなら、自分でやれよ」
「なんの文句もございません!!」
月城がチラシの束を私に向け、それを受け取るまいと、私は全力で手を後ろにまわした。
「黙っててくれよ、俺だって叩く瞬間はちょっと緊張するんだから……」
月城はちらりと私を見ると、ゴキブリに向き直った。
月城とゴキブリの距離が一メートルを切ったとき、私は重大なことに気が付いてしまう。
今ゴキブリがいるのは、ワンルームのちょうどテーブルの奥にある壁だ。
わたしがご飯を食べながら、ぼうっと見つめる面で、そんなところでゴキブリを叩いて、痕が残ったら、これからは目隠しをしながらご飯を食べなくてはいけない。
「あのー、その壁、白くてかわいいでしょ?」
私はおっかなビックリ言った。
「はあ?」
「その壁、すごくかわいいよね、白くて……つるっとしてて……ちょっとしっとりしてて……、よくない?」
「気持ち悪い、何が言いたいんだ?」
「だから……人間としてね? あくまで、人間として、かわいいものの上にゴキブリが居たら、それを避けて叩きたくなるよねえって。例えばそっとフローリングまで誘導して?」
「汚されたくないなら自分でやれよ」
「じゃんじゃん汚しちゃってください! ほんと、壁とかどうでも良いから、死骸まみれにしちゃって!!」
私は言いながら歯ぎしりをした。
優しくない男。
私が壁は汚さないでって言ったら、ちょっとゴキブリを床まで誘導してくれればいいのに。壁紙と違って床なら死骸も綺麗に拭き取れるだろう。
月城はやっぱり嫌いよ。
私は不満げなまなざしで月城を見た。
その視線に気が付いたのか、月城はため息をつくとチラシの束でゴキブリのお尻をちょんとついた。途端に、ゴキブリがカサカサと不快な音を立てて逃げ回る。ゴキブリは急速に向きを変えて、部屋の真ん中をはいずり回る。
「ひぃやあああああああっ……」
私はびっくりして腰を抜かしてしまった。
「あんた正気!? こっちに来たらどうするのよ?」
「里見さんが誘導しろって言ったんだろうが!」
「ごめんって!! でも、腰が抜けちゃったんだもの」
私は抜けた腰でずりずりと後ずさった。
「床なら良いんだな?」
ゴキブリが動きを止めたところで、月城がそっと近づく。
「良いよ、殺しちゃってください……」
私はぎゅっと目をつむる。
怖い。月城が叩き損ねて、死にかけのゴキブリが体液とか、とれかかった羽根とか振り回しながら、私を襲ってきたらどうしよう。
死ぬ、マジでそんなんなったら死ぬ。
私はぎゅっと目を閉じながら、うっすらと目を開けて事の成り行きを見守る。
パンッ!!
すごい音がしたが、私からは月城がちゃんとゴキブリを仕留めたのか分からない。
「おっ!!」
月城が驚いた声を上げ、私は半分、パニックになった。
「なになに、どうしたの!? 逃げられた? 殺し損ねちゃった?」
私は抜けた腰を引きずって、すぐにお風呂場まで逃げ出そうとする。
「いや、このマルゲリータうまそうだなって思って」
「あんた、よくゴキブリ潰したチラシで食欲わくわね……」
月城はゴキブリの潰れたチラシを見て、じゅるりと涎をすすった。この男はやっぱりおかしい。