第二章 月城明と里見ひなたはケンカをする。その結果、ハッピーエンドは遠のく sideひなた(5/10)
Side ひなた
「いやあああああああああああああ」
私は思い切り飛び上がると慌てて玄関まで退散した。
出た、ついに出た。恐れていたことがついに現実になってしまった。
「どうしよう、どうすればいい? どうするのよ……絵里子ちゃんはお店だし、助けてくれる人はいないし、ほんとにどうするのよ……」
私は壁に止まった黒いアレを目で追った。
いや、目で追ったというより、怖すぎて目が離せない。
まずなにより大きい。それだけじゃなく、細く揺れる触覚も、平べったい身体も、トゲのついたの後ろ脚も。すべてが気持ち悪い。
マジであり得ないくらい気持ち悪い。気持ち悪いビンゴがあれば、この時点でダブルリーチだ。
「あいつ、なんで光ってるのよ……」
そいつの身体は新品のエナメルバッグより黒光りしていた。泥団子なら、友だちに割られたら殴り合いになるレベルで黒光りしている。
「ダブルビンゴじゃん……まだ一回もビンゴになってない人の隣で大はしゃぎして嫌われるやつじゃん」
何か喋ってないと、腰が抜けてそのまま動けなくなりそうだ。
そいつは家の主を驚かせたことに少しも罪悪感を覚えないらしく、じっと時計の下でくつろいでいる。
いや、私も悪い。
朝、昨日の残りものとご飯を食べたのだが、忙しくて洗い物をする時間がなかった。出るかなあ、出ると聞くけどなあ、とは思っていたけど、実家は高層マンションの十二階、高すぎてゴキブリも蚊も登ってこない。
だから、ゴキブリという生き物が善良な一般市民を脅かしているとは聞いていたけど、それは都市伝説とか、陰謀論の類だと思っていた。
「聞いてたより百倍大きいじゃない……」
私は玄関のドアに縋りつくようにして、横目で様子をうかがった。
豆つぶくらいの大きさだと思っていたが、実物はマツコ・デラックスの親指くらいある完全なモンスターだった。
「こんなに大きいと知ってたら、一人暮らしなんてしなかったのに……」
私は慌てて、スマホで「ゴキブリ 絶滅のさせ方」と調べたが、大勢の人間がゴキブリの絶滅を願い、その生命力の強さにすっかり諦めている。
SNSや知恵袋には、例のあれへの恐怖の叫びが集まり、残留思念となって邪気を放っている。禍々しすぎる。
とりあえず、絶滅を諦めてあいつをどうにかすることにする。ネットで調べてみると、手で掴んで、外に逃がしてあげるなんてとち狂った意見やら、新聞紙で叩くという恐ろしい方法、殺虫スプレーをかけるという方法の三択しかない。
「もっと二メートルくらいの距離から倒す方法はないの!?」
私は戦慄する。
「もうこの部屋には住まないわよ? わたしは絵里子ちゃんの部屋に住まわせてもらうんだから」
私はそう言って部屋を出る。とにかく、六時からあの古米男と待ち合わせをしている。
公園に向かわなければ。
あの男を呪うにも、名前も場所も知らない状態だった。
だから、私はそれらを調べ出して、あいつの正体を突き止めることから始めなくちゃいけないと思っていた。
しかし、今日の朝にはその必要もなくなっていた。
私の学校の私のクラスに、あの男が姿を現したのだ。
朝いちばんのホームルームで、担任の小笠原が古米男を連れて教室に入ってきた。古米は気が小さいのか、教室の中央をじっと見つめている。
「今日からこのクラスに新しい仲間が入る。自己紹介をしてくれ」
担任の小笠原が古米男にチョークを渡す。
男は黒板にこれまた気の小さそうな字で「月城 明」と書いた。字は特別綺麗でもなければ、話題にするほど汚くもない。古米のような凡庸な字だった。
「はじめまして、月城明って言います。東京の高校に通ってたんですけど、紆余曲折あって、この高校に転校してきました。右も左も分かりませんが、優しくしてくれるとうれしいです」
「じゃあ、みんな仲良くしてやってくれ。月城の席は後ろのあそこな」
小笠原はそう言って私を指さした。
「は?」
私は思わずそう呟いていた。いや、確かに私の隣の席は空いている。だけど、まさかアイツがそこに座るとは思わなかった。私はこれからアイツの隣で授業を受けて、アイツの隣でおにぎりを食べなくてはいけないのか?
地獄だ。
もう二度と炊き立てのご飯が食べれず、二日前から炊飯器に入っている古米を食べなくてはいけないくらいの地獄だ。
しかし、これは私にとってはこの上ないチャンスだった。
しかも、彼にとっては転校初日。
私が古米男に話しかけるにはもってこいだ。
「月城って言ったわよね?」
私は呪いの準備を進めるために男に話しかけた。
呪いのために、あの男の悩み事を聞こうとしたのだけど、それは失敗に終わった。
転校して来たばかりで不安だろうという口実から、うまく悩みを聞いてあげると方向に持って行ったのは良かったのだが、古米男も警戒して、中々悩みを打ち明けない。こういうのは心を開かないと、なんてメソメソしたことを言いはじめたときはイライラした。
そこから私が強引過ぎたこともあって、ちょっとした口論に発展した。
私のことなんか何にも知らないくせに、「能天気で良いよな」なんて言われたときは本当に悔しかった。
その一言で、今までは大嫌いだったのだが、それが超嫌いになり、思い出しているうちに鬼嫌いになった。
絶対、呪ってやるんだから。
けど、呪うにしてもあの男の悩みはまだ聞いていないし、髪の毛も持って行く必要があるし、わ、わたしのパンツをあの男に履かせて、それも占い屋さんに持って行かなければいけない。
ケンカをしていては、それらを集めることもできない。
そんなことを考えていると、古米男の方からラインが来て、謝りたいからどこかで会えないかと言ってきた。私は心の中で爆笑した。
バカだ、この男。呪われるのも知らないで、私と仲直りをするためにのこのこ会いに来ようとしているなんて。
その結果、好きな子とくっつくこともできず、都合のいい男として利用されるだけ利用されて、他の男に取られるなんて予想もしていないだろう。
私は仲直りの場所に公園を指定した。