第八話 向かう先は俺の知らない俺がいる場所
現れた釣り人の名は六反田新流主。俺の父親である。
息子が病院に運ばれて大変だという時でも、呑気に釣り竿を通してお魚とのコミュニーケーションを楽しむ変わった男だ。
「よろしく、新流主父さん」
「おいおいなんだよ。いつもみたくパパでいいよ」
「いやいや、絶対にパパって呼んでなかっただろう!」
自分が知らない自分の事を知っている人間が幾人といる。知らなかったが、こうなると懐疑心も生まれるものだ。他人が持つ自分の情報をすぐには信じ難い。人を疑う心は、人の中にいくらかはあって当然のものだとは想う。だが、その心を育てすぎると、人を信じる清き気持ちを押し潰すことになる。それは美しくはない。
「はっは。そうそう、そんな感じで、太郎は前々からカミソリのように鋭いツッコミを入れがちなお子様だったよ」
談笑。部屋を包むのは、お気楽な家族達の笑顔と内容があってないような話。平和なんだな、この家は。
「で、太郎よ」
「え、何?」
「最初にお前を見た時からずっとそれはなんだろうと思っていたのだが、待っても説明がないのでしっかり聞くことにしよう。で、なんだそれ?」
また何を言い出すのだろうこの父は。そう思いながら父が指差す先を目で辿る。それは俺の胸辺りを示していた。
で、気づいた。何をしているんだろ俺はと。
「これは……えっと……」
どうしよう。説明に困ることはない。話せば簡単だ。だが、そんな事を話さないといけないこの状況に困る。
俺は白いシャツを着ていた。その下からすっかり透け、そして浮き立つピンクがある。
しまった。姉の部屋で装着したブラがそのまんまだった。
不思議なもので、父に言われるまで気づかないくらい身につけて違和感がなかった。この僅かな時間で俺の体が慣れたのか、それとも体の一部に感じる程フィットするすごい作りになっているブラジャーなのか。とにかく「俺のおっちょこちょい」と反省のツッコミを自分で入れておこう。
しかもこれはちょっとカップが入っているのか、本来の俺のバストよりもちょっと盛られている。うむ、より女子な気分。
「胸があるんだけど……それもあれか?記憶喪失の弊害というか、新たな目覚めなのか?」
そうだ。父が尋ねる通り、記憶を失ったことで起きた混乱の末に到達した弊害が胸のコレだ。
「ふふっ、それはね、一つ失って一つ覚醒した弟へ向けてお姉ちゃんが送ったプレゼントなんだよ」姉はそう説明した。嘘である。
数えてみると失った物が二つなだけで、新たな覚醒などない。失った物の一つは記憶、もう一つはナイスガイを保つ体裁だった。
「そうか……まぁ良いんじゃないのかな。いや、ホントに良いのか……まぁ悪くはないさ。そういう人も少なくない数いるからな。でもな、服との組み合わせは考えなよ。スケスケだぜ」
意外な方向に息子の趣味が覚醒しても、頭ごなしに否定せず、マイルドな思考で言葉をかける。そんな父の気遣いさんなところが見えたのは良かったが、俺にそんな趣味はない。
「というか姉さん、母さん。なんで飯を食っている間に教えてくれなかったんだ?」
俺の問に対して二人は「面白そうだから」と意見を揃えて来た。
これからは男性用下着を身につけて生活するようにしよう。
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「てなことが昨日の晩にあってさ~。記憶喪失一日目にしてさっそくナイスガイの立場が危ういものになったってわけよ」
「へぇ~それってすっかりその立場からは転落で、全然ナイスガイじゃないよね~」
翌日、俺はグミに記憶喪失後の経過報告を行った。
「で、お前どしたの?こんなところまで来てさ」
俺は自宅の玄関で、我が家を訪ねて来たグミと立ち話をしていた。
「え、だって昨日言ったじゃん。また明日ねって」
「あ、そうだっけ?そういや言ってたかも」
「おいおい、記憶を落っことして帰ってきたばかりで、もう次の物忘れが来てるの?しっかりしてよね。で、その明日が来たから、私もちゃんとここにいる」
分からないなぁ。この子の事はまだまだ掴めない。
「で、その明日が来たわけだけど。それで何するんだ?」
「何って、太郎くんの自分探しさ」
「え、それってさ、自分を探そうって状況が既に自分を見失ってどうしようもないっていう、悩める若者がよく陥りがちな無駄時間の事?」
自分なんてのは、探そうと思った時が真の失い時なのかもしれない。まだ若いはずの俺の中にある冷めた真実がそれだった。
「ぷははっは!無駄とはまたキツイことを言うね太郎くん。それは自分を見つけようと思えば思うほど発見から遠ざかって焦る人間にとって相当きついパンチだね。君は現実主義な毒舌さんだったみたいだね」
グミは笑っている。
「で、どうやって自分を探すんだ?」
「今の太郎くんは、比喩とか人生の迷い人への揶揄でもなく、本当に自分という者の情報を失っている。だからあちこちを探すの」
「ふむ。で、どこを探す?」
「大丈夫だよ。太郎くんが失った記憶ってのは、太郎くんが知らない内にも、誰かさんにおすそ分けしてしまっている。記憶ってのはそんなものだよ。だから分け与えて行った分を回収に向かうんだよ」
「それはつまり、俺の知らない俺を知っている者達を訪ねて情報収集をするってことか?」
「そうそう。散りばめられた記憶達は、ゆっくり拾って行くことでいつかしっかり元通り一つになる。そう想わない?」
「う~ん。そうして物体に例えた説明では、この場合だとすっかりその通り行くとは限らないが、まぁ試す価値はあると思う」
「じゃあ行こう。君の知らない君を知る者達の所に」
まるで大いなる冒険へと導くナビゲーターのような大げさな物言いをする。実際にはただの聞き込みなわけだが。
それでも俺は、グミに導かれるまま町に繰り出す事にした。また分かったが、俺という男は結構付き合いが良く、アクティブだったらしい。