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第四十七話 CASE タドちゃん:水の中の邂逅 1

 さて今日も釣りだ。

 釣りは良い。一見何もしていないように見えるこの趣味だが、実は思考の連続バトルでもある。

 こちらは糸を垂らしてじっとしているわけだが、向こうさんはそんなことはない。忙しく水中を行ったり来たりしているのだ。

 天上より垂らされた糸の先に括り付けられた美味しそうな何か、果たしてそれは食らいついても大丈夫なものかどうか。不自然に登場した獲物はやはり不自然なだけに怪しいが、その怪しい味は確かに自分の欲求を満たすお宝だ。欲しい何かが目の前にあって飛びつかない手はない。ないのだが、やはりどうだろう。そうも美味しい話があるのだろうか。


「ぷぷっ」


 思わず笑ってしまう。魚だって生きている。もしかするとそんな事を考えてこちらに対応してるのかと思えば面白い。

 それを見越してこちらも糸を揺らして引っ張って、また遠くに投げてを行う。そうして魚心理を揺らがせ、いざ食いついた時に心理戦が力比べの物理戦になる。これが最高に楽しいのだ。


 釣りをやったことがない人は人生を損しているとは言わない。むしろまだ切っていない楽しい人生のカードを手元に残しているのだからコレから楽しみがあってお得。こう考えると人生は長いのだから早期段階でバンバン良いカードを切るものではない。いくらかは敢えて先送りにするのが上手いやり方かもしれない。

 というような人生観について考えて学ぶきっかけになることでも釣りは素敵なのだ。ねっ、この説明で悪いことなんてまるでない良いことだらけの世界って証明されたでしょ。


 ややっ!先客がいるみたいだ。


 私のよく知る穴場スポットに先客の釣り竿が置かれている。しかし不思議だな。釣り糸の先についているのはキュウリのように見えるが……やはりそうだ。今一度しっかり確認したがこれはキュウリだ。田舎のおふくろが畑をしていて、そこで育てたのを一緒に収穫してはガツガツ食べたものだ。良いなキュウリ。今日はキュウリを齧りたい。


 と、キュウリどころじゃないぞ。持ち主はどこだろうか。辺りに人影がない。

 周囲を見てみる。

 

 キュウリの釣り竿が転がっている少し先には、汚れた黒い長靴があった。拾って見る。

 なぜ片方だけ?もう片方が無い。これでは持ち主が困るだろうに。

 もう片方もどこかにないかと思いもっとキョロキョロして辺りを見る。


 うん?あれ?あれはもしや溺れているのではないか。

 丘に人影がないので川の中を見てみる。10メートルほど向こうで不自然にバシャバシャと飛沫が上がっている。中で小さな人影が揺れている。

 あれは子供だな。遊んでいるなら良いのだが、そうでないパターンだと怖い。


 少し走ってみる。


「おーい坊や。どうした?」

 

 もしかすると命の危険なのかもしれない。しかし私という男は、これよりもっと危ない目に追い込まれた他人のピンチを幾度も見てきている。そして何よりこの私こそが人より多くピンチを肌で体感してきたのだ。なのでこういった急な場面でも変に落ち着く普通よりも変な人間性が見に着いていたのだ。


 坊やから返事が帰って来ない。

 これは当たって欲しくなかった恐ろしいパターンだ。あれは溺れている。放っておけばあの子の運命は水の世界の采配に委ねられる。それはきっとよくない采配だろうから、私が助け舟を出すのが良かろう。

 今日は水泳の予定はなかったのだが、こうなっては仕方ない。今一度トビウオの化身となろう。

 

 私はベストな入射角で水面を切ると真っ直ぐに坊やに向かった。丘から対象までの距離は大したことはない。

 この川も中央部までいけば意外と深い。子供なら足がつかないだろう。溺れる体、それに待ったをかけず飲み込む世界。まだ小さな坊やがそれを体験して冷静でいられるわけがない。冷静になったらなったで死ぬのも早くなる。

 彼は力の限り吸い込む力に抗い、己に浮力に蓄えようと必至に藻掻いていた。分かる。それは私も幼い頃体験したことだ。水との融和を可能にするまではやや時間がかかるものだ。多くの哺乳類は魚のように水の中でもオールオッケーとはいかないものだ。かつてトビウオと呼ばれた私だって、そこから更に巻き戻ったかつての世界では惨めに溺れる豚に過ぎなかった。昔はもっとぽっちゃりだったんだなこれが。


 溺れている坊やは私を見てやや安堵した顔を見せたものの、安堵の直後に沈む恐怖が襲うものだから結果的にいつまでも忙しく藻掻いて大変だ。

 私は再度水に潜って彼の後ろに回り込んだ。そうして後ろから抱きしめる。前からだと暴れてしがみついてきて、下手をすればこちらが溺れさせられることがある。溺れる者は藁をも掴むのだがら、藁の何倍も太くてがっしりした私を見れば全身で抱きついてくること必至だ。そういうことがないよう救助は後ろからにするがのベスト。


 もう安心な段に入った。


「もう大丈夫だよ坊や」

「坊やじゃないよ。太郎ってんだ」


 ほう、先程まで言葉を発する余裕なく藻掻いていた子供が、助かったと分かった途端元気に言い返してくる。状況の飲み込み、そして順応が速いと見た。

 泳げないという体の経験の拙さはあるものの、肝は座っているようだ。これは大物になる見込みがあるぞ。


「そうかい太郎君かい。もう覚えたよ」

「おじさんはどうしたの?」

「ああ、おじさんは釣り人なんだけどね。釣りをしようにも川の真ん中でバシャバシャやっている子供がいたら魚も逃げて釣りどころじゃないだろう。だから丘に帰ることを勧めに来たんだ」

「変なの。じゃあ帰ろうか」


 そうして私は太郎君を丘へと連れ帰った。

 予定外の水泳をし、パンツまでびっしょり濡れてしまった。これが夏で良かった。冬ならこうもまったりと会話をしながらのお気楽救助とはいかなかっただろう。

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