第四話 魔境のレイシー
自宅はなかなかの魔境だった。
「たろちゃんたろちゃん!」
ドタドタと音を立てて走り寄る女がいる。うるさい。
「たろちゃんごめんね迎えに行けなくて」
女は抱きついてそう言うのだった。
「病院から連絡もらってびっくりしたよ。まるでマンガみたいに記憶が飛んで行っちゃったって。本当すごい事になっちゃったわね。で、ちゃんと覚えてる?愛しきママの事は覚えているの?」
ここで知ることになる。この女は俺のママらしい。
「可哀想に、ママの愛も忘れてしまったのね。でもでも、愛は脳よりもハートで記憶するんだってさっき見たドラマで言ってたわ。医学知識なんてゼロでも、真心たっぷりマイハートを息子にぶつければきっとこの問題は解決できるはずよ」
何か言ってるし。ちょっとやばいママなんじゃないの?
「玄関で立ち話もいけないわね。ささっ、早くこっちで休みましょう」
母は俺を連れて奥の部屋へと進む。
「さぁさぁ、ここにかけて美味しい煎餅でも齧りなよ」
畳の上にちゃぶ台がある。その上には醤油煎餅がある。
俺は座って煎餅を手にとった。
おっ、これは知っている。俺はコレが好きだった。
さっそく齧ってみる。美味い。俺は煎餅が好きな男だった。
「ね?やっぱり覚えているよ。煎餅の事をココがさ」と言って母は自分の胸をとんとんと叩いた。その後にはポヨンポヨンという反動が波打っていた。
俺のハートは煎餅に対してそうも敏感かつ熱っぽく反応するものなのか。
母も煎餅を齧り、テレビ番組を見ている。
「このドラマもね、たろちゃんみたいに記憶がどっかに行っちゃった男が出てきてね、そんで記憶が飛んでクリアになった頭で運命のヒロインに会って楽しいことになるのよ」
母はドラマにのめり込んでいる。
あれ?こうしてドラマに夢中ってことは、どういうことだ?
「はぁ~ほんとごめんね。これ再放送だし、本放送も全部見て始まりからオチまで丸っと全部知ってるんだけど、それでもどういうわけかしら。一度見ると惹きつけられてその場を離れなくなってしまうの。きっとこれが名作だけが産むマジックね。そんなわけで、病院から連絡があっても動けなかったの」
「いや来いや!」
息子の記憶がぶっ飛んだという異常時を前にしても、この呑気でお気楽な母は、煎餅を食いながらテレビを見ていたのだという。どんな母だよ。
ドラマが終わった。
「で、たろちゃん、どう?今どんな気分?」
「いや、なんかちょっと疲れたかな~とか思うので……俺の部屋ってあるの?」
「あるある。大事な息子の部屋よ。ここを作る時に、お父さんとは設計についてしっかり話し合ったのよ。日当たりが良い素敵な配置になっているわ」
「母……お母さん、ちょっと体と魂を横にして色々考えたいんだ。いいかな?」
「お母さんですって!そんな他人行儀な。いつもみたく名前+ちゃん呼びにしてよ。そんなよそよそしいたろちゃんを見ると、ママはマジで辛いわシクシク」と言って泣いて見せる母の目に涙などなく、下手な泣き真似だとすぐに分かった。
マジか。俺は母を名前+ちゃん呼びする今時最先端の若者思考で生きていたのか。……あれ、どこらへんが最先端の若者思考なのだろう。
「あ、えっと、なんて呼べば?」
「ああ、嘆かわしい。ママの名を、自分の魂の帰る場所の名を忘れるなんて」
なんだよ。俺の魂の故郷はあんたなのかよ。まぁ親だからそれで大きく間違いもないのだろうけど。何か表現が妙なんだよな。
「では今一度刻むのよ。あなたを生みし偉大なる母の、いやママの名を」
「いや、ママ訂正はいいから」
息子の俺が太郎だろ。そんな古のネーミングセンスの親だからな。だったら花子とかそんなところだろう。
「私の名前は六反田麗椎。宵越しの銭はなるたけ残す慎重な女よ」
「ア、アメリカン!期待を裏切って意外にもアメリカン!」
日本人の母は、国境の向こうに住む地球の仲間のような名前をしていた。