第十八話 すき焼きは素晴らしい
熱された黒き汁の中を泳ぐ赤衣は、すぐにも黒を吸収し美味しい変貌を遂げる。赤を忘れた黒は、次には黄色き湖にダイブすることになる。ぬるっとした黄色を纏うことで味の革命は終焉を告げる。そんな美味しい歴史は、俺の口内に収まる事で伝説と化すのだ。
「美味い!美味いぞぉ!なんだコレは!とんでもなく美味いじゃないか!」
喉の奥より響くのは心地よき鼓の音。美味いものがそこを通れば始まるパレードがある。人はそれを「舌鼓を打つ」と表現するらしい。さっきグミから聴いて知った言葉だ。
「一度は死んだはずの何かの肉に再び命の輝きを見た!」
そしていま一度俺に食われて本当にその命を全うしたのだ。残酷な食物連鎖の中に見る神秘の光がある。俺はそれに感動した。
「大げさだなぁ。牛肉の一枚にそこまで感動する現代人なんてそうそういないよ」
隣で白米を食っているグミにこの感動は分からない。
「で、なんだこれは。この黄色いねっとりまろやか汁はなんなのだ?」
「それはね、卵と言ってね。あ、ほらそこ。そこを走ってるあの鳥が産んだものだよ」そう言ってグミが指差す庭を見れば、立派な赤い冠を戴く白い鳥の姿があった。
「あれは鶏と言ってね、それが産んだものを鶏卵っていうの。割ってぐるぐる混ぜればそうして黄色いねっとりまろやか汁になるのさ」とグミの丁寧な説明。
「ほほう。そうかそうか」
これが卵というものか。肉もすごいがこちらもすごいぞ。鳥さんの産んだすごい発明だったんだな。
しかし庭にあんな立派な鳥を放し飼いにしているとは、なんともワイルドなご家庭。
「はっはっは!どうしたんだいこの子は?肉や野菜に卵、何を食ってもまるで初めて食ったみたいに面白い反応をするじゃないか。外国から来た人かい?」
じいさんにとって俺の反応は外国人のそれのように見えたらしい。無理もない。俺は生粋の日本人だが、今の状況だと昨日やって来た外国人と同じくらい色んな物が新鮮に見えるのだ。
「うるさい奴だな。せっかく俺が持って来た肉だぜ。静かに味わって食えよ」
「あっ、なっくんありがとう。こんな美味いすき焼きという料理を食えて俺は幸せだ。幸福とは食卓の上にあったんだなぁ~」
レイシーママの食わせてくれた里芋や太刀魚も美味しいものだったが、このすきやきという食い物はあれらとは全く違う味わいがある。
「なんだよお前、まぁ美味いならいいか」
なっくんは良い肉の人だな。
「しかしお前、人んちに急に上がってきてよくもまぁ遠慮なくガツガツ食うものだなぁ。それも汗まみれで」
「え、そうか?なにせ遠慮の範疇というものも忘れてしまって良く分からんのだ。そんなに食ってるのか俺は?」
「いや食ってる食ってる。飯何杯目だよ?」
「はぁ、4杯だったかな?」
「いや、5だよ!」
なっくんカウンターは5杯食ってると教えてくれた。
「まぁまぁ良いじゃない。たくさん食べる男の子っていいわよね」
「ははっ、そうですか。ではお母さんもう一杯」
グミ母におかわりを頼む。
「なにおぅ~!じゃあ俺もおかわり!」
なっくんも俺に続いておかわりを頼むが、わんぱくさでは俺の胃袋が上手だった。
グミの家庭は明るく健やかで平和そのものだった。そして飯がとても美味い。
食い終えたところで太陽の営業時間が終了した。お外は真っ暗。こうなると俺もさっさと帰るべき。
グミが玄関まで見送りに来てくれる。
「じゃあ気をつけて帰ってね。ちゃんと自転車のライトつけるんだぞ」
さっき知ったが、夜間の無灯火運転はマナー違反だという。ではしっかり闇夜を照らして帰るか。
なんだか疲れるばかりで大した収穫のない記憶集めの旅だったが、美味いご馳走を食えたから全部良しとするか。満足して今日の終わりを迎えられそうだ。
「で、なんだけどさグミ」
「え、なに?」
「うん、それがな、お前を追いかけるのに必死でまるで道を覚えていないんだ。だからまた送って」
「いい加減にして」
抑揚なしの冷たい返しだった。
「おいバカ。俺が送ってやるよ」
靴を履き終えたなっくんが闇夜の案内役を買って出てくれた。じゃあ送ってもらおうか。
「太郎くんっておバカだよね。今度簡単な地図を書いてあげるよ」
「おバカを相手にするならもう一歩踏み込んだ細かいやつに仕上げてくれ」という俺のオーダーにグミはやや不満げな反応を示した。