眼毒
その日、私は東急田園都市線に乗り、渋谷へ向かっていた。
思わず腹の底から唸り声が漏れそうなくらい暑い夏の日で、気持ちが滅入っていた。クーラーの効いた車内に乗り込めば、こんな気持ちも払拭出来るだろうと思っていたのだか、生憎車内は人でごった返していた。
何とか身体を滑らせて車内に入ったものの、さらに背後からの乗客に押され、私はたちまち電車の中程まで追いやられた。他人の熱気や満員電車の苛立ちが、私にも伝わってくるほど殺伐としていた。
「辞めておけば良かったかな…。」
私は、ほんの気まぐれに出かけた自分の浅はかさを呪いながらも、やるせ無い気持ちを落ち着かせようと周囲に眼を向けた。
乗っている人は実に様々な装いで、着飾っているように見えた。誰も彼も爽やかな夏のイメージに合うような服装とは裏腹に、その心の中はどす黒く、混沌としているように思えてならなかった。
ボーイフレンドと思われる男性と笑って話しているあの女性も、友達と一緒にショッピングに行くであろうあのご婦人たちも、友達と渋谷に行くであろうあの若者たちも…。みんな心の中は、陰湿で底の知れない闇を抱えているんだ。
「ああ、鬱陶しい。それに腹立たしい。私の様に真っ当に生きた人間は、この世にいないのだろうか。」
ふと、そんな事まで考えた時、私の前に立っている御老人が眼に留まった。御老人は杖で身体を支え、やっとの事で吊革を握って立っていた。今にも崩れてしまいそうな建物が、何とか柱一本で生きながらえているように見えた。そして、この廃墟に近い建物を前にして、悠然と優先席に座っている若者が見えた。若者は、眼の前の御老人を一瞥してから狸寝入りを始めた。その白々しい一連の行動を見て、私の心は何とも言えぬ色に染め上がった。
座っている若者は、サングラスを掛け、黒のシャツの上に黒のセットアップを身につけていた。一眼で上等な物だと分かる。持っているクラッチバッグは、今流行りのブランド物。革靴も黒…。
憤怒や憎悪に近い感情で、その若者の革靴を睨みつけた。この革靴を踏み付けてやりたい。
「見たところ、大学生だろうか。若い癖に一丁前にブランド物で身を固めて、どうせ親の金が何かだろう。世間を知らないお子様に、世間の厳しさを教えてやる。」
サングラスのせいで表情は分からないが、やや上を向いた顔から推測すると眼を閉じているみたいだ。私は御老人の股の間から、素早く自分の足先を出して若者の革靴を踏もうとした。
しかし、革靴を踏みつける前に私の身体は自然と止まってしまった。何故なら、私は若者に睨まれていることに気付いたからだ。
一体、いつから…。そもそもサングラス越しでは表情は読み取れないが、やや上を向いていたはずの顔は、いつの間にか私の方に向けられていた。私の周りを取り囲む空気が、急に冷えたように感じる。私の身体は、革靴を踏もうとした無理な体勢のまま固まってしまった。若者に向けていたはずの“毒"が、私の身体に注がれたようだった。
結局、私は渋谷駅までは行けず、池尻大橋駅で降りてしまった。
私は今日まで、自分を正義だと思っていた。自分の考えは正しく、いつも前を向いて歩いているはずだった。具眼であるとさえ信じていた。しかし、それは思い上がりだったのではないだろうか。
“毒"は私の身体を徐々に駆け巡り、やがて眼に到達したようだ。陰湿で底の知れない闇を抱えているのは私だった。
そう認めてしまうと、自分の築き上げた城が崩壊していくのを感じた。そして、その闇の中で崩れ落ちる音を、静かに耳を傾けている自分がいた。