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楽園

作者: 矢木真弓

2011年冬コミに、新刊として自宅のプリンターを使ったオンデマンド発行した創作小説です。

当時姑の在宅介護を決意し、そのための勉強もしていた頃。その時の救命や・介護に関する考えが強く反映されたものです。

 お母さん。

 幸せでしたか?

 生きていることを、楽しいと思えましたか?

 お母さん

 貴女の深かった心の傷を癒すことはできましたよね?




 四一七二年 晩秋月

 通された部屋に、ストレッチャーに乗せられた黒い包みが一つ運び込まれてきた。

 目の前に置かれた、それを見て、僕はゴクリと唾を飲み込む。

「離せないので、そのままです」

 運んできた係員が、そういって僕の目の前でジッパーを下げていった。

 覚悟していた腐敗臭はなく、現れた遺体は全身が茶色に干からびていた。それでも、わずかに母の面影を認めることができた。

 その顔に苦悶の表情はない。むしろ、なんと言えばいいか、そう満足げに見えた。

 これは僕の願望の投影なのだろうか?

 それでも、母の腕の中に、母以上に黒ずんだ塊を認めて、僕の願望の投影ではなく本当に母は満ち足りているのだと悟った。

 お母さん、今度は離さなかったのですね。最後まで一緒に。

 僕の頬を涙が伝った。

「お母様で間違いございませんか?」

 念を押すように問われて、僕は我に帰った。

「ああ、はい。間違いありません」

 涙をぬぐい、彼に向かって深々と頭を下げる。

「ところで、あの……、どうされますか?」

 包みを閉じずに聞かれて、何を問われているのか理解できずにいた僕に、彼は言った。

「あの……引取りに際して、遺体と、遺体以外を分けるかどうか?」

 母が抱え込んだ塊を言っているのだった。

 僕は母を見た。

「いえ、このままで」

「わかりました。ありがとうございます」

 僕の返答を受け、彼は明らかにホッとした様子で包みを閉じた。




 僕は回想する。

 あの日、人々は何がおきたのかわからないまま、未曾有の大混乱に巻き込まれた。僕も、他の人々も、あの時は誰もが自分の身を守ることに精一杯だった。

 後に、多次元震と名づけられた災害。その被害は太陽系全てに及んでいた。

 何処が最初だったのか、何故発生したのかといった原因は解明されていない。人知の及ばないことが起こった。

 僕が知っているのは、あの日、太陽系内の惑星間、コロニー間の通信は途絶し、航行していた貨客船には行方不明が相次いだということ。

 最初に周波数の短いラジオが、やがてメディアが周辺情報を流し始めた。専門家と称する人々が解説をした。しかし錯綜した情報は信憑性に欠けていた。

 そして水と食料を巡る争いが起こった。

 僕のいた月面都市は、衛星軌道上のコロニーほどではないものの、食料資源は乏しい。

 僕の想像だが、震災そのものよりも、その後の食料を巡るパニックと争いで命を落とした人々のほうが多かったのではないだろうか。

 コップ一杯の水、パン一切れ、ただそれだけのために、親子、兄弟、親戚、友人など、つながりは簡単に切れていった。もちろん少ないものを分け合い、助け合っていた人もいる。それは、ほんとうにごく少数だったけど。

 そのごく少数の人々を襲う輩。無法地帯だった。

 すぐ目の前に見えている地球や周辺のコロニーと通信がつながるまでに、なんと一月以上かかり、そこから支援食料が得られるまでに一ヶ月。届いた支援が被災者にいきわたるまでに、更なる時間が必要だった。

 争い、迷いながら、それこそ対処療法的にインフラ回復に人々は努力した。

 多くの屍を乗り越えて、生き残った人々は救助や復興のために動いたのだった。

 そうして、僕の元へ遠い火星から母の死が知らされた時、すでに震災から一年が経過していた。




 窓の外では砂が風に舞い踊っていた。右に、左に、上に、下に、前に、後ろに、くるくる回転しているものもある。磁力をともなった砂嵐は、互いにくっつき、あるいは反発して、一方向に動いていない。それは吹き付けているではなく舞い踊っているという表現が似合う。

「いったい、いつになったら現場にいけるんだね!」

 怒鳴っている男がいた。

 顔を赤くし、こぶしを振り上げて。

 そうしていれば、この嵐が収まるとでもいうのか……

「すみません、嵐がひどくて今日は飛べないと」

「だから、いつになったら行けるんだと聞いているんだ、え?」

「そ、それは、嵐がやまないと……」

 なんと不毛なやりとりか。

 僕は、そっときびすを返した。

「あの……本当にすみません」

 傍らにいた若い職員が頭を下げていた。

 一瞬、なぜ頭を下げられるのかわからなかったが、彼が僕付きの担当者だったことを思い出して軽く手を振った。

「いや、あの御仁ほどに急いでいないから……気になさらないでください」

「申し訳ありません」

 彼がどう受け取ったかわからないが、僕は本当に急いでいなかった。急いだところで、やることはかわらない。

 赤茶色一色のこの地に磁気嵐は珍しくない。僕が知る限り、ここはこんな土地なのだ。

 だから、この地に建設されたドームは砂嵐・磁気嵐に対しての防御は最高だった。

 あの震災で、まさか砂が吹き荒れる嵐ではなく土石流のようにまとまって流れ下るようにドームを襲うなどととは、誰も想定していなかった。

 人は事が起きてから、過去を検証する。

 それまでは見向きもしなかったような古地図や、伝承を掘り起こす。そして「この古文書には○○○年前に、同じことが起こったと記されている」などと検証不足を並べ立て、責任がどうの、保障がどうのとがなりたてる。

 過去、多次元震はあったかもしれない。しかし人類が誕生してからの歴史の中で、多次元震が記録された文献など見つかっていない。それでは検証などできるはずもない。

 未来に向かって記録することはできるとしても。

 男は、まだ怒鳴っていた。

 そんなことをしていても、何にもならないというのに。




 遺体確認のためにご足労いただきたい。そう連絡が来たと妻に言った。返事は、妻らしい言葉だった。

「私が行っても結果は変わらないし。それに今はどこも大変な時、余計な負担を相手にかけるべきじゃないと思うの」

 妻はいつも正しい。

 母を預けていた施設まで、片道に掛かる金額は安くない。もちろん僕にとって払えない額ではないが、頻繁に往復するには躊躇する。

 実際、預けてから十一年、僕は母に会いに行かなかった。

 今回は、震災被害者の家族ということで費用は政府が持ってくれる。

 妻と二人動くとなれば経費は倍。世話をしてくれる人にも気苦労をかけることになるだろう。だが、悲しみを分かち合う人が傍にいてほしかった。

 もう一度、一緒にと誘った僕に妻は言った。

「そうね、あなたを一人で行かせるべきではないのかもしれないわ」

 僕に向けられた妻の背が、ほんの少しゆれていた。

「でも私は行けない。わかっているでしょう?」

 ゆれた背中に抱いた希望はかなわなかった。

「ねぇ、あなた。人一人の世話をするということは、その人の命を預かるということよ。責任があるということ。私はそんな責任は負えなかった。あなたも、そうだったわ。だから私たちは、お姑さんの世話を放棄し、他人にその責任を預けてしまった。今、私にできることは、お姑さんと会うあなたが、努めて冷静にいてほしいと願うことだけなのよ」

 否定はしない。お金という対価で、僕と妻は自分たちの自由を、介護に裂かれるはずだった時間を買った。

「私たちは、静かにお姑さんの死を受け入れて、お姑さんの身体をしかるべき場所に収めるための手続きをするだけ。お姑さんの世話をしてくれていた人たち、あの小さなものを責める権利も資格も持たないのよ」

 僕と妻の間に、長い長い沈黙が降りた。

 それぞれに、それぞれの想いのこもった沈黙が。

 妻の言葉を思い出しつつ、目の前であからさまに相手を怒鳴る人間を見て、これが「他人のふり見て、我がふり直せ」ということか、と古いことわざを思い出す。

 あの怒鳴り散らす彼には不本意だろうが、おかげで衆人環視の中で僕自身が醜態をさらさずにいられることに感謝した。




 足止めは3日ですんだ。

 震災以降、天候は予測を超えて変動している。3日間で晴れたのは運が良い方だという。

 希望者はグループに別れ、被災地―施設があった場所―の上空を飛んだ。

 どこまでも赤い大地。

 母を預けていた施設のドームは、記憶にあった元の場所にその形はなかった。そこには、長い長い濁流の痕がくっきりと続いていた。

 ヘリはその濁流のあとに沿って飛んでいき、その先に見えたのは、まるで滅びた大型動物の骨格。

 いや、骨格のように見えたのは、ドーム施設の骨組み。そのほんの一部分だ。

 元の面影は残っていない。それは生存者ゼロを如実に示していた。




 記憶は、舞踊る砂のように切り替わり、遡る。

「咲ちゃん!!咲子!」

 母から出た言葉に、僕は驚いた。

 モニターをまっすぐ見据えて、名を繰り返し呼んだ。しかも、ベッドから身を乗り出そうとさえいる。

「咲ちゃん!」

 次の瞬間、僕はさらに驚くことになった。

「お母さん!」

 モニターに向こうのソレは、そう答えたのだ。

「咲子!咲子!いったい今までどこにいたの!!」

 モニターにしがみつき涙を流して問う母の姿に、僕は吐き気を覚えその場を離れてしまった。




 四一六〇年 土用月

「助けて、それでどうするの?」

 妻の言葉に、僕は少なからず驚いていた。

 母と妻の間柄は、傍目には悪くなかったと思う。だが母が倒れ運ばれた先で妻は言った。

 僕はまじまじと妻の顔を見て、そしてこんな冷たい女だっただろうか?と思った。

「あんた! なんてこと言うの?!」

 くってかかったのは叔母だったが、妻はひるまなかった。

「では、手術で命が助かった後、お姑さんのお世話を叔母さんがしていただけるということですね? 私では、お姑さんのお世話はできません」

 僕も叔母も言葉が出ない。

「助けた後の世話をちゃんと責任もってできる人が、助けることを決めてください」

 手術を提案した医師は、母の年齢を鑑みて回復の可能性は「ない」とはいえないが、必ず「回復する」ともいえないという。

 しかし「手術しない」を選択することは「母を見殺しにする」ように思えて、僕は同意書にサインしてしまった。

 長時間の手術に耐え、母は命を取り留めた。

 命だけは、というべきか。妻を除く、皆が「助かってよかった」と言った。

 が、母の回復は思った以上に悪く、僕や叔母たち周囲が抱いていた希望が幻想であったことが、目に見えてきた。

 急性期医療から、リハビリへ。そして退院へ向けての準備へと、病院の事務は、患者家族の事情や、患者本人の状態を忖度しない。

 母の入院していられる期間は限られていて、一分一秒たりともその期間を延長することができないという。

「で、あなたか叔母さんがお姑さんの面倒を見るのよね?」

 リハビリ病棟での最初のカンファレンで、妻は言った。

 その言葉に、僕をはじめその場の全員が沈黙した。

「私は、はじめからお姑さんの介護はできません と意思表示をし、手術にも反対した。その私にこの期に及んでお姑さんの面倒を見ろなどと、厚顔無恥もはなはだしいことを言わないわよね?」

「……」

「介護は、手術でお姑さんを助けると決めたあなたたちでしてちょうだい。それが、命を救う選択をした者の義務だわ」

 妻は、それだけいうとカンファレンスの場から去った。

「あたしにできるわけがないでしょう!だいたい、サインをしたのはあんたなんだから、姉さんの介護をあたしに押し付けないでちょうだい」

 叔母は、妻に介護をさせるよう言った。しかし、どれほどなだめすかしてみても、妻の決意は変わらない。

 妻にしてみれば、最初に「介護できない」と言った以上、できないのだ。

 僕にしても同様だ。

 では、なぜ救命したのか。そう、周囲から「見殺しにした」と言われたくない。ただそれだけ。後のことなんか考えていなかっただけだ。

 ケースワーカーのアドバイスにしたがって施設入所申し込みをしてみたものの、百人以上の順番待ちという現実。どう考えても、施設の入所順番が回ってくるより退院の日が先になる。

 母の意識が戻らなければ、施設入所の順番が繰り上がる可能性はあった。しかし、なんということか、母の意識は戻ってきたのだ。人の倍もそれ以上もかかりながら。

 それは本来なら喜ばしいことのはずだった。

 もしかしたら、幻想が現実に置き換わるかもしれないとさえ思えた。そんな奇跡は起こりはしないというのに。

 意識が戻ったものの、発語がなかったときはまだ良かった。やがて言葉を紡げるようになった時から、母は時間かまわず、所かまわず、まるで呪いのような意味不明の言葉をわめき、ダダをこね、更には叩く、蹴る、噛み付くと、看護師や介護士の手を煩わせる問題患者となった。

 叔母は、母の意識が戻ってすぐは良く来ていたが、母の問題行動が増えると共に姿を見せなくなっていた。妻は当然来ない。何もかも僕が一人で受け止め、決めなければならないことは苦痛だった。

「在宅で、順番を待っていただくしか……」

 病院のケースワーカーと、ケアマネージャーはそう言った。

 仕事をしながら二十四時間在宅介護は無理。介護のために退職することはできない。

 そういう僕の主張に、ケアマネは言う。

「幸い……というべきか、お母様の介護度は一番高いですから、使えるサービスを最大限利用していただくということでは無理でしょうか?ただ、上限を超える分については実費負担ということになります」

「自己負担はどのぐらいに?」

「それは……」

 今後の介護にかかる費用も僕の頭を悩ませた

 疲れ果てて帰宅する。

「ただいま」

 静かな家だ。僕の言葉に、返事はない。

 居間の電気をつけると、テーブルの上に封筒があった。

 封を切れば、出てきたのは有料老人ホームのパンフレットと何枚かの書類。

 妻が用意したものか。そこのウリはただの介護ではなかった。

 読み進めていくうちに、僕にはそこが光に思えた。




 連絡先に電話を入れたら、担当というセールスマンが即日やってきた。

「私どもでは、責任もってお世話させていただきますよ」

 彼らが提案する新しいサービスは、地球から遠く離れた場所だった。

「ロボット?」

「アンドロイド、と言って頂きたいのですが、まぁ人間でないことは確かで」

 パンフレットに掲載された介護士たちは、その形は人に似せてあるものの、未完成のロボットとしか言えない。

「こんなものに、介護ができるんですか?」

「お疑いになるのはもっともです。ですが、この形が一番応用が利きまして」

「料金がいやに安いな」

 利用料金の欄を指し示し問うと、セールスマンは苦笑いした。

「人件費が不要ですから」

「不要と言っても、燃料やメンテナンスは必要だろう?」

「必要です」

 これに飛びついたのは間違いだったか?と思い始めた僕に、セールスマンは言った。

「これは臨床実験なんです。あなたのお母様には実験台になっていただくかわりに、個人負担していただく費用は最小限で、ということなんですがね」

 あけっぴろげに語り続ける。

「介護は人間だとおっしゃる方が多いんですが、人には相性というものがありまして、どんなに優秀な介護士や看護師でも、扱いの難しい要介護者は多いんですよ。暴力・暴言、はてはセクハラ。家族でさえ扱えない要介護者を預かる事業なわけですから、そういうリスクの発生は避けられません。ですがね、それで優秀な介護士や看護師が精神を病み職場を離れていかれると、サービス自体が成り立たなくなるんですよ」

 僕には言葉をさしはさむ間もない。

「どれだけ求人を出しても、離職率の高さは変わらない。待遇を良くするにしたって採算

があわないくらいに引き上げるわけにもいかんのです。で、まぁ私どもとしても、いろいろ考えて、大学と提携することにしたわけです。本当はこの臨床実験も地球圏で行いたいんですが、現在の法の下ではこれを臨床実験と認めてもらえない。まあ、治療薬の研究ではないですから、当然といえば当然ですね。それに機械に対してアレルギーというか、拒絶反応をあからさまに出す方もありますのでねぇ」

 疑うような僕に、気分を害した風もなくあっさりと答えた。

「その点、火星はまだファジー。開発時の事故によるサイボーグ化率も高いですから、ロボットの存在に違和感はありません。実際この実験には火星自治区からの助成も出ています」

 遠く離れた火星で、機械による介護を受けさせる。僕に迷いが生じる。

 機械に、人らしい介護が成り立つのだろうか?

「母は自宅に帰ると……」

 その自分の迷いを、母の言葉にすりかえている自分に気づきつつ言ってみる。

 セールスマンは一笑にふした。

「相性さえあってしまえば、お母様は心身ともに、ご自宅にいるのと変わりない、いや、それ以上の生活を保障しますよ!」




 セールスマンは迅速だった。

「アンドロイドと相性をあわせなければいけないので」とセールスマンは言い、母自身の脳波測定、CT検査、MRI検査などをするという。

 母に僕は退院前検査と説明した。これらの検査結果が出て、規定をクリアしていたら退院できるのだと。

 しぶしぶ検査を受けることを納得した母だったが、検査の当日は、いろいろ大変だった。

「そんなこと言った覚えはない。聞いてない」

 手のひらを返したようにごねまくる。しかしセールスマンと、彼が連れてきたスタッフは、意にかいせず、まるで魔法のように母を検査に連れて行った。

 更に、母の過去を洗いざらい調査しているようだった。

 一週間が瞬く間に過ぎて、

「全ての検査は終了しました」

 セールスマンが言った。

「お母様に、無理なく向こうへ来ていただくためのシナリオを、二、三日中に作らせていただきます」

 その宣言どおり、三日後には、僕の目の前に数冊の台本が届けられた。

「この中から、どれかを選べばいいんですね?」

 僕の問いに、セールスマンは首を横に振った。

「いえ、一つを選ぶ必要はございません。一つにしてしまうと不自然になりますから。これらのシナリオは、モニターで介護士とお母様を引き合わせたときの反応に合わせて入れ替えたり、新しいものを付け加えたりしながら進めるための土台です」

「まかせます」

 そう言う以外、僕にはできなかった。

 そして、母の前にモニターが置かれた。

「咲子!! 咲子!!」

 説明は聞いていた。だが、真に理解などしていなかった。母はモニターの向こうに、とうに鬼籍に入っているはずの妹・咲子を見ていた。

 セールスマンは母に言った。

「咲子さんに会いに行きましょう。一緒に暮らせますよ」と。

 母は、満面の笑みを浮かべてうなづいた。




 モニター越しの対面以降、母は、咲子に会えるという希望に満ちた。

 看護師たちへの暴言も暴力も、まるでなかったかのように静まり、積極的にリハビリに励んだ。

 看護師たちがまるで別人と噂するほどに、その変化は劇的だったのだ。

 そして、退院の日。

 病院から宇宙港へ移動する間も、地球を離れ火星への間も、母の感情が悪くなりそうな気配を感じると、セールスマンは絶妙なタイミングでモニターを出し、母に咲子と会話させていた。

 母は咲子との会話で陽気さを取り戻し、他者に迷惑を掛けることもなく長旅を続けた。

 その間、僕が母にしてあげられることはなかった。

 火星の衛星軌道上で、小さなシャトルに乗り換え、地上でさらにヘリに乗った。

 たどり着いたヘリポートから、更に専用車に乗り換えたときも、母の機嫌は上向いたままだった。

「咲子に会える。早く、早く」

 その想いの強さに、驚くばかり。

 長い長い距離を走り、赤い大地の只中に建てられた、ドーム施設に到着した。




「お母さん!」

 施設内で停車した車から、まず僕が降り、介護士が車椅子の母を降ろし始めた時、建物の中から母に駆け寄ってくるものがいた。

 それは、母が伸ばした腕の中に飛び込んできた。

「咲ちゃん!咲ちゃん!」

「お母さん!」

 母は咲子の名を繰り返し、その飛び込んできたものをしっかりと抱きしめた。

「咲子ぉ~」

 母の目からは涙が流れていた。

 それは、その姿さえ無視すれば感動的な場面だったろう。

 母を想う娘と娘を想う母の再会。しかし、母が娘と思っているそれは、人ですらないのだ。

 僕がたまらず、母になにか言おうとしたとき、グッと肩をつかまれ、後ろに引かれた。セールスマンだった。

 振り返った僕に、彼は何も言わず首を横にふり、そこから離れるように手で示す。

 ベテラン看護師が、母とそれに近づいて声をかけた。

「まぁまぁ、咲ちゃんもお母さんも、こんな場所では寒いですよ。奥へ入りましょう」

 母は瞬間きつい顔で看護師を見た。そして腕の中のそれを奪われまいとするよう抱きしめる腕に力が入るのがはた目にもはっきりとわかった。

 するとその抱きしめられていたものが身じろぎし、言った。

「お母さん、痛いよ?」

 その言葉に、母は少し力を緩めた。

「お二人で、奥へ入りましょう。中に暖かい飲み物があります。風邪をひいては折角の再会に水をさしてしまいますわ」

 看護師が今一度いうと、母は、腕の中のものを見、また看護師を見た。

 そして母は、母の中で何か理解したのだろう。

「ああ、そうね。咲子は寒がりやさんだったのを忘れていたわ」

 そして促されるままに母は奥へと連れて行かれた。




 母とは別に、僕が通されたのはまるで管制室のような部屋だった。

 壁一面が分割されたモニターで、そこには利用者がそれぞれ付き添うアンドロイドとともに生活する姿が映し出されていた。

「お母様の反応は非常にいいですね。この調子なら大丈夫でしょう」

 母が映るモニターをみやりながら、セールスマンは満足げだった。

 僕にはグレーののっぺらぼうなアンドロイドとしかみえないソレに、母はしきりに話しかけ、頭をなでて、抱きしめている。

「母が、アレを咲子だと認識しなくなったらどうなるのです?」

「それは、ありえません」

 セールスマンは即答した。

「なぜ、そう言い切るんです?僕にはアレは咲子に見えない。大体、咲子はもうこの世にいない。妹は、もう三〇年も前に死んだ。母もそれは分かっているはず」

「たとえそうだとしても、あなたのお母様にとってアレは咲子ちゃんです」

「違う、それにアレは母には咲子に見えても、他の人からは見えないだろう!」

 セールスマンは黙って僕を見た。

「だったら、私どもに頼られたのは、何故です? そんなにこれが不快だと思われるなら、私どもとしては契約解除していただいてもかまいませんよ。ただし、お母様を連れての帰りの手配はご自分で行ってください。私どもは、ここを去られる方のお世話までいたしませんのでね」

「ま、まってくれ」

 僕に、母を連れて帰ることができるはずもなかった。

「まったく、貴方の方がお母様より聞き分けのない子供のようですな」

 セールスマンの僕を見る表情は最初から変わっていない。

「世の中は嫁姑・兄弟・姉妹間の醜い争いに満ちている。」

 もちろん、全部ではないですがね。と、セールスマンは付け加えることを忘れない。

「争いの元は単純です。『自分の考えが一番正しく、自分以外の人は正しくない』と思っているからです。『自分が持つ常識のものさしが正確無比で、他人のものさしは狂っている』『自分のものさしで計れないものは、全てダークサイド』と」

 心当たりがあるでしょう?とセールスマンの目が言っていた。

「私どもの考えは一つ。その約束された命の終わりまで穏やかに過ごせるように、です。たとえ周囲にとっては暴力や暴言で手に負えない人物であっても、本人が望む世界においてやれば変わるんですよ。だからこそ、モニターで対面させる以前に、検査をし、過去を調べさせていただいたでしょう?」

「あ、あれで?」

「詳しい説明は省きますが、元々人はね、自分の見たいものを見て、見たくないものは見ない生き物なんです。脳の構造や働きは複雑ですが、ゆえにその持ち主にすら嘘をつく器官ですからね」

 人の脳の不思議。

「なんでしたら、今すぐでも、貴方にもアレが咲子さんだと思えるようにすることは可能ですよ?試しますか?」

 僕は、モニターに映る母と、ソレを見た。

 母が、笑っている。

 数十年前、観光で行ったコロニー―それはその成り立ちと形状から九龍城と呼ばれていた―での事故。壊れた壁から外へと吸い出されていくもの。飛ばされようとする咲子を必死でつかんでいた母の手が、その吸引力に負けてしまった瞬間。無常にも咲子が吸い出されたその後に隔壁が降りて、僕と母だけが命を拾った。

 あの日以来失われた笑顔が輝いていた。

 何も言えない。

「心配することはありません。他の入所者は貴方のお母様もアレも認識しません。あそこは、お母様とアレだけの楽園です」




「お母さん」

「ああ、東樹、帰るのね?」

 僕を見る母は、昔、幼いときに見た穏やかでやさしい母と同じだった。

「はい。仕事もありますから」

「東樹、咲子の事、まぁ長いこと私に隠していたわね」

「お母さん」

 母へのシナリオは、咲子があの事故後救助されたものの傷は深く、治療できる時が来るまで冷凍睡眠処理されていた。僕はそれを知っていたが、咲子がいつ目覚めることができるのか未定だったため、母には伏せてあった。という流れだった。

「今日までの嘘をつかれていた年月分は、貴方を責めてもかまわないでしょう?」

 母はいとおしげにソレを抱きしめ、頭をなでつつ言葉をつむぐ。

「お母さん」

「帰りなさい、東樹。私のことは心配要らない。貴方はサエコさんを大切になさい。私は咲子と、ここで暮らすから」

「お母さん」

 僕には、母にそれ以上の言葉が出てこない。

「サエコさんに私が「ありがとう」と言っていたと伝えなさい。あの竹を割ったような性格は時に頭に来たし、それで衝突したりもしたけれど、後に引くような味の悪さがない女性だったから、お前にはもったいないくらいよ。大切になさい」

「ごめんなさい。そして、ありがとうお母さん」

 僕は、ソレを見た。

「母さんをよろしく」

 それは、母の腕の中で小さくうなづいた。




 入所させてしばらくは、何かにつけて電話をしていたが、やがて半年に一回かけるかどうかになった。

 母は、笑顔ですごしていたのだ。震災のその日まで。

 あの日、母が何を思ったのか知るすべがないわけではなかった、が、僕は母の腕の中にあるものはそのままに、母と共に葬送した。

 かつて、助けられなかった娘をその手にしっかりと抱いて逝ったのだ。きっと、その最後の瞬間まで、母は咲子を守ることに持てる力を注いだに違いない。

 あの姿がそれを証明しているのだから、それ以上は必要ないだろう。妻ならそう言う。

 母と、母が咲子と信じ続けたソレを、僕は二人の生活の場だった火星の大地に葬った。

 母の家族、母の血縁は、僕以外もういない。

 だから、母をこの大地に残しても、文句を言うものは誰もいない。

 全ての手続きは終わった。

 そうだ、いずれ僕もこの大地へ移住しよう。母の傍に骨を埋めよう。心にそう誓い、僕は帰路についた。




 震災後の仮住まい。集合住宅には、暖かな灯り溢れている。ただ一つを除いて。

ブラックホールのように光を放たない窓。僕の部屋だ。

 その暗い部屋の扉に鍵を差し込んで開ける。

「ただいま」

 いつもの癖でそう呼びかけ、スイッチを探る。

「おかえりなさい、あなた」

 奥からゆっくり影が出てきた。

 明るくなりつつある廊下で、一瞬それがのっぺらぼうのアンドロイドに見えた。が、光が満ちたとき、そこに立っていたのは穏やかに微笑む妻。

「人は自分の見たいものを見て、見たくないものは見ない生き物」

 かつて聞いたセールスマンの言葉が浮かんで消えた。

 母がそうだったように僕もまた、救えなかったという傷を隠すように、癒すように、望むものを見て生きていく。

 そここそが、楽園。

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こんにちは逢矢と申します。 短編とのことで、早速拝見させていただきました。 SFといえば銀英伝くらいしか読書経験がないジャンルでしたが、拝見してこれは確かにSFジャンルだけど、主軸は家族とか介護とか…
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