遡る記憶は
私は生まれて間もなく、お父様や屋敷の使用人達にはあまり好かれていない事を、感じていました。
原因は、表情の無い、この顔だと思っております。
しかしながら私は、まるで壊れてしまった人形の様に、強い感情を表現することが出来ませんでした。
そのせいで随分と、屋敷では気味悪がられておりました。
しかしお母様は決して私を疎かにすることなく、愛してくださいました。
私が、私として、この屋敷で生きてこられたのは、ひとえに、見捨てず愛してくださったお母様のお陰でございます。
そんな私には、幼い頃を共に過ごした歳の近い幼馴染がおりました。
彼の名はトーニ。
彼は子爵家の三男で、優しく微笑んで、一緒に遊んでくれたのです。
その眩しい金の髪に透ける太陽のようなお方でした。
時は流れ、我が家に嬉しい出来事が起きました。
妹のジェシカが誕生したのです。
3つ下の妹は、まるで大輪のバラのような可愛らしさで、目に入れても痛くないとはこのことだと存じます。
我が家は街の祭典と見まごうほど、三日三晩、祝福の声が響きました。
満開の花のように笑う妹は、両親や使用人の方々から、とても可愛がられて育てられました。
妹はすくすくと成長し、誰もが振り返る様な美少女に成長いたしました。
そう、あれは12回目の妹の誕生日パーティーの日でございます。
妹とトーニの婚約が、発表されました。
青天の霹靂とはこの事で、お父様と妹がトーニを甚く気に入っていたのを存じておりましたが、まさか…妹の婚約者になるなんて、全く、想像も、しておりませんでした。
当時は何故だか、心の底から妹を祝えないことに戸惑い、パーティーの途中なのに自室に引き返してしまいました。
よく分からぬまま、涙を流してしまいました。
あの日からしばらく、トーニと妹とは顔を合わせることは出来ませんでした。
もともと本邸の側の別宅に住んでいたので、私が本邸に行かない限り会うことはありませんでした。
トーニは何度か訪ねてまいりましたが、私はいないと女中に伝えていただいていました。
それから3年の時をこの別宅で過ごし、ついに本邸に行かなくてはならなくなったのです。
私の誕生日パーティーでございました。
そこで、私の婚約が発表されたのです。
お相手は隣国ガニエ帝国の第4皇子、カルロ・ガニエ様でした。
ガニエ帝国は、今だ内戦が酷く、近くの小国に影響を及ぼすほどです。
和平交渉の、ための政略結婚でした。
3日後にはガニエ帝国に出発すると告げられました。
そんな突然のことに声をあげようと顔をあげたのですが、お父様の、初めてみる私に向けられた屈託のない笑顔に、私は、なにも言えませんでした。
ガニエ帝国に行く前夜、私はトーニと幼い頃を過ごしたこの別邸の直ぐそばの湖を見つめておりました。
私はきっとまた、夢に見るのです。
このほとりで、過ごしたことを。
「ソフィー…」
背後から小さく名を呼ばれました。
「…アントニー様」
振り返ると、酷く傷ついた顔をしたトーニがおりました。
数年ぶりに見るトーニは、あの頃と違って太陽の様な輝きに月夜のような妖艶な美しさをお持ちでした。
「やっと…やっと会えたと、まさか2度と会えなくなるなんて…君は…学院に行くものだとばかり…」
そっと近づき、手を取られました。
やんわりと手を離して彼と距離をとりました。
今にも泣きそうな顔をしたトーニが目に入りました。
いくら私たちだけとは言え、誰が見ているかわかりません。
彼にとって不名誉なことはしたくないのです。
「ソフィー…行かないでくれ…」
私の前で片手で顔を覆い、声を押し殺して泣く彼は…月よりも美しく、私が、触れていいものではありませんでした。
出発の日、私は誰にも告げず、まだ太陽が昇りきる前に馬車を走らせました。
ガニエ帝国は内戦が酷く、国境を越えることすら難しいのは有名なことです。
ですが澄んだこの空のように、なぜか私は、幸せにございます。
ですからお母様、私が死んでも、決して、決して悲しまないでくださいませ。
私は逃げたのです。
手が届いてしまいそうな、恋い焦がれた月に、恐れを抱いて。
思えばあれが、私の初恋だったと思います。