第三百五十九夜 おっちゃんとパン種
ある朝、通りを歩いていると「パン泥棒!」の声が聞こえた。
視線を向けると、難民と思わしき子供が、パンを抱えて石畳の上を走っていた。子供の行く先にはビアンカが歩いていた。
ビアンカが軽く子供に足を掛けて、子供を転ばせて、落ちたパンを取り上げる。
子供は悔しそうな顔をして、パンを諦めて逃げていった。
後から子供を追ってきた太っちょのパン屋主人に、ビアンカはパンを差し出す。
「はい、盗まれたパン」
パン屋の主人は息を切らせて「ありがとう」と口にする。
ビアンカが澄ました顔で、三枚の十銅貨貨幣を手にして告げる。
「でも、これは地面に落ちたから、もう、売り物にならないわね。よかったら、買い取ろうか。銅貨三十枚で」
「すまないね」と口にしたので、ビアンカか十銅貨三枚で支払いを済ませる。
ビアンカはパンの汚れを払う。落ちたパンを気にした様子もなくビアンカは口に運ぶ。
近くにいた難民の子が、物欲しげにビアンカのパンを見ていた。
ビアンカはパンをちぎって、汚れていない綺麗な部分を見せる。
「よかったら、あなたも食べる」
難民の子が恐る恐る手を出す。
ビアンカはパンを手渡した。子供は他人に取られないように急いでパンを食べる。
他にもいた難民の子が手を出すと笑顔で告げる。
「ちょうだいって、ちゃんと言わないとあげないわよ」
「ちょうだい」と子供が口にすると、ビアンカは綺麗な部分をちぎって渡す。
わらわらと子供が寄ってくる。
ビアンカは汚れた部分以外のパンを子供たちにちぎって渡した。汚れた部分は子供たちから見えないようにしまった。
パンがなくなると子供たちは消え、ビアンカは歩き出す。
ちょっと気になったので尾行する。
ビアンカは河の畔に行き、休んでいる水鳥たちに汚れたパンを振舞っていた。
(落ちたパンやけど、これでパンは、みんな腹の中に収まったわけやな)
おっちゃんは冒険者ギルドに戻り、依頼掲示板を確認する。
一件の依頼に目が留まった。パン職人からの依頼だった。
内容は『芸術家の霊廟』からのパン種の入手とあった。
「パン種って、あのパンに混ぜて、パンを膨らませるパン種か?」
おっちゃんは気になったので、カサンドラに尋ねる
「パン種の入手の依頼があったけど、『芸術家の霊廟』でパン種なんて、取れるの?」
カサンドラが、にこやかな顔で教えてくれた。
「記録を見ると、『芸術家の霊廟』で謎の粉が取れたとあるわ。その粉に小麦と水を入れると、パンが膨らんで美味しくなった、とあるから、パン種を作る粉が存在するわね」
「モンスターがいないだけでなく、そんな粉まで出るとは、変わったダンジョンやねえ」
カサンドラの表情がわずかに曇る。
「でも、その依頼は、難しいわよ。ただのパン種では駄目なのよ。依頼人が欲している品は麬に加えるだけで、美味しいパンができるパン種よ」
「麬って、小麦を挽いた時に出る小麦の外皮やろう。そんなん、麬だけで美味しいパンなんて、できるん?」
カサンドラも曇った表情で同意する。
「普通は、できないわ。でも、依頼人が欲しがっている品は麬から美味しいパンを作れるパン種なのよ」
「そんなの、無理やで。麬は、麬や。小麦粉と違う。麬だけで美味しいパンができたら、魔法や」
「そうなのよ。でも、依頼人のガルシアさんは、難民向けに配れる安価で美味しいパンを造りたいそうなのよ」
「なるほど。小麦粉やなく、麬から美味しいパンができれば、コストは抑えられる。そうなれば、大量に配れるか。でも、難しい依頼やな」
カサンドラが浮かない顔で語る。
「今のところ、ビアンカさんだけが挑戦しているわ。いくつかパン種を持ち帰っているけで、どれも、まあまあの美味しさのパンになるだけで、美味しいってところまでは、いかないんだって」
「命懸けて取ってきたパン種が、使えんか。それは辛いな。よし、おっちゃんも何か手はないか、探してみよう」
おっちゃんは街のパン職人ギルドを訪ねる。
「すんまへん、パン職人の方で、麬を使ったパンを作る名人って誰か、教えてくれませんか」
ギルドの受付にいた男が、冴えない表情で答える。
「バレンキストのパンは、製粉した小麦粉から作るホワイト・ブレッドがほとんどです。全粉粒のブラウン・ブレッドは、好まれないんですよ。ブラウン・ブレッドを焼く有名な職人となると、二人だけですよ」
「どなたと、どなたですか?」
「宗教的な理由でブラウン・ブレッドを焼く法王庁のダビットさん。あとは、難民向けのパンを考案中のガルシアさんですよ」
(ガルシアはんは依頼を出していた男やから、望みが薄い。となると、法王庁のパン職人の、ダビットはんか)
おっちゃんは法王庁のダビットを訪ねた。
ダビットは休み時間に会ってくれた。ダビットは痩せた小柄な老人のパン職人だった。
「わいは、おっちゃんの愛称で親しまれる冒険者です。パン職人組合でブラウン・ブレッドを焼く名人を紹介して欲しい、と頼みました。そしたら、ブラウン・ブレッドを焼く一流職人としてダビットはんを教えられました」
ダビットは皺々(しわしわ)の顔を顰めて答える。
「儂は一線を退いたパン職人だよ。ただ、縁あって、法皇様と一部の聖職者のためにブラウン・ブレッドを焼いている。それだけの、ただの爺じゃよ」
「そんな言葉を拒絶せんと教えて欲しい、麬で美味しいパンを焼く仕事は可能でっか?」
ダビットが難しい顔で答える。
「そんなものは無理じゃ――と答えたいところだが、実は可能じゃ。それも、それほど腕のよくない職人でもできる方法がある」
「ありますの。やっぱり、年季の入った職人は色々と知っておりますね。どうすればええんですか?」
「方法は、二つある。一つは小麦粉以外の粉を使う方法だ。やってみればわかるが、豆の粉や米の粉でも混ぜれば、それなりに美味しいパンが焼ける」
「そうやなくて、麬だけで作る美味しいパンでっせ」
ダビットが顔を顰めておっちゃんを嗜める。
「これ、そう、答を急ぐ出ない。もう一つは、特殊なパン種を使う方法だ」
ダビットが天を仰ぎ、昔を懐かしむ顔で語る。
「儂がまだ若い頃、とてつもなく美味いブラウン・ブレッドを食べた。あまりの美味さに秘訣はなんだ、と教えを請うた。すると職人は笑って真っ黒なパン種を見せてくれた」
「真っ黒なパン種なんて、ありますの?」
ダビットが頷いて答える。
「儂も初めて見た。見慣れないパン種だったが、あれは間違いなく、パン種だった。あの真っ黒なパン種を加えて熟成させれば、麬だけでも美味しいパンが焼けるじゃろう」
「そんで、その黒いパン種を持つ職人って、誰ですか?」
ダビットが険しい顔で答える。
「大悪魔のバトルエルじゃ」
「そんなん、入手は不可能やないですか」
「かもしれんな」
ダビットは素っ気ない態度でそれだけ答えると、仕事に戻っていった。
おっちゃんが冒険者ギルドに戻ると、ガルシアの依頼票が外されていた。
カサンドラに尋ねる。
「ガルシアはんの依頼は、取り下げになったん?」
「ビアンカさんが持ってきたパン種でパンを造ると決めたんだって。味に拘りたかったけど、これ以上はビアンカさんに無理をさせられないし、難民の食糧事情も困窮きわまっているから味では妥協するんだって」
「そうか。まあ、そこそこ美味いパンで、腹が膨れるなら、問題ないか」