第二百七十一夜 おっちゃんと凶龍
夕方になった。おっちゃんはマーカスに声を掛ける。
「マーカスはん、晩飯にしようか? 保存食でよければあるで」
鍋の傍でひたすら煮込みを続けるマーカスが、ぶっきらぼうに答える。
「保存食は嫌いなんだ」
「そうか。なら、どこかで飯を調達してくるわ」
おっちゃんはゲタの許に移動する。ゲタは相変わらず釣りをしていた。
「保存食やない食い物が欲しいんやけど。どこに行ったら手に入るか教えて」
ゲタは顔で横を示した。大きなバスケットが置かれていた。
「卵サンド、チキン・サンド、ヨーグルトが入っている。今日の晩飯と明日の朝食にすればいいだろう。昼食は必要ない。上手く行けば、ここで明日の昼食を摂る状況にあるだろうからな」
おっちゃんはゲタの好意を、ありがたく受け取った。
「ありがとう、ゲタはん。ほな、サンドイッチとヨーグルトを貰っていくわ」
ゲタから食料を調達して、マーカスの許に戻る。
「マーカスはん、サンドイッチを調達してきたで。区切りのよいところで飯にしようや」
少しの時間を置いてマーカスがやってくる。マーカスが警戒しつつも卵サンドを口にした。
おっちゃんは飯を喰いながら尋ねる。
「ところで、マーカスはんは、大きな鍋で何を作ってるん?」
マーカスはおっちゃんの言葉に、不機嫌そうな顔で答える。
「凶龍の雛を殺す毒を造っている。凶龍が生まれてくれば倒す行為は困難だ。まだ、卵が孵らないうちに、卵に小さな穴を空けて毒を流し込んで、凶龍の雛を殺す」
「いつまでにできればええの?」
マーカスが険のある顔をして答える。
「毒は朝までには完成する。でも、凶龍の卵ももうじき孵るから、時間との勝負になるだろう」
「そうか。もし、毒を作るのが間に合わなかったらどうするん?」
マーカスは首からぶら下げた小瓶を見せた。
「もし孵化したら、『変化の滴り』で同じドラゴンになって戦うしかないだろう。凶龍の呪われた体には、同じ龍でしか傷つけられないと聞く」
おっちゃんは考え込む。
(ドラゴンに変身か。以前のおっちゃんなら、小さくてもドラゴンにはなれんかった。だが、今ならどうやろう? 小型のドラゴンなら、行けるやろうか?)
考え込むおっちゃんにマーカスがムスッとした顔で言葉を掛ける。
「『変化の滴り』を使っても、俺にはドラゴンになれないと思っているんだろう。大丈夫だ。一度は試した。俺だってホイソベルク人だ。小さくていいなら『変化の滴り』を使えばファイヤー・ドラゴンには、なれる」
「そうでっか。ほな、万一の時は、お願いしますわ」
食事が終わると、マーカスは作業に戻っていった。
おっちゃんは仮眠を摂った。おっちゃんは夢を見た。
夢の中ではギーザが凶龍の卵の上で鈴を鳴らして踊っていた。ギーザの踊りが終わり鈴の音が止まったところで、おっちゃんは目を覚ました。
目を覚ますと夜が明ける少し前だった。凶龍の卵には梯子が掛けられていた。
マーカスが大鍋の中から汲んだ毒を卵の中に流し込んでいる作業の最中だった。
(作業は順調のようやね)
おっちゃんもマーカスの作業を手伝うために、卵に近づいた。
卵に亀裂が入った。次の瞬間、卵を割って凶龍の雛が頭を出した。
卵に掛かっていた梯子が倒れ、マーカスが地面に投げ出された。マーカスの焦った声がする。
「しまった。『変化の滴り』が入った瓶が」
マーカスが、地面に置いてあった剣を慌てて拾う。
(『変化の滴り』がなくなってしもうた。おっちゃんの出番やね。うまくいくやろうか)
おっちゃんは、まず距離を充分に取ってから、鼠の姿を念じて小さくなる。鼠になって服の間から抜け出して、次にファイヤー・ドラゴンの子供の姿をイメージする。
おっちゃんの体が急速に膨らみ、体長六メートルのファイヤー・ドラゴンに姿を変えた。
(どうにか、いけたで。体長五メートルの変身は自己新記録やな)
おっちゃんは地を疾走した。卵の前で急ブレーキを掛けて止まり、ドラゴン・ブレスを浴びせる。
燃え盛る炎の息が、卵から生まれた凶龍の雛を襲う。だが、凶龍の雛は火傷一つ負わなかった。
卵の殻を割って、体長十mほどの全身が真っ黒な雛が出て来る。
(雛で全長が十m。炎に対して完全に耐性があるって無茶苦茶やで。これは、成長させたらあかんな)
おっちゃんは爪のついた大きな手を振りかぶって、叩きつける。
ファイヤー・ドラゴンと化したおっちゃんの爪が凶龍の雛の体を裂いた。
(マーカスはんの言った通りや、ドラゴンの爪ならダメージが通るで)
凶龍の雛がおっちゃんを振り払うように手を振った。おっちゃんは回避して、二撃目、三撃目を入れる。
凶龍の雛が両手を振り上げて、おっちゃんに叩き付けた。
おっちゃんは後ろへ跳んで躱してから、凶龍の雛の喉笛に噛み付いた。
凶龍の雛が力強く暴れ回って、おっちゃんを振り払おうとする。
凶龍は雛でも力が強い。おっちゃんの体は激しく揺さぶられ、弾き飛ばされた。
マーカスの大きな声がする。
「そいつの弱点は、腹の少し下の辺りにある。弱点を狙え!」
おっちゃんは体勢を立て直すと、凶龍の雛に目掛けて突進する。
凶龍の雛が、翼を拡げて空に逃げようとする。だが、凶龍の雛は体を痙攣させる。凶龍の雛は翼が上手く開けず、棒立ちの姿勢になった。
(中途半端に浴びた毒が効いている。倒すなら今しかない)
おっちゃんは大きく口を開けて、凶龍の雛の腹の下に食いついた。血の味はしなかった。代わりに、なんともいえない苦い味が口に広がる。
弱点に強烈な一撃を受けた凶龍の雛の翼から力が抜けた。そのまま凶龍の雛が後ろに倒れ込む。
おっちゃんは凶龍の雛の弱点を噛み切って、凶龍の雛の肉を吐き出した。
倒れた凶龍の雛から黒い煙が立ち上り、凶龍の雛は空中に溶けるように消えて行った。
おっちゃんは人間の姿を念じて人の姿に戻って、地面に座り込む。
「ふー、なんとかやったで。これ、毒がなかったり、雛やなかったら、倒すのは難しかったで」
マーカスが興奮した顔で喜んだ。
「やったな。おっちゃん、ありがとう、礼を言うよ。これで、ホイソベルクに迫っていた脅威が取り除かれた。終末だ、なんだと、簡単に滅びて堪るかってんだ」
おっちゃんの耳に微かな鈴の音が聞こえた。視界の端で、黒い服を着た誰かが動いた気がした。
確認しようとしたが、誰もそこにはいなかった。
おっちゃんは脱いだ服の許へ行って、服を拾い上げる。服は脱げたときに水溜まりに落ちたので、濡れていた。おっちゃんはパンツ一枚を身に着けて服を乾かした。
「今が夏で、助かったで。冬やったら、大変やった」
おっちゃんは服を乾かすと、マーカスと別れてゲタの許に戻る。
ゲタが池の畔でゴザを敷いて寝ていたので、おっちゃんも近くで軽く睡眠を摂った。




